第26話 百指司教
血月教団。
彼らが崇拝する神は、【血月と狩猟の神】だ。
現在、血月と狩猟の神は、各教会から邪神として扱われている。
だが、二百年余り前までは、諸国に認められた正神の一柱だった。
一度目の人生で、俺が異端審問庁の記録を調べた限り、血月と狩猟の神が堕落したのは、突然人類を憎み始めたからではない。
現在の七大正神の一柱、【豊穣と繁育の神】と対立したことが原因だ。
対立の詳しい理由は、すでに教会によって歴史から抹消されている。
確認できるのは、その結果だけ。
豊穣教会が、血月信仰を異端と宣言した。
それに続き、複数の正統教会も同調した。
血月と狩猟の神は正神の名を剥奪され、それまで公然と活動していた血月教団も、地下へ潜ることを余儀なくされた。
元来の血月教義が重んじていたのは、狩猟と供犠だ。
信徒は魔獣を狩り、最も強い獲物の血と心臓を神へ捧げる。
それによって、自らの勇気を証明していた。
邪教となったあとも、教義そのものは大きく変わっていない。
変わったのは、獲物だけだ。
魔獣から、人間へ。
長年、邪教と正統教会のあいだで仕事をしてきた俺にとって、血月教団は最もよく知る邪教の一つだった。
一年後、血月教団は世界を震撼させる神降ろしの儀式を行う。
三つの都市に住む民間人を、同時に生贄として捧げたのだ。
その儀式が、第三次神戦の引き金となった。
すべての正統教会が、血月教団への掃討を開始。
他の邪教も、自分たちが次の標的になることを避けるため、次々と介入した。
正統教会。
邪教。
そして神々。
それぞれの力が戦場へ注ぎ込まれ、やがて世界全体を巻き込む戦争へ発展した。
だが、最も目立つ標的となった血月教団は、皮肉にも真っ先に滅亡した。
第三次神戦が始まってから、半年も経たないうちに主要拠点はすべて壊滅。
大量の文書、書簡、儀式記録が教会の手へ渡った。
暗号。
内部制度。
構成員の名簿。
連絡方法。
一度目の人生で関連する審問に携わった俺にとって、そのどれも秘密とは言えなかった。
血月教団のような邪教は、王国内に数多くの秘密拠点を持っている。
オルドラン教会では、拠点の規模と、内部にいる高レベル職業者の人数に応じて、それらを五段階に分類していた。
第一級は【潜伏点】。
情報の受け渡しと、構成員の匿いだけを担う。
第二級は【祈祷所】。
固定の信徒を抱え、小規模な祭祀を行うことができる。
王都内部の拠点が、第二級を超えることはほとんどない。
この街には、最も多くの正統神官、聖堂騎士、異端審問官が集まっているからだ。
邪教が王都に拠点を設ける目的は、主に平民への浸透、情報収集、そして上位拠点へ生贄を送り届けること。
本当に重要な人物が配置されることはない。
ある意味、ここに残された信徒たちは、最初から捨て駒だった。
俺の袖口の内側にある三本の黒い縫い目は、第三級拠点である【祭堂】から派遣された者であることを示している。
より上位の使者へ変装しなかったのは、そうしたくなかったからではない。
第四級以上の教団服は、それ自体が祝福を施された魔法道具だ。
灰煙の闇市でも、簡単には偽造できない。
手に入れられたのは、この程度の普通の祭服だけだった。
幸い、第三級以下の血月教団では、服装の様式に大きな違いはない。
正しい合言葉。
祭堂を示す三本の黒い縫い目。
そして【鑑定】を阻害する【無貌者の残面】。
三つの証拠が揃えば、門番には俺を疑う理由がない。
問題は、この先で拠点の幹部と対面することだった。
俺は門番のあとに続き、狭い地下通路を奥へ進んだ。
石壁の両側には、一定の間隔で暗赤色の油灯が掛けられている。
空気には、血液、香辛料、湿った土が混ざった臭いが充満していた。
第二級拠点の基準なら、責任者のレベルは高くても二十台半ば程度。
【鑑定】を持っている可能性も低い。
レベル40を超える高位職業者さえ現れなければ、【無貌者の残面】の偽装が破られることはない。
門番は、分厚い木製の扉の前で足を止めた。
入口には、さらに二人の衛兵が立っている。
そのうち一人は、俺を目にした瞬間、明らかに目つきを変えた。
驚きが浮かんだのは、一秒にも満たない。
衛兵はすぐに頭を下げ、何事もなかったかのように恭しい表情へ戻った。
だが、俺は見逃さなかった。
なぜ驚いた?
俺は【無貌者の残面】を着けている。
入口を守るだけの一般信徒が、【鑑定】を習得している可能性もほとんどない。
あれほど希少なスキルを持つ人間が、ここで見張りをさせられるはずもなかった。
だとすれば、こいつは……。
俺は一瞬で理解した。
面白いことになってきた。
それでも、足取りは一切変えなかった。
何も気づかなかったかのように、そのまま前へ進む。
「祭堂から派遣された上使様だ」
門番が小声で説明した。
先ほどの衛兵は頷いた。
「司教様は、夜の祭祀を執り行っております」
「しばらくお待ちください」
俺は返事をしなかった。
その場に立ち、灰白色の仮面越しに木製の扉を見つめる。
内部から、鈍い衝撃音がかすかに聞こえた。
口を塞がれ、声になりきらない呻き声も。
しばらくして、扉が開いた。
濃密な血の臭いが、中から溢れ出す。
「上使様、どうぞお入りください」
俺は敷居をまたいだ。
部屋の中央には、石造りの祭壇が置かれている。
成人男性が、革帯でその上へ固く縛りつけられていた。
口には血の染みた布が押し込まれている。
四肢を激しく動かし、恐怖で目を大きく見開いていた。
石台の前には、司教服を纏った男が立っている。
扉へ背を向けていた。
左手で生贄の額を押さえ、右手には細身の銀色の短剣を握っている。
「血月は狩人の足跡を見届ける」
「鮮血は獲物の価値を証明する」
司教は目を閉じたまま祈りを唱え終えた。
短剣が、ゆっくりと振り下ろされる。
石台の男が、狂ったようにもがいた。
喉の奥から、形にならない苦悶の呻きが漏れる。
それでも司教は目を閉じたまま、まるで何かの音楽へ耳を傾けているかのようだった。
やがて、生贄の抵抗が少しずつ弱まっていく。
部屋が完全に静まり返った。
司教は短剣を引き抜き、白い布で刃についた血を拭った。
「申し訳ありません」
ゆっくりと振り返る。
「お待たせいたしました」
俺は眉をひそめた。
目の前で行われた残酷な祭祀が理由ではない。
石台に横たわる死体を見たからでもなかった。
俺は、この男を知っている。
わずかに窪んだ眼窩。
右の口元から耳元まで伸びる傷痕。
そして首に下げられた、百本を超える人間の指骨で作られた首飾り。
一度目の人生において、血月教団で最も名を知られた高位神官の一人。
三都市同時献祭を執行した者の一人。
【百指司教】。
グレゴリー・バルク。
レベル――49。




