第19話 オースティンからの稽古の誘い
「57」
淡い青緑色の数字が、訓練人形の胸元に浮かび上がった。
俺は短剣を引き抜き、後方へ下がる。
手の中にある黒い刃が、わずかに揺れた。
その輪郭は煙のように絶えず崩れ、すぐに再び集まって形を取り戻す。
これは教会から支給された制式短剣ではない。
魔法だ。
【影刃】。
影を魔力で圧縮し、短剣の形に固定する攻撃魔法。
与えるダメージは筋力ではなく、知力によって判定される。
一度目の人生で得た知識をもとに、俺が初めて習得した攻撃系の影魔法だった。
時刻は夜。
通りから教会へ戻ったあと、パンと肉入りのスープで簡単に食事を済ませ、俺は一人で教会の勇者訓練所へ来ていた。
帰る途中、何人ものクラスメイトと顔を合わせた。
笑う者がいた。
哀れむような目を向ける者もいた。
わざと視線を逸らし、何も知らないふりをする者もいた。
だが、大半はそもそも俺に関心を持っていなかった。
一度目の人生と、何も変わらない。
俺は誰にも反応しなかった。
他人からの同情も嘲笑も、力には変わらない。
そんなものを気にする時間があるなら、一度でも多く刃を振ったほうがいい。
俺は手の中の【影刃】へ視線を落とした。
魔法の構造そのものは、極めて単純だ。
周囲の影を集める。
魔力で形を固定する。
さらに圧縮し、物体を切断できるだけの刃へ変える。
原理は単純でも、実際に制御するのは簡単ではない。
影の形は、光の向きや強さによって絶えず変化する。
ほんのわずかに集中が途切れただけで、刃は形を失い、崩れ去ってしまう。
だが俺は、わずか数時間で【影刃】を安定させることに成功した。
これには、自分でも驚いていた。
【元素掌握】を持つ神谷のような天才でさえ、転職後に初級魔法を一つ習得するまで、三日から四日はかかる。
一般的な魔法使いなら、初級魔法一つに一か月近く費やすことも珍しくない。
それを俺は、一日もかからず成功させた。
これが、【影渡り】。
筋力と体質をほとんど捨て、そのすべてを暗影へ集中させた職業だ。
極端な特化は、間違いなく危険を伴う。
だが、得意とする道へ足を踏み入れた瞬間、その成長速度は一般的な職業を遥かに上回る。
俺は再び、魔法訓練人形の背後へ移動した。
訓練所に置かれている人形は、魔法素材から作られている。
攻撃によって生じたダメージを記録し、一部のスキル判定を再現することもできた。
もっとも、これは最も簡素な訓練設備だ。
【暗殺】のようなスキルでも、再現できるダメージ倍率は最大二倍まで。
俺は気配を抑え、【影刃】を構えた。
突き刺す。
湿った音とともに、黒い刃が訓練人形のうなじへ沈んだ。
【対象は攻撃者の存在を認識していません】
【スキル【暗殺】が発動しました】
【ダメージ倍率:2倍】
【与ダメージ:57】
また57。
現時点で俺が出せる、ほぼ最大のダメージだった。
【影刃】は知力によって攻撃判定が行われる。
筋力が3しかないという弱点を回避できる。
さらに背後から攻撃し、【暗殺】も発動させている。
それでも、57。
防御力を持たない訓練人形が相手なら、悪くない数字に見える。
だが、実戦は違う。
対象の体質によって、ダメージは軽減される。
防具によっても軽減される。
防御系の魔法道具を所持していれば、さらに威力は下がる。
57のダメージなら、同レベルの一般人へ重傷を負わせることはできるだろう。
だが、安定して一撃で仕留めるには程遠い。
今の俺にできるのは、戦場で負傷した敵を探し、最後の一撃を加えることくらいだ。
できるだけ早く、【弱点攻撃】を習得する必要がある。
あるいは、属性ダメージを追加できるスキルをもう一つ手に入れる。
倍率をあと一段重ねるだけで、攻撃の威力は別の段階へ入る。
俺は【影刃】を散らし、スキル画面を開いた。
それぞれの熟練度を確認する。
【習得済みスキル】
【暗影初級習熟】Lv.1
熟練度:56/100
【暗殺】Lv.1
熟練度:43/80
【影刃】Lv.1
熟練度:14/60
【影潜行】Lv.1
熟練度:31/120
スキルによって、レベルアップに必要な熟練度は異なる。
複雑で、将来的な発展性が高いスキルほど、多くの熟練度を要求されるのが普通だ。
必要量が最も多いのは【影潜行】。
今日だけで何度も使用しているが、まだ三十一しか溜まっていない。
習得したばかりの【影刃】は十四。
本当に異常なのは、【暗影初級習熟】と【暗殺】だった。
どちらも、すでに必要量の半分を超えている。
昼間、神谷を攻撃した際に得たものだろう。
訓練人形は、所詮、本物の敵ではない。
実戦用のスキルにとって、抵抗する力を持つ相手を攻撃したときに得られる熟練度は、訓練を繰り返した場合よりも遥かに多い。
それでも、実戦による補正を考慮したところで、この速度は異常だった。
一度目の人生で戦士へ転職したあと、俺が最初に覚えた職業スキルは【盾撃】だった。
【盾撃】をレベル1からレベル2へ上げるため、毎日数時間訓練し、十日以上を費やした。
それが今では、わずか半日で二つのスキルが半分以上まで進んでいる。
成長適性は、4から13へ上昇した。
さらに【暗影初級習熟】によって、熟練度の獲得量が二十パーセント増えている。
二つが重なった効果は、予想していた以上に大きい。
この速度なら、今夜のうちに少なくとも一つはレベルを上げられる。
俺はパネルを閉じ、再び魔力を練った。
足元の影が、両脚に沿って這い上がる。
やがて右手へ集まり、黒い短剣の形を取った。
訓練人形から得られる熟練度は少ない。
同じ動作を繰り返せば、獲得量はさらに低下していく。
それでも、増えることに変わりはない。
一度目の人生と比べれば、今の成長速度は理不尽なほど速かった。
時間を無駄にする理由はない。
俺は顔を上げ、訓練所の高い位置にある窓を見た。
外は、すでに完全な闇に包まれている。
今夜の行動まで、まだ数時間あった。
カラウ通りは、教会からそれほど遠くない。
だが、早く現場へ向かいすぎるわけにはいかなかった。
匿名の密告状に書いたのは、場所と地下入口についてだけだ。
教会が即座に信用するだけの証拠までは残していない。
おそらく、まずは少人数を派遣して状況を確認する。
邪教徒の存在を確認してから、実際の戦闘要員を集めるはずだ。
一度目の人生で異端審問庁に勤めていた経験から考えれば、教会が夜間の掃討を実行するのは、八度目と九度目の鐘のあいだになる可能性が高い。
早すぎれば、まだ通りに多くの市民が残っている。
遅すぎれば、標的に異変を察知される。
それまでに、もう一度小野寺へ接触しなければならない。
可能なら、灰煙へ立ち寄り、いくつか道具も買っておきたい。
俺は衣服のポケットへ触れた。
中には金貨が八枚入っている。
教会は、俺たち異界人に対して、金銭面ではかなり寛大だった。
個人手当として、毎日銀貨二枚が支給されている。
一度目の人生で異端審問官見習いになったあとの基本給でさえ、一日銀貨一枚だった。
王都で働く一般的な労働者なら、一日の稼ぎは銅貨五枚ほど。
異界人が毎日受け取る金額は、普通の労働者のおよそ四倍だ。
俺は普段、教会からほとんど外へ出なかった。
買う必要のある物も、それほど多くない。
数か月かけて貯めた結果、多少使ったあとでも、手元にはまだ金貨八枚が残っていた。
本格的な魔法装備を買うには、まるで足りない。
それでも灰煙なら、安価な使い捨ての魔法道具をいくつか揃えることはできるだろう。
俺は再び、魔法訓練人形へ目を向けた。
作戦が始まるまで、まだ強くなれる。
人形の背後へ移動する。
気配を消す。
角度を調整する。
「55」
今度は、攻撃する位置がわずかにずれた。
【影刃】を引き抜き、もう一度立ち位置を探る。
「58」
熟練度が一つ増えた。
暗影への感覚が、誰かが訓練所へ近づいていることを捉えた。
俺は【影刃】を消し、代わりに普通の短剣を抜く。
【影潜行】も使わず、訓練人形への攻撃を繰り返した。
「7」
やはり、魔法を使わなければダメージは急激に下がる。
「随分と熱心だな」
突然、背後から声がした。
俺は動きを止め、振り返る。
訓練所の入口に、オースティンが立っていた。
昼間に着ていた、濃紺の教官服ではない。
上半身には簡素な白いシャツ。
袖は肘までまくり上げられている。
下は、動きやすそうな黒い長ズボンだった。
長い髪も昼間ほどきつく結ばず、無造作に後ろでまとめている。
それでも、腰には変わらず佩剣が下げられていた。
俺は一度だけ彼女を見た。
そして、すぐに訓練人形へ向き直る。
短剣を突き刺した。
「6」
無視されたからといって、オースティンが怒ることはなかった。
壁際まで歩き、俺が続けて何度か攻撃する様子を眺める。
「悪くない戦い方だ」
「気配を隠す際に、余計な動きがない」
「狙う場所も、首筋、後頭部、脊椎の周辺に絞っている」
オースティンは、わずかに間を置いた。
「昼間の出来事で、心が折れたわけではないらしいな」
「むしろ、闘志に火がついたか」
俺は説明しなかった。
オースティンは、訓練用の武器が並ぶ棚へ歩み寄った。
無造作に木剣を一本取り上げる。
片手で柄を握り、軽く二度振った。
空気を切り裂く鋭い音が、誰もいない訓練所へ響く。
「反撃しない人形だけを相手にしていると、すぐに悪い癖がつく」
オースティンは木剣の切っ先を、俺へ向けた。
「どうだ?」
「私と一度、手合わせをしてみないか?」




