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第二十一話 想い

 第七十号海防艦と第百六十六号輸送艦は日本本土を目指し北上した。夜の東シナ海の洋上は静かで月の光が煌々と水面を照らしていた。潜水艦にとっては絶好の襲撃日和だった。もちろん二隻は魚雷攻撃を避けるため、数分おきに進路を変更する之字警戒航行を行う。水上見張りはもちろん、探信儀、水中聴音機を総動員した警戒を怠らない。海防艦と輸送艦が敵の潜水艦に見つかれば状況は絶望的だ。なにしろ護衛艦である海防艦より敵の潜水艦の水上速度のほうが速い。攻撃するも離脱するも自由自在だ。しかしそれでも先んじて見つけることができれば生き残る可能性はある。そしてその日の夜、一度だけ第七十号海防艦の見張り員が水平線上に正体不明の艦影を認めたものの、その後の接触はなかった。


 二隻は夜が明けた早朝の六時頃、朝靄のかかる鹿児島港に入港した。第七十号海防艦は荷物は積載していなかった。奄美大島への緊急輸送を行った復路である第百六十六号輸送艦にも積荷はなく、後送された数十人の傷病兵が鹿児島港にほど近い佐世保海軍病院の鹿児島分遣診療所に収容された。

 その中の一人に、意識を取り戻し艦内で応急手当てをされていた本田もいた。


◆◆


「生きていた!海軍の船に拾われて、鹿児島の海軍病院に収容されている。連絡がありました!」

 指宿北飛行場に出勤した伊吹は、その日の昼過ぎ、戦隊の公用車で梅野屋に戻ってきて、ぼんやりと窓の外を眺めていた紀依の部屋に飛び込んできた。目を見開いて硬直する紀依に、畳み掛けるように伊吹は続けた。

「車を用意している、急いで準備を」

 慌てて身支度を整え旅館を出た紀依は、公用車の後ろの席に乗った。鹿児島湾を右手に見ながら北上する一時間半ほどの道のりを、戦隊付の運転手は伊吹に急かされ飛ばした。

 佐世保海軍病院の鹿児島分遣診療所は、徴用された国民学校の一部の校舎を利用し、新しい平屋の病室を増築して海軍の負傷者を一時的に収容するための施設だった。車を敷地の前の道路に置き、運転手をその場で待たせると、伊吹は紀依を伴って校舎に走った。


 伊吹と紀依は受付で場所を聞き、大部屋の病室に入った。部屋には沢山のベッドが並び、大勢の傷病兵が入院している。二人に気づいた本田はベッドの上で上体を起こし、立ちあがろうとしたが、伊吹はそれを制した。伊吹と紀依がベッドに近づくと、本田は起き上がった状態で屋内での敬礼をした。目は充血し、顔は軽い火傷のように赤くなっていた。

「申し訳ございませんでした。せめて相打ちと思いましたが、シコルスキーは取り逃したようです」

 声は掠れていたが、しっかりした口ぶりだった。

 伊吹は首を横に振った。

「そんなことはいい。怪我はどうだ?」

「軽い脱水と、空中分解した時に何かにぶつかって肋骨にヒビが入ったようです、大したことはありません。あとはまぁ、見ての通り、顔の日焼けくらいですが、これもマフラーとゴーグルのおかげで、それほどでもないです」

「そうか」

 伊吹は安堵の息を吐いて、微笑んだ。

 本田は、伊吹の後ろに立っていた紀依にバツの悪そうな顔をして、声をかけた。

「やぁ」

 紀依はゆっくりとおぼつかない足取りで歩み寄った。

 ベッドの傍らまで来ると、右手でそっと本田の頬に触れた。出撃前の、いつもの柔らかな仕草……のはずだったが、その手ははっきりと震えていた。

「山育ちなもんで、海水浴は初めてでしたけど、ちょっと焼きすぎたみたいで、ハハハ」

一瞬、紀依の表情が固まり、瞳が大きく見開かれた。

「……しろさんのバカーーーッ!!」

 パーンッと乾いた音が、広い大部屋に響き渡った。数名の負傷兵が息を呑み、他の者は気まずそうに視線を逸らした。伊吹も、絶句して紀依を見つめた。

 本田は呆然となり、言葉を失って視線を落とした。

「なんで……なんで……なんで!」

 堰を切ったように紀依の目からは涙が溢れ、その場に膝をついて泣き崩れた。

「帰ってくるって言ったじゃない! わああああ!」

 嗚咽で途切れた声が病室に響いた。本田は目をつぶってベッドから足を下ろし、身をかがめて紀依の肩に手を置いた。

「……すみません。つまらない冗談でした」

「ごめんなさい!ごめんなさい……」

 紀依は途切れ途切れの声をあげながら泣き続けた。やがて立ち上がると両腕で本田の首にしがみつき、肩に顔を埋めた。

「いやだ、いやだ、いやだ!しろさんはもう戦わないで!」

 本田は返す言葉を失い、ただ彼女を抱きとめることしかできなかった。

 紀依はふいに体を離し、本田の肩を両手で掴み、まっすぐにその目を見据えた。

「もう陸軍はやめて!しろさんは、もうじゅうぶんに戦ったよ! もうじゅうぶんだよ!」

 本田はその涙で溢れた瞳を見返した。

 紀依は再び抱きつき、泣き叫んだ。

「誰も知らないところに行こう!私と一緒に逃げよう! 私が働くから! しろさんは何もしなくていいから!」

 そばで立ち尽くしていた伊吹が青くなって周囲を見渡し、あわてて本田に声をかけた。

「本田……後で相談しよう」

 本田が小さく頷こうとした瞬間、紀依が振り返り、絶叫した。

「もういやだーーー!!!」

 その迫力に、伊吹はたじろぎ、天を仰いだ。


◆◆


 伊吹は受付で礼を言い、診療所になっている建物を出た。紀依もうなだれたまま後ろをついていく。そして前の通りに止めてある車に戻るため、門に向かった。

 門の前には腕章をつけた憲兵が三人立っていた。伊吹たちを認めると、歩いて近寄ってくる。大尉の階級章をつけた丸メガネの男は不敵な笑みを浮かべ、憲兵上等兵の二人を従えていた。

 伊吹は目を細め、紀依と憲兵の間に割って入るように位置を変え通り過ぎようとした。憲兵大尉はそれを遮るように伊吹の前に回り込み、紀依の前に立った。連れの二人もそれに続いた。

「なにか用か?」

 再び遮るように紀依の前に立ち、最初に口を開いたのは伊吹だった。

「あなたにではない大尉。我々の用事はそっちの女だ」

「彼女は指宿北の軍属だ。憲兵に用事などない」

 伊吹は威嚇するように言い放った。

「脱走の教唆の疑いがある。先刻通報があったのだ」

「精神的疲労からくる妄言だ。真面目に受け取ることではない」

「それを調べるために、連行するのだ。そもそも——」

 憲兵大尉は勝ち誇ったような表情で続けた。

「君に止める権限はないぞ、大尉」

 正論だった。憲兵の権限は拡大を続け、民間人に対する取り調べも許されていた。ましてや、紀依の立場は軍属だった。しかも階級で押し切られないよう、下士官ではなくわざわざ分隊長である同格の大尉が出張ってきたのだろう。伊吹は眉間に皺を寄せて拳を固く握りしめた。

「連れて行け」

 憲兵大尉が後ろの部下に指示をすると、二人の憲兵は紀依の手を掴んで後ろ手に回した。


「馬鹿野郎!丁重に扱え!」


 いきなり、伊吹が怒声を上げた。憲兵二人は動きを止めた。それまでずっと下を向いていた紀依も驚きで振り返った。

「門倉さん、必ず取り返しに行く。待っていてください」

 伊吹の顔は紀依がそれまで見たことのないような激怒を帯びた形相だった。そして伊吹は憲兵大尉に言い放った。

「下手なことをしたら、どうなるか。覚悟しておけ!」


◆◆


 梅雨の晴れ間の薄い夕日が、憲兵鹿児島分隊のコンクリート造りの建物を照らしていた。外回りから次々と隊員たちが帰ってくる大部屋の執務室では、分隊長である大尉が調査報告を受けていた。

「指宿分遣隊からの連絡では、確かに軍属で東京の女学校出の娘のようであります。詳細は明日の朝に分遣隊から二名くる予定になっておりますので、そこで報告を受ける予定であります。ひとまず確認した当該の戦隊の人員構成はここに用意しております」

 軍曹は書類をテーブルに出して続けた。

「まずは取り調べで世間話の後に両親の名前を出したところ、若干表情を変えましたが、特にはしゃべりません。一旦は部屋に戻しましたが——」

「失礼致します!」

 そこに、憲兵一等兵が駆け寄り、屋内の敬礼で二人の前に立った。

「なんだ」

 怪訝そうな顔で大尉が尋ねた。

「大尉殿に、第六航空軍の参謀がお話があるとのことで、いらしております」

「六航軍?」

 大尉は軍曹と顔を見合わせた。

「敬礼!」

 誰かが声を上げた。その場の全員が立って屋内の敬礼をした相手は、部屋を見渡すと大尉のところにズカズカと歩み寄ってくる。大尉は起立したままそれを待った。


「私は第六航空軍の小林少佐だ。手短に用件を話すが、門倉紀依を釈放してもらいたい」

 小林少佐は穏やかな口調で大尉に告げた。

「いやそれはできません。あの女の取り調べはこれから本番ですから」

 大尉は不敵な笑みを浮かべて返した。

「それは困る。彼女が拘束されると本田曹長が戦えなくなる。本田曹長というのは君たちが調べている操縦者で、百九十一戦隊のエースだ。彼にはすぐに戻ってもらわないと今後の作戦に影響する」

「その本田曹長もこれから調べます」

「彼に手出しはできないだろう。先週の指宿上空の大勝利では異例の個人感状を即時出された殊勲者だ。軍司令閣下も大層お喜びでね。あの件は宮城にも上奏されて、お褒めの言葉をいただいている。軍属の小娘を拘束するのとはわけが違うぞ、大尉。無邪気に逮捕していたぶったりしたら、第六航空軍としても黙ってはいられない」

「……」

 大尉は不機嫌そうに黙り込んだ。

「それに門倉紀依の件は百九十一戦隊でも相当な騒ぎになってる。このままでは出撃拒否も起きかねない勢いだ」

「それは大問題ですね、そちらも調査しましょう」

 大尉は再びニヤリと笑みを浮かべた。

「今の話をもう忘れたのか君は? 百九十一戦隊は第六航空軍の直属部隊でいまや虎の子だ。それを拘束して戦力をどう埋め合わせるつもりだ」

「さぁ、それを考えるのは参謀の役目なのでは?」

 上級者に対して無礼千万な物言いだが、小林少佐は気にした様子もなかった。

「ふむ。確かにそうだな。ところで義烈空挺隊の話は聞いたかね?」

「ええ、新聞で見ました。それが何か」

「沖縄の飛行場に重爆で切り込み特攻をかけた特殊部隊だ、全員壮烈な戦死を遂げたが素晴らしい戦果だった。百九十一戦隊が動けなくなったら、あれをもう一回やるしかないな。ところで決死の戦闘要員をどうするかだが、ここの全員を集めればなんとかなりそうじゃないか?作戦命令書はすぐに出る。なにしろ私が作るんだからな」

 小林少佐は室内を見渡した。

 空気が凍りついていた。憲兵大尉の笑みは引き攣っていた。

「……ご冗談を」

 小林少佐は朗らかな笑顔で返した。

「私は冗談が嫌いなんだ」

 しかし少佐の目は笑っていなかった。

「時間が勿体無いからね」


◆◆


「いろいろと、ありがとうございました」

 本田は小さな病室のベッドで起き上がったまま頭を下げた。

「いいさ、実際に動いてくれたのは小林少佐だ。ここの部屋の件もな」

 伊吹は雨の降り続く窓の外を眺めていた。

 本田は海軍病院に運び込まれた翌々日には同じ鹿児島の陸軍病院に移されていた。そこで一人用の部屋を当てがわれ、しばらく療養することになっていた。静かな、本来は佐官級以上でないと入れない病室だった。


 小林少佐が乗り込んだ翌朝、紀依は朝食を出された後に憲兵分隊の建物を出た。憲兵二人と一緒に鹿児島駅に向かい、そのまま東京行きの列車に乗った。二日間の監視付きの帰路の後、今後は陸軍の基地には立ち入りしない、との誓約書の提出と引き換えに東京駅で解放されていた。


「さすがに、指宿に置き続けるわけにはいかなかったが、まぁ悪くない落とし所だろう。憲兵の顔も立てつつ、痛み分けってところだ。さすがは参謀だな」

「はい。彼女も、もう限界だったと思います。最近は無理しているのがわかってて、ちょっと辛かったので。むしろよかったんだと思います」

 本田は深く息をついた。

「帰りはうちの整備中隊から出張の名目で二人張り付かせて憲兵を監視させたし、道中はそんなに悪い雰囲気でもなかったみたいだ。さっき報告があった。東京から府中の自宅までは送り届けさせたさ。彼女のご両親からはくれぐれも本田曹長によろしくお伝えください、とのことだ。どうせ暇だろう、手紙でも書いとけ」

「はい、そうします。本当に、ありがとうございました——」


「ところで」

 伊吹は窓から離れて壁に寄りかかると、本田に向き直った。

「頬の具合はどうだ?酷い日焼けの上から、モロに入ってたよな」

 本田は左頬だけに貼られたガーゼに手を当てた。

「ちょっと、まだヒリヒリします。殴られたところだけ……食らった時は気絶するかと思いました」

「……だろうな」

 二人は目を瞑って、下を向き——吹き出した。

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