第25話 【無貌者の残面】
小野寺真也の姿が、廊下の奥へ消えていった。
俺は壁際の影に潜んだまま、静かに数秒待った。
引き返してくる気配はない。
教官を呼びに行った様子もなかった。
おそらく、うまくいった。
今の小野寺は、最も誘導しやすい状態にある。
S+天賦に目覚めた。
神谷を打ち倒した。
それなのに、天城蓮と同じだけの注目は得られなかった。
その扱いの差によって、小野寺はすでに教会へ強い不満を抱いている。
俺は、壮大な正義を信じ込ませる必要などない。
資料庫の地下に保管されている記録を、見せればいい。
そこにある記録は、俺が作り上げた『雷霆の神』が実在することまでは証明してくれない。
だが、一つだけ確実に証明できる。
教会が、第一次神戦の真実を隠しているということだ。
それで十分だった。
小野寺が求めているのは、最初から真実ではない。
堂々と教会を憎むための理由だ。
教会が嘘をついていたと確認できれば、残りの物語は小野寺自身が都合よく補完してくれる。
小野寺がどのような方法で教会を抜け出し、カラウ通りへ向かうのかは分からない。
だが、心配はしていなかった。
小野寺は弱くない。
愚かでもない。
人知れず転職を終え、天賦開示の前から複数の雷魔法を習得していた人間が、本当に他人へ怒鳴り散らすことしかできないはずがない。
力への欲望を刺激された以上、必ず自分で祭壇へ辿り着く方法を考える。
俺は影を伝い、自分の部屋へ戻った。
窓を閉め直したあと、暗い色の外套を羽織り、宿舎の反対側から外へ出る。
次は、自分の準備だ。
◇
夜の灰煙は、昼間以上に賑わっていた。
顔を覆った傭兵。
華美な服を着た商人。
身体にまだ血痕を残している冒険者。
それぞれが薄暗い明かりの下を行き交っている。
誰も身元を尋ねない。
取引される品物の出所を気にする者もいなかった。
俺はまず、金貨二枚を使い、初級MP回復薬を四本購入した。
一本につき、短時間で二十前後のMPを回復できる。
連続して飲めば効果は急激に低下する。
頭痛、吐き気、魔力の乱れといった副作用も起こる。
それでも、今夜使う分には十分だった。
HP回復薬は一本も買わなかった。
【影渡り】の体質は、わずか4。
同レベルの敵から正面攻撃を受ければ、負うのは時間をかけて治療できる程度の軽傷ではない。
その場で行動不能になるか。
あるいは、即死する。
そうなれば、回復薬を何本持っていようと意味はなかった。
負傷したあとの対処へ金を使うくらいなら、発見されず、攻撃を受けないためにすべての資源を投入する。
俺は、この道を最後まで進むつもりだった。
防御を捨てる。
正面戦闘を捨てる。
暗殺が成功するまでの一瞬へ、すべてを賭ける。
回復薬を買ったあと、俺は看板のない装備店へ入った。
店内には、出所の分からない武器や防具が山積みになっている。
折れた魔法杖。
暗赤色の血がこびりついた鎧。
教会の紋章を削り取られた神官服。
そして、ガラスケースの中に置かれた灰白色の仮面。
仮面には、目も鼻も口もない。
表面に、ごく浅い黒い紋様が数本刻まれているだけだった。
「鑑定を防げるのか?」
俺が尋ねると、カウンターの奥にいた商人が両手を擦り合わせた。
「もちろんでございます」
「ある暗殺者が遺した品でしてね」
「残念ながら、その男は仕事に失敗しまして。死体すら完全な状態では回収できませんでした」
「この仮面も長く使われすぎて、内部術式の寿命がほとんど残っておりません」
「そうでなければ、金貨五枚などではお売りできませんよ」
「五枚?」
俺は商人を見た。
「壊れかけだと言っただろう」
「壊れかけているだけで、壊れてはいません」
商人は笑みを浮かべた。
「それに、この手の商品は教会の規制対象です」
「王都で灰煙以外のどこへ行けば、こんな品を買えるとお思いで?」
悪徳商人め。
俺は心の中で吐き捨てた。
金貨五枚もあれば、一般的な家庭ならかなり長い期間暮らせる。
だが、今夜の行動で正体を知られるわけにはいかない。
【鑑定】によって六つの能力値を確認されれば、その後の計画はすべて崩壊する。
結局、俺は金貨を差し出した。
商人は代金を受け取ると、ガラスケースから灰白色の仮面を取り出した。
「この品の名は――」
「【無貌者の残面】でございます」
俺は仮面を受け取った。
目鼻も口もない表面には、数本の薄い黒い紋様だけが刻まれている。
縁には、すでに細かな亀裂が生じていた。
内部に刻まれた魔法術式も、明らかに弱まっている。
仮面を顔へ装着すると、微弱な魔力が全身を包み込んだ。
俺はすぐにスキル画面を開く。
【装備スキル】
【無貌者の偽装】
このスキルにレベルは存在しません。
効果:
・Lv.20未満の対象が装備者へ【鑑定】を使用した場合、鑑定は失敗する
・Lv.20以上Lv.40以下の対象が装備者へ【鑑定】を使用した場合、最大でも六つの能力値しか取得できない
・Lv.40を超える対象の【鑑定】は阻害できない
さらに自分の能力値を見ると、魅力の後ろに補正が表示されていた。
魅力 CHA:6(+4)
魅力、プラス4。
鑑定への防御効果より、こちらのほうが意外だった。
魅力を上昇させる装備は、そもそも非常に珍しい。
魅力が影響するのは、外見だけではない。
交渉時に相手へ与える圧力。
言葉に対する信頼性。
初対面の人間から、どのような印象を抱かれるか。
そうしたものすべてに関係する。
そして、今夜の計画で最も重要なのは戦闘ではなかった。
他人に、俺の身分を信じ込ませることだ。
この魅力4の補正は、まさに絶好のタイミングだった。
【無貌者の偽装】に存在するレベル制限も、今回の用途なら十分だ。
一度目の人生の経験によれば、王都内部に潜伏する邪教徒の大半は、レベル10から20程度。
レベル20を超えていれば、ほとんどが拠点の幹部だ。
そもそも【鑑定】自体が希少なスキルだった。
通常は副職業の【鑑定士】へ就くか、それに関連する天賦を得た者でなければ習得できない。
レベル20を超え、なおかつ【鑑定】まで持つ邪教徒が、この程度の末端拠点にいる可能性は極めて低い。
今夜の運が最悪でない限り、この仮面を見破れる者はいないはずだ。
俺はさらに店内で、白い長衣と暗赤色の長衣を一着ずつ購入した。
暗赤色の長衣の胸元には、黒い線で分断された血色の月が刺繍されている。
【血月教団】。
カラウ通りの地下拠点を占拠しているのは、食淵教団そのものではない。
食淵教団は、第一次神戦のあとに姿を消している。
現在あの地下空間を使用しているのは、王都で最も活発に活動している邪教組織の一つ。
血月教団だ。
彼らは、祭壇の本当の由来を知らない。
儀式を行うのに適した古代遺跡として、あの場所を利用しているだけだった。
今夜、オルドラン教会は血月教団へ奇襲を仕掛ける。
俺の計画の第一段階は、教会が地下へ突入する前に、最深部へ到達することだ。
俺はフードを深く被り、灰白色の仮面を装着した。
新たに手に入れた短剣も、長衣の内側へ隠す。
遠くから、再び鐘の音が聞こえた。
時間がない。
◇
夜のカラウ通りは、表向きには完全に眠りについていた。
商店は扉を閉ざしている。
通りに歩く人影もない。
消えかけた街灯が数本、夜風に揺れているだけだった。
俺は、廃業した酒場の裏口へ向かった。
軽く三度、扉を叩く。
間を置く。
続けて、二度。
すぐには返事がなかった。
数秒後。
木製の扉越しに、しゃがれた声が聞こえた。
「月は、なぜ赤く染まる?」
俺は一度目の人生の記憶に従って答えた。
「子羊が、心臓を捧げることを拒んだからだ」
扉の向こうが、一瞬だけ静まり返る。
「血はどこへ流れる?」
「いまだ昇らぬ満月のもとへ」
錠が外れる小さな音がした。
木製の扉が、わずかに開く。
隙間から、一つの目がこちらを覗いた。
相手は最初に、血月教団の長衣を見た。
次に俺が着けている灰白色の仮面を確認すると、その態度が明らかに慎重なものへ変わった。
「あなた様は……」
俺は答えなかった。
ただ片手を上げ、袖口の内側を見せる。
そこには、上級使者であることを示す三本の黒い縫い目があった。
血月教団では、地域幹部以上の者だけが使用を許される印。
もちろん、偽物だ。
門番をしていた邪教徒の顔色が変わった。
即座に扉を全開にし、頭を下げて脇へ退く。
俺はその横を通り過ぎた。
魅力が上昇したことによる効果は、目に見えるものではない。
光が発生するわけでもなければ、相手の意志を強制的に支配するものでもない。
だが、俺の沈黙。
足取り。
顔のない仮面。
それらが合わさり、気軽に問いかけることを許さない圧力を生み出していた。
門番は、身分を証明する物を提示するよう要求することすらなかった。
ただ背後から、恐る恐る尋ねてきた。
「上使様は、どちらからいらしたのでしょうか?」
俺は足を止め、わずかに顔を横へ向けた。
目も鼻も口もない仮面越しに、無言で相手を見る。
門番の額から、たちまち冷や汗が流れた。
「も、申し訳ございません。余計なことを申しました」
男は深く腰を曲げ、さらに恭しい口調で続けた。
「上使様、こちらで少々お待ちください」
「ただちに司教様へお知らせしてまいります」




