第27話 【隠猟庭】からの使者
好材料は、グレゴリーが【鑑定】を持っていないこと。
悪材料は、極めて疑り深く、【血月と狩猟の神】へ狂信的なまでの信仰を捧げていることだった。
俺は一度目の人生で、教会が残した彼の記録を読んだことがある。
レベル49の高位職業者。
首に掛けられた指骨は、その一本一本が、彼自身の手で狩った強敵から奪ったものだ。
そんな人間が、なぜ王都の第二級拠点【祈祷所】にいるのか。
おおよその見当はつく。
十中八九、一年後に行われる三都市同時献祭の準備だ。
血月教団は、大規模な祭祀に適した場所を探している。
カラウ通りの地下に存在する古代祭壇は、間違いなく彼らの関心を引いたのだろう。
グレゴリーの出現は、確かに想定外だった。
だが、計画が破綻するほどではない。
俺は当初、この拠点の責任者を平凡な神官だと考えていた。
だからこそ、【祭堂から派遣された上使】として高圧的に振る舞った。
だが、目の前にいるのは百指司教だ。
同じ態度を維持するわけにはいかない。
俺は右手を上げた。
二本の指を喉元の前でゆっくりと滑らせる。
続いて胸元へ押し当て、頭を下げたまま三呼吸分静止した。
「鮮血は血月へ帰す」
「獲物は我らが神へ捧ぐ」
血月教団の正式な構成員同士が交わす礼法だ。
グレゴリーは小さく頷いた。
俺の作法が規範どおりだったことに、ひとまず満足したらしい。
俺は顔を上げた。
「まさか、この場所で伝説の百指様にお目にかかれるとは思いませんでした」
グレゴリーが俺を見る。
「私を知っているのか?」
「強敵の指骨を用いて狩りの記録を残すお方」
「かつて高位職業者を七日七晩追い続け、単独で暗殺したとも聞いております」
俺は、彼の首に掛けられた指骨の首飾りへ視線を向けた。
「血月の下で、あなた様の異名を知らぬ者はほとんどおりません」
グレゴリーは、世辞を受けた程度で警戒を緩めなかった。
血を拭い終えた短剣を、腰の鞘へ戻す。
「祭堂が、なぜここへ人を寄越した?」
「緊急情報をお伝えするためです」
俺は答えた。
「オルドラン教会は今夜、この拠点を掃討します」
室内が、一瞬で静まり返った。
グレゴリーの眼光が鋭くなる。
「情報源は?」
「教会内部です」
「すでに作戦会議は始まっています。次の鐘が鳴ったあと、カラウ通りは封鎖されるでしょう」
俺はわずかに間を置いた。
「そして、彼らの目的は信徒の掃討だけではありません」
「地下にある太古の祭壇、その秘密を教会は掴んでいます」
グレゴリーは、すぐには返答しなかった。
石台へ歩み寄り、まだ冷えきっていない死体へ手のひらを置く。
「お前は何者だ?」
「近隣の祭堂で、お前を見た覚えがない」
「なぜ仮面で顔を隠している?」
「外せ」
俺は動かなかった。
「私は、いずれの祭堂にも所属しておりません」
「【隠猟庭】の者です」
グレゴリーの目が、わずかに変化した。
隠猟庭。
血月教団において、潜入、転向工作、暗殺を専門とする秘密部門だ。
所属する者たちは、正統教会、貴族の屋敷、冒険者ギルド、さらには他の邪教の内部にまで潜伏している。
固定の拠点を持たない。
現地の神官へ、本当の身分を明かすこともない。
「この仮面については――」
俺は平静な声で続けた。
「任務中の隠猟庭構成員は、任務と無関係な者へ素顔を晒すことを禁じられております」
「百指様が相手であっても、それは変わりません」
グレゴリーは目を細めた。
「誰の命令で来た?」
「【黒角】です」
グレゴリーが、不意に笑い声を漏らした。
「なるほど」
「だが、お前は知らないようだな」
「黒角は三年前、北方で死んだ」
俺は間を置かず答えた。
「北方で死んだのは、彼の身代わりです」
「それに、黒角は血鴉を使って連絡を取りません」
「緊急命令を運ぶのは、左耳を切り落とした灰兎の伝令だけ」
「封蝋には、必ず猟犬の骨粉が混ぜられています」
グレゴリーの笑みが消えた。
それは、一般の信徒が知り得る情報ではない。
近隣の祭堂に所属する神官でさえ、黒角が生きていることを知らない者が大半だ。
「どうやら、実際に会ったことはあるようだな」
グレゴリーが言った。
「だが、もう一つ聞きたい」
「教会がすでにこの場所を発見していたのなら、なぜ今まで動かなかった?」
「これまで、祭壇がまだ機能していることを知らなかったからです」
俺は答えた。
「最近、第一次神戦の遺跡に関する情報が、何者かによって教会へ提出されました」
「調査の結果、この周辺に祭壇が存在することを確認したのでしょう」
「彼らは今夜、祭壇を破壊するために来るのではありません」
「占拠し、教会へ持ち帰って研究を続けるつもりです」
グレゴリーの指が、石台の縁を静かに叩いた。
彼が上層部から王都へ派遣された目的は、まさにあの祭壇を調べることだった。
このところ、血の供犠、神術、複数の古代祈祷文を試してきた。
だが、祭壇は一度も反応しなかった。
グレゴリー自身も、あれが何らかの秘密を隠しているのか。
それとも単純に機能を失っているのか。
判断できずにいた。
ところが今、オルドラン教会が拠点そのものを掃討しようとしている。
しかも、狙いは地下祭壇だという。
それこそ、あの古代遺跡に、自分たちがまだ発見していない価値がある証明ではないか。
撤退するか?
あり得ない。
今ここで祭壇を放棄すれば、これまでの調査はすべて無駄になる。
何より、今はグレゴリー本人がいる。
レベル49の高位職業者。
教会の進攻を食い止めるには十分な戦力だ。
あらかじめ防備を固めておけば、たとえ教会が裁判官を投入してきたとしても、数日は持ちこたえられる自信がある。
それまでに、祭壇を起動する方法を見つけなければならない。
「有益な情報だった」
グレゴリーは、ようやく笑みを見せた。
「隠猟庭から受けた助力は覚えておこう」
俺は軽く頭を下げた。
「百指様の狩りが、豊かな獲物に恵まれますように」
「もう下がっていい」
グレゴリーは、俺の潜伏先について追及しなかった。
隠猟庭の内部事情は、もともと複雑だ。
名を変える。
身分を変える。
顔さえ変える。
彼らにとっては、どれも珍しいことではない。
もし外部の人間が、血月教団の暗号、祭服、隠猟庭の存在、そして黒角の連絡方法まで同時に把握できるのなら――
血月教団は、とっくに滅びているはずだ。
俺の背後で、木製の扉が閉まった。
それと同時に、グレゴリーの笑みも消えた。
部屋は再び静寂に包まれる。
石台の血液だけが溝に沿って流れ、床へ一滴ずつ落ちていた。
「司教様」
部屋の隅にある闇が、不意に揺れた。
一つの人影が、音もなく影の中から姿を現す。
グレゴリーの背後で片膝をついた。
全身を黒い布で包み、顔にも覆面を着けている。
露出しているのは両目だけ。
明らかに、俺が部屋へ入った時点から、ずっとそこに潜んでいた。
グレゴリーは振り返らなかった。
「すべての出口を封鎖しろ」
「戦える者を全員起こせ。教会を迎撃する準備を整えろ」
「それから、先ほどの隠猟庭の者を監視させろ」
黒衣の人物が、わずかに顔を上げた。
「まだ、あの者の身分を疑っておられるのですか?」
「あいつが語った暗号と情報に、間違いはない」
グレゴリーは指先で、石台に流れる血を拭った。
「だが、私は顔の見えない人間が嫌いでな」
「気づかれるな」
「拠点を出たことを確認したら、すぐに戻って報告しろ」
「承知しました」
黒衣の人物の身体が、再び部屋の隅へ沈んでいく。
瞬きを一度する間に、その気配は完全に消失した。
グレゴリーは振り返り、部屋の奥を見た。
石壁の向こうには、地下祭壇へ続く通路がある。
平凡な神官たちには、すでに十分な時間を与えた。
これ以上、待つことはできない。
今度は、自ら地下へ降りる必要がある。
「それと」
グレゴリーは、誰もいない闇へ向かって告げた。
「祭壇を調べている者たちへ伝えろ」
暗闇の中から、再び返答が聞こえた。
「はっ」
グレゴリーは腰の短剣を握った。
「すべての記録を用意させろ」
「私が直接、祭壇へ向かう」
「教会が到着する前に、必ず起動方法を見つけ出す」




