第二十話 漂流
激しい破裂音とともに、F4Uの左翼が五式戦闘機の後部胴体を切り裂いた。
F4Uは翼の三分の一を失い横転する。五式戦闘機は日の丸を描いた胴体を真ん中から切断され、そして完全に上を向いた次の瞬間、空中分解した。
スパークはエンジンの出力を落とすと、必死に操縦桿とフットペダルを操った。機体は失った左翼のせいでロールとスリップが同時に発生し、到底真っ直ぐには飛べない。フラフラになりながら、ゆっくりと左旋回を行い、なんとか姿勢を立て直した。飛んでいるのが奇跡のようだった。
そこに、白いパラシュートが目に飛び込んできた。
「生きてたか!」
スパークはキャノピーをスライドさせて後方に引いた。
”赤鼻”のパイロットは茫然とした表情でスパークを見ていた。スパークも”赤鼻”のパイロットを見つめた。ほんの一瞬だが、二人の視線は絡み合った。そしてスパークは操縦桿を左手に持ち替え、敬礼した。
最後にスパークは手を振ると再び操縦桿を持ち替えた。さらにスロットルを絞ると、失速寸前のスピードだが機体を直進に戻すことに成功した。パラシュートは遥か後方に飛び去った。
「タイダルリーダー、こちらタイダル3、まだ飛べるか?」
ハリス少尉の声が無線機から入った。気がつくと、彼のF4Uがすぐ後ろ上方を飛んでいた。
「あぁ、なんとかな。タイダル2はどうだ」
「脱出した。タイダル4がついている。救難飛行艇が急行中だ。我々は帰投しよう、援護する」
「了解」
二機は母艦であるUSSリバイアサンの方向に機首を向けた。
本田は朦朧とする意識の中でパラシュートにぶら下がり、飛び去るF4Uの二機を眺めていた。五式戦闘機が空中分解してからの記憶はなかった。ただ機体の構造材に胸を強打し、しばらく息ができなくなったことは覚えていた。痛みは感じない。
永遠のように感じる時間が、風の吹き荒ぶ空の上で過ぎていった。数十秒後、本田は海面に着水した。救命胴衣をつけていたおかげで、海の上でも顔は水面から出ていた。
しばらくして、三機の五式戦闘機が上空に現れた。穴だらけになった五式戦闘機の天蓋を開き、操縦者の佐久間伍長が必死の形相で本田を見つめているのがわかった。本田は手を振ったあと、太陽の位置から九州の方角を判断して指差した。
「もういい、戻れ!」
聞こえるはずもなかったが、叫ばずにはいられなかった。
漂流する操縦者の上を飛んだところで、どうしようもない。
ニューギニアで、ソロモンで、同じ光景を見てきた。その時の本田は、空の上だったが。
順番だ、いつか言われた伊吹の言葉を思い出した。
何度も上空を旋回していた五式戦闘機が姿を消し、エンジンの爆音が遠ざかっていった。
周囲は波の音だけが響いていた。本田は揺れる波間に漂い、空を見上げていた。
◆◆
「落下傘は開いたんだな」
声はいつもの冷静な口調だったが、伊吹は明らかに強張った表情で佐久間伍長に確認した。
「は、はいっ。着水して、本田曹長殿が手を振っているところは確認しております」
佐久間伍長も上擦った声で報告した。
日が上った昼前、指宿北飛行場に帰投した五式戦闘機は三機だった、伊吹ともう一機は先にエンジン不調で引き返していたから、全機が戻るとすると本来は四機。一機足りないことはすぐにわかった。そしてそれが赤いプロペラスピナーを使っている本田機であることも——
伊吹は本来報告を待つ側だったが、エンジンを停止した機体に駆け寄っていた。紀依も当然それに続いていた。
「申し訳ありません。三機もついていながら、手が出せず……」
降りてきた五式戦闘機のすぐ脇で、空中戦の経緯を説明する佐久間伍長の顔は苦しげだった。彼らは本田と敵の隊長機が格闘戦に入ったあとに、もう二機のF4Uに追い回されていたのだった。
「それはいい。それより場所はわかっているな」
「はい」
伊吹は帰投してきた三機の五式戦闘機の状態を確認すると、紀依の隣で話を聞いていた整備中隊の少尉に向き直った。
「大船と、木村の五式戦に燃料と弾薬だけ再補給してくれ。大至急だ」
少尉は敬礼して機体に駆け寄ると、機付整備員に作業開始の号令をかけた。
伊吹は三人の操縦者に向き直った。
「大船、お前の機体は俺が借りる。木村、もう一度行くぞ。佐久間は別命あるまで待機だ」
「はっ!」
三人が敬礼する。
伊吹は、顔が真っ青になっている紀依の正面に立った。
「本田はまだ生きてる。自分と木村で探しに行きます。指宿の海軍には貸しがある。今返してもらいます。見つけたら水上偵察機を出してもらって、回収する。門倉さんは旅館に戻って待っていてください」
紀依は胸の前で両手を握り、何度も頷いた。
「再出撃準備、急げ!」
そう叫ぶと、伊吹は電話をかけに松林の中の事務棟まで走り出した。
◆◆
墜落からしばらくして、遠くにアメリカ軍の飛行艇が現れるのを、本田は波の合間から見つけた。
水平線上に見える双発ガルウィングの大型飛行艇は、青い機体を傾けゆっくりと旋回させている。
目を凝らすとそのそばに戦闘機、おそらくF4Uコルセアも一機ついている。飛行艇は何度か上空を周回すると、少し離れた場所に着水した。
「あのシコルスキー——助かったのか」
自分が撃墜した敵機の操縦者が救出されているのだろう、と本田は思った。アメリカ軍は海上に脱出した操縦者を手を尽くして回収することを本田は知っていた。もちろん、日本軍にそんな救助がないことも。
しかし、本田は安堵のため息をついた。
十数分後、飛行艇はゆっくりと離水し、F4Uを伴って来た時と同じ方角に帰って行った。
幸か不幸か海の温度は比較的暖かで、体温を急速に奪われることはなかった。しかし、空中分解した時に強打した胸の痛みが徐々に増してくる。波に揺られ、呼吸するたびに激痛が走り、息は浅くなっていった。
梅雨の晴れ間の太陽が昇り切ると、日差しは容赦無く強まってきた。ジリジリと初夏の太陽に焼かれ、水面からの反射も重なり、顔は赤くなってくる。眩しくて目が開けられなくなり、本田はゴーグルを下げ、フリップ式の黒いシールドを下ろした。視界はマシになったが、しかしただそれだけのことだった。
遥か高空を、一機の双発機が南へ向かっていく。
「百式司偵か」
おそらくは沖縄に偵察に向かったものだろう、どこまでも青い空を背景に高度を上げていく司偵の姿は、美しかった。
午後になると、喉の渇きが耐えられなくなってきた。
激しい胸の痛みと混濁する意識の中で、どうせ助からないのだから、と海水を一口飲んだが、それは後の苦しみと引き換えの一時的な安らぎでしかなかった。
水分を失い、日が傾き始める頃には、胸の痛みと吐き気が耐えられないほどになってきた。
本田は左胸のホルスターから拳銃を取り出すと、震える手でスライドを引いた。
「あっ」
黒い拳銃は滑り落ち、海の底へと消えて行った。
「苦しんで死ね、ということか」
本田は掠れる声でつぶやき、空を見上げた。
飛行機の墓場は、見えなかった。
あれは幻だったのか、それとも、もう自分にはそこに行く資格がなくなったのか、わからなかった。
「当然の報いなら、それもいいだろう。けど——」
本田は右手のグローブを外すと、首元に巻いたすっかり水浸しになってしまったマフラーに触れた。そして救命胴衣の隙間からずぶ濡れの飛行服のポケットに手を入れ、写真を取り出した。
写真の中の、桜の木の下の紀依は硬い表情で微笑んでいた。
「ごめん——」
◆◆
「落下傘は発見できましたが、本田は居ませんでした。範囲を広げて探しましたが、見つけられず……残念ですが」
夕日の差し込む梅野屋の紀依の部屋で、紀依に伝える伊吹の声は絞り出すようだった。
「はい」
紀依は目の前で正座し手を膝に置く伊吹の顔を真っ直ぐに見つめていたが、その目は伊吹ではなく彼方にある虚空を彷徨っているようだった。
「今日と明日は休んでください、整備中隊には伝えてあります。自分はこれから基地に戻ります……」
「はい。ありがとうございました」
紀依は深々と頭を下げた。
「残念です」
紀依は頭を下げたままだった。
しばらくの間、二人はその姿で動かなかった。
伊吹は立ち上がると、傍に置いた略帽を目深に被った。
「あいつは——」
伊吹は目を瞑って部屋を出た。
◆◆
「漂流者、右二〇度、二〇〇〇。おそらく搭乗員!」
対潜警戒をしていた見張り員の一人が、双眼鏡を覗いた姿勢のまま声を張り上げた。
東シナ海は日が暮れかかっていた。
宮井修一海軍大尉、第七十号海防艦の艦長は、狭い海防艦の艦橋で、同じように双眼鏡で水平線に目を凝らしていた。
「どっちのだ?」
宮井は自分の父親ほどの年嵩の見張り員のそばに近づき、彼の双眼鏡の先を見据えた。
「不明です!」
見張り員は再び叫んだ。
宮井は苦笑し、自分の双眼鏡を海面に向けた。すぐに漂流者は見つかったが、日米どちらの操縦士かは確かにわからない。
「まぁどっちでも同じことだが……」
第七十号海防艦は、第百六十六号輸送艦を護衛し奄美大島への「特攻輸送」の帰路を急いでいた。南九州を襲った米機動部隊が沖縄方面に戻ったという知らせを受け、急遽出発を繰り上げていたのだ。帰りがけの駄賃に奄美大島へは空襲が予想され、島陰に隠れているよりは洋上にいた方が安全との判断だった。もちろん、そんなことは五十歩百歩の運次第でしかないことも宮井は承知していた。潜水艦や航空機の魚雷が当たれば排水量数百トンの小さな海防艦など、一発で木っ端微塵だ。
つまり、本来は漂流者を救助する余裕などない。
「……が、進路上だしな」
宮井はぼそっとつぶやいたあと、全員に告げた。
「回収する!潜水艦脅威下だ。停止はしないぞ」
続けて操舵員に命令した。
「機関微速、面舵。風上から寄せる」
操舵員が復唱すると、命令は機関室にも即座に伝えられた。
「右舷救助用意、一回で引っ張り上げろ。対潜対空警戒は継続、厳となせ。後ろの輸送艦には——」
船体に伝わる振動が緩む中、艦橋の下では数人の甲板員が右舷へ飛び出していた。最後の一人はボートフックを担いでいる。そして海防艦の低い乾舷から身を乗り出して近付く漂流者を確認した。
減速する第七十号海防艦の左側を、第百六十六号輸送艦が追い越していった。艦橋からは発光信号で「我、漂流者救助中」が伝えられている。
甲板員の一人は、ゆっくりと海防艦の右を流れていく漂流者の縛帯にボートフックを引っ掛けた。そして三人がかりで船体に寄せると、波の上下に息を合わせて渾身の力を込め持ち上げる。同時に、残りの甲板員が一斉に身を乗り出し、漂流者に手を伸ばした。
本田は、意識のないまま海防艦の甲板に転がっていた。




