第68話 ボタニカル・マギアフェスタ開幕(1)
第68話 ボタニカル・マギアフェスタ開幕
朝。
蒼井蒼真が目を覚ますと、男子寮の部屋には、いつもと違う気配があった。
まず、静かすぎない。
いつもの朝なら、同室のユリウスはまだ布団の中で丸くなっているか、半分だけベッドから落ちかけた妙な姿勢で寝ていることが多い。寝言を言っている日もあるし、たまに妙に甘えた声で誰かの名前を呼んでいることもある。
蒼真はそのたびに、聞かなかったことにしてきた。
だが、今日は違った。
衣擦れの音。
小さく鼻歌を歌う声。
机の上で小物が触れ合う音。
蒼真は目を開け、ゆっくりと体を起こした。
視線の先で、ユリウスが鏡の前に立っていた。
珍しく、きちんと起きている。
しかも、かなり気合いを入れて支度をしていた。
髪はいつもより丁寧に整えられ、制服も皺ひとつない。胸元には小さな花飾りがついている。香水なのか、部屋にはほんのり甘い香りまで漂っていた。
蒼真は数秒、無言でその光景を見つめた。
「ユリウス?」
声をかけると、ユリウスがぱっと振り返った。
「あ、おはよう、蒼真くん。ごめん、起こしちゃった?」
「いや、俺もそろそろ起きるところだった」
「そっか。ならよかった」
ユリウスはにこにこと笑う。
普段から表情豊かな男だが、今日は妙に機嫌がいい。
蒼真はベッドの上で軽く伸びをした。
「今日はずいぶん早いな」
「だって、ボタニカル・マギアフェスタだもんねー」
「植物祭か」
「そうそう。年に一度の魔法植物のお祭り。屋台もあるし、カフェもあるし、迷路もあるし、夜はパレードもあるし。楽しい一日になるよ」
ユリウスは鏡に向き直り、前髪を指先で整える。
その手つきが妙に丁寧だった。
蒼真は少し考えた。
エルミナ先輩と出会ってから、植物というものがずいぶん身近になった。
食人植物に指を食べられかけた。
マンドラゴンの植え替えを手伝った。
エルフの耳に触れてしまい、エルミナ先輩を真っ赤にさせた。
温室の植物が赤く染まる事件もあった。
毛細血管現象。
赤い液体を吸い上げた植物たち。
あれから、エルミナ先輩と植物研究会の生徒たちは必死で植物の状態を整えてきた。蒼真も手伝える範囲で水替えや記録を手伝った。
そして、今日。
ボタニカル・マギアフェスタ当日を迎えた。
蒼真はベッドから降りながら、ふとユリウスを見る。
「ユリウス」
「なあに?」
「よかったら、一緒に回らないか?」
何気なく言ったつもりだった。
だが、ユリウスは鏡の前で固まった。
手にしていた櫛が、ぽとりと机の上に落ちる。
「……え?」
「いや、無理ならいい」
「待って、蒼真くんから誘ってくれたの?」
「そんなに珍しいか?」
「珍しいよ!」
ユリウスは勢いよく振り返った。
目が輝いている。
「蒼真くんが僕を誘うなんて、これはもう記念日じゃない? 部屋の壁に刻んでいい?」
「やめろ」
「じゃあ日記に書く」
「それは勝手にしてくれ」
「蒼真くんからお祭りに誘われた朝。僕は世界の優しさに触れた――」
「変な詩にするな」
ユリウスは胸に手を当て、芝居がかった顔をする。
だが、その後すぐ、申し訳なさそうに眉を下げた。
「でも、ごめんね。今日は先約があるんだ」
「そうか。それなら仕方ない」
蒼真はあっさり頷いた。
植物祭は一人でも見て回れる。
むしろ、エルミナ先輩から聞いた催しを順番に見ていくなら、一人の方が気楽かもしれない。
だが、ユリウスはどこか迷うように蒼真を見た。
「蒼真……」
「なんだ」
「僕のボーイフレンドも一緒だけど、それでもいいなら、一緒に回る?」
蒼真は一瞬、普通に受け取った。
「ボーイフレンド? 男友達か」
ユリウスはにっこり笑った。
「うん。男友達より、もう少し深い関係かな」
「深い?」
「手をつないで歩いたり、二人で甘いものを食べたり、夜に星を見ながら将来について語ったりする関係」
「それは友達でもするんじゃないか」
「じゃあ、朝起きた時に隣にいてほしいなって思う関係」
「……そういうことか」
蒼真はようやく理解した。
ユリウスは満面の笑みで頷く。
「そういうこと」
「なら、遠慮しておく」
「早いよ、判断が」
「むしろ遅かった」
蒼真は制服に袖を通しながら言った。
ユリウスは少し残念そうに唇を尖らせる。
「蒼真も良ければ、夜に三人でお茶くらいなら――」
「お茶だけで終わる気がしない」
「ひどいなあ。僕、そんなに信用ない?」
「ない」
「即答」
ユリウスは肩を落とした。
だが、すぐにまた明るい顔になる。
「でも、蒼真くんも少しは慣れてきたよね」
「何に」
「僕の愛に」
「それは慣れるものじゃない」
「じゃあ、受け入れるもの?」
「違う」
「照れてる?」
「違う」
「蒼真くんって、否定する時だけ返事が早いよね」
「身の危険を感じるからな」
ユリウスは楽しそうに笑った。
このやり取りにも、蒼真はだいぶ慣れてしまった。
慣れたくはなかったが、毎朝のように似たような会話をしていれば、嫌でも反応が早くなる。
ユリウスは机の上の小瓶を手に取り、首元にほんの少し香りをつけた。
蒼真はそれを見て眉を寄せる。
「気合いが入ってるな」
「大事なデートだからね」
「植物祭でデートか」
「蒼真くんも誰かと回るんじゃないの?」
「特に約束はしていない」
「本当に?」
「本当だ」
「ほんとにほんと?」
「しつこい」
ユリウスはにやりと笑う。
「でも、今日は危ないよ。植物祭は恋が芽吹きやすい日だから」
「植物だけに?」
「そうそう。芽吹く、咲く、実る」
「うまいこと言ったつもりか」
「うん」
「そうか」
蒼真はそれ以上突っ込まなかった。
ユリウスは満足そうに胸元の花飾りを整える。
「じゃあ、僕はそろそろ行くね」
「ああ」
「蒼真くん」
「なんだ」
「寂しくなったら、いつでも僕の胸に飛び込んできていいからね」
「行ってこい」
「冷たい」
「待ち合わせに遅れるぞ」
「あっ、それはまずい」
ユリウスは慌てて鞄を持った。
部屋の扉を開ける直前、こちらへ振り返る。
「じゃあ、またね。蒼真くんも、いい一日を」
「ああ。お前もな」
「ちなみに、もし途中で僕たちを見かけても、遠慮せず声かけてね。三人で写真……じゃなくて記録水晶に残そう」
「距離を取る」
「ひどい!」
そう言いながらも、ユリウスは楽しげに部屋を出ていった。
扉が閉まる。
部屋に静けさが戻った。
蒼真はしばらく扉を見ていた。
「……朝から濃いな」
小さく呟き、制服を整える。
いつも通りの学園生活。
だが、今日はいつもとは違う日だ。
ボタニカル・マギアフェスタ。
魔法学園の植物祭。
エルミナが大切にしている行事。
赤化事件を乗り越え、植物たちは本番に間に合ったのか。
蒼真は少しだけ気になっていた。
支度を終え、部屋を出る。
男子寮の廊下にも、すでに祭りの空気が漂っていた。
普段より早く起きている生徒が多い。制服姿の者もいれば、少し飾りをつけている者もいる。廊下の窓辺には小さな鉢植えが並べられ、淡い光を放つ花が朝の光と混じっている。
外へ出ると、学園は完全に別の顔を見せていた。
石畳の道には、光苔で作られた細い線が引かれている。来客用の順路だろう。道の両側には蔓で作られたアーチが立ち、そこに色とりどりの花が絡んでいた。
赤、青、黄色、紫。
見たことのない色の花もある。
花びらが半透明に透けているもの。
朝日を受けて金色に光るもの。
風もないのに、ゆっくりと揺れているもの。
空には小さな浮遊果実が飾りのように漂っていた。
丸く、淡い色の果実が、糸もなくふわふわと浮かんでいる。時折、生徒が杖で軽く合図を送ると、果実は列を作って別の場所へ移動していった。
蒼真は足を止めた。
「すごいな……」
素直な感想だった。
これまで学園内では、何度も魔法らしい光景を見てきた。
だが、今日はその全てが祭りのために整えられている。
魔法と植物。
学園と来客。
研究と娯楽。
それらが一つになって、独特の熱気を作っていた。
正門の方からは、外部客らしき人々が次々と入ってきている。
きちんとした服装の貴族らしき男女。
大きな鞄を持った薬師らしき老人。
商人風の男たち。
子どもを連れた近隣の町の家族。
研究者らしき人物は、すでに手帳を開き、飾られた植物の葉を熱心に観察している。
蒼真はその様子を見ながら歩き出した。
学園祭に近い。
だが、単なる祭りというより博覧会に近いかもしれない。
魔法植物という分野が、この世界でどれだけ広い意味を持っているのかがわかる。




