第66話 植物はまだ生きている(2)
第66話 植物はまだ生きている
蒼真は彼女を見た。
エルミナは自分の手をぎゅっと握っている。
「ボタニカル・マギアフェスタまで、そんなに時間がないの。展示予定の植物も多いし、状態を整えるだけでも大変で……それなのに、こんな色になっちゃったら」
彼女は赤い月光草を見つめた。
「この子たちを、みんなに見てもらいたかったのに」
その声はかすれていた。
蒼真は赤く染まった葉を見つめる。
葉脈に沿って広がる赤。
表面ではなく、内側から染まっているような色。
花弁の縁ほど濃い赤。
茎から葉へ向かって流れたような色。
蒼真の脳裏に、ふと前の世界の記憶が浮かんだ。
小学校か中学校の理科室。
透明なコップ。
赤や青の色水。
白い花。
時間が経つと、花弁が色水の色に染まっていく実験。
植物が水を吸い上げる。
細い管を通って、水が上へ運ばれる。
その時、色のついた水なら、その色も一緒に運ばれる。
蒼真は赤い葉をもう一度見た。
枯れていない。
葉は張りを保っている。
根から何かを吸い上げたと考えれば、内側から染まって見えることにも説明がつく。
「……いや」
蒼真は小さく呟いた。
エルミナが振り返る。
「え?」
「大丈夫ですよ」
「何が?」
「植物祭です。まだ諦める必要はないと思います」
エルミナの目が揺れた。
「どういうこと?」
蒼真は近くの赤い葉を指した。
「これは、おそらく毛細血管現象です」
「もうさい……?」
エルミナは聞き慣れない言葉に首を傾げた。
「なにそれ」
「俺の世界での言い方です」
蒼真は説明を始めた。
「植物は根から水を吸いますよね」
「ええ。それはもちろん」
「その水は、茎の中にある細い管を通って、葉や花へ運ばれます」
「導水管のこと?」
「たぶん、それに近いです。俺の世界では導管って呼んでました」
蒼真は作業台の上にあった紙を一枚借り、簡単な図を描いた。
根。
茎。
細い管。
葉。
「水は細い隙間を上がっていく性質があります。細い管の中だと、水同士が引き合ったり、管の壁に引っ張られたりして、上へ移動するんです」
エルミナは真剣に聞いている。
目が少しずつ輝きを取り戻していく。
「それが、もうさいけっかん?」
「はい。毛細血管みたいに細い管で起きる現象なので、毛細血管現象……と習いました」
「血管なの?」
「名前はそうですが、植物の血管という意味ではないです。細い管のたとえです」
「なるほど……」
エルミナは紙に描かれた図を覗き込んだ。
蒼真は続ける。
「俺の世界では、白い花を色水に挿す実験がありました。赤い水に挿すと、時間が経って白い花が赤くなる。青い水なら青くなる。花がその色を作ったわけではなく、色のついた水を吸い上げたからです」
エルミナの目が大きく開かれた。
「それって……」
「ここの植物も、同じような状態かもしれません」
蒼真は赤い月光草を見る。
「表面に塗ったようには見えません。内側から色が変わっています。葉脈に沿って赤が広がっている。つまり、根や茎から赤い液体を吸い上げた可能性があります」
エルミナは赤い植物たちを見回した。
葉脈。
茎。
花弁。
確かに、塗料をかけられたような染まり方ではない。
色は内側にある。
「じゃあ……枯れたわけじゃないの?」
「見た限りでは」
蒼真は慎重に言った。
「少なくとも、今すぐ全部駄目になった状態には見えません。葉も茎も生きています。色が入っただけなら、普通の水を吸わせ続ければ、数日で薄くなる可能性があります」
「本当に?」
「植物の種類によると思います。色素や液体との相性もあるでしょうし、魔法植物なので普通の植物と同じとは限りません。でも、絶望する段階ではないです」
エルミナは手で口元を押さえた。
涙が目に浮かぶ。
今度の涙は、さっきの絶望とは違っていた。
「じゃあ……この子たち、戻るかもしれないの?」
「はい。むしろ戻すためには、早めに普通の水を与えて、赤い成分を薄める必要があると思います」
エルミナの表情が一気に変わった。
暗く沈んでいた目に、光が戻る。
「すごい……」
彼女は赤い葉を見つめた。
「なにそれ、すごい! じゃあ、魔法を使わなくても、インクの色によって植物の色が変わるってこと?」
「はい。ただし、注意してください」
蒼真は真面目に言った。
「植物とインクの相性によっては、うまくいかないこともあります。色素が詰まったり、毒性があったり、根を傷めたりする可能性もあります」
エルミナははっとしたように頷いた。
「そうよね。植物は道具じゃない。生きてるもんね」
「はい」
「でも……でも、戻るかもしれないんだ」
エルミナはもう一度、赤い植物たちを見た。
そして、蒼真の方へ向き直った。
「ありがとう、蒼真!」
次の瞬間、彼女は勢いよく蒼真に抱きついた。
「うっ」
蒼真の息が詰まる。
エルミナの腕が首の後ろに回り、体が密着する。
柔らかい感触が胸元に押しつけられる。
草花の香りが近い。
さっきまでの緊張とは別の意味で、蒼真の頭が一瞬止まった。
「エルミナ先輩」
「本当にありがとう……よかった……この子たち、まだ助かるかもしれないんだ……」
「はい。それはよかったんですが」
「うん」
「ちょっと苦しいです」
エルミナが固まった。
数秒後、慌てて離れる。
「ご、ごめんなさい!」
顔が真っ赤だった。
耳まで赤い。
蒼真は軽く息を整えた。
「大丈夫です」
「大丈夫って言いながら、今ちょっと苦しそうだったわよね?」
「少しだけ」
「少しじゃなかったわよね?」
「……少しではなかったです」
エルミナは両手で顔を覆った。
「もう……私、今日は変なことばかりしてる……」
その言葉で、二人の間に微妙な沈黙が落ちた。
変なこと。
それが何を指しているのか、二人ともわかっていた。
さっきのキス。
トマスを遠ざけるための、偽の彼氏宣言。
その証明としてのキス。
エルミナは指の隙間から蒼真を見た。
「あの……」
「はい」
「さっきのキスのことなんだけど……」
蒼真は少しだけ姿勢を正した。
ここは避けて通れないらしい。
「はい」
「その、勝手にして、ごめんなさい」
「状況的に仕方なかったと思います」
「本当に?」
「はい」
蒼真はできるだけ平静に答えた。
「ああいうのは、慣れてるので大丈夫です。気にしてません」
言った瞬間、エルミナの表情が変わった。
「……え?」
「はい?」
「慣れてる?」
エルミナの目が細くなる。
「蒼真くん、そういう系?」
「そういう系とは」
「女の子に突然キスされても平然としてる系?」
「違います」
「慣れてるって言ったわよね?」
「違います」
「言ったわよね?」
「言いましたけど、そういう意味ではないです」
蒼真は少し慌てた。
冷静に言葉を選んだつもりが、明らかに誤解を招いた。
「相手に合わせる演技とか、そういう状況に合わせることに慣れているという意味です。事件の時などに」
「演技?」
「はい。相手を油断させるために話を合わせたり、場の流れを壊さないようにしたり」
「じゃあ、キスに慣れてるわけじゃないの?」
「それは驚きました」
蒼真は正直に答えた。
その瞬間、自分の頬が少し熱くなるのを感じた。
「……かなり」
エルミナはじっと蒼真を見た。
蒼真が赤くなっているのを確認すると、なぜか少し安心したような顔をする。
「そ、そう」
「はい」
「なら、いいけど」
「いいんですか」
「いいの」
エルミナは横を向いた。
耳がぴくぴく動いている。
蒼真はそれを見て、また耳に何か異常があるのかと一瞬思ったが、今回は黙っておいた。
何となく、聞かない方がいい気がした。
少し沈黙が続く。
赤い温室の中で、二人だけが妙に落ち着かない空気をまとっていた。
クラリス先生たちは離れた場所で調査を続けている。こちらの会話までは聞こえていないだろう。
エルミナは赤い葉を見つめていた。
けれど、その視線はどこか上の空だった。
やがて、彼女は小さく息を吸った。
「ねえ、蒼真くん」
「はい」
「よかったら、なんだけど」
エルミナは指先を胸の前で重ねた。
視線が落ち着かない。
頬は少し赤い。
「ほんとに付き合う?」
蒼真は固まった。
「え……」
予想していなかった言葉だった。
エルミナは蒼真の反応を見て、すぐに慌てた。
「あ、嫌だった? ごめん、冗談よ」
「いや」
「本気にしなくていいの。さっき彼氏って言っちゃったから、その流れで言っただけで」
「エルミナ先輩」
「蒼真くん、モテそうだしね。ルミエールさんとか、フレイアさんとか、リリアさんとか、周りに可愛い子たくさんいるし」
「エルミナ先輩」
蒼真がもう一度呼ぶと、エルミナは口を閉じた。
彼女は笑おうとしていた。
冗談のように片付けようとしていた。
けれど、その笑顔は少し無理をしている。
蒼真は言葉を選んだ。
「嫌とかではないです」
エルミナの目が揺れる。
「……そうなの?」
「はい。ただ、驚きました」
「うん。それはそうよね」
「それと、俺なんかでいいのかなと」
「俺なんか?」
エルミナが少し不思議そうにする。
蒼真は頷いた。
「エルフ族は、この世界では貴重なんですよね。トマス先輩の言い方は好きじゃありませんが、特別視される理由があるのは事実なんだと思います」
「ああ、それは気にしなくていいのよ」
エルミナは少し困ったように笑った。
「私は純血のエルフじゃないし、それに、血がどうとか種族がどうとかで相手を選ぶつもりはないわ」
「そうですか」
「そうよ」
エルミナは少しだけ胸を張った。
「私は、私をちゃんと見てくれる人がいい。植物が好きな私を、土に触れる私を、変だって笑わない人がいい」
その言葉に、蒼真は少し黙った。
自分がそれに当てはまると言われているようで、返答に迷う。
しかし、ここで曖昧に流すべきではないと思った。
「でも」
蒼真は言った。
「今は付き合えません」
エルミナの表情が少し固まった。
蒼真は続ける。
「俺は、元の世界に帰る方法を探しています」
「……うん」
「帰れるかどうかは、まだわかりません。でも、もし帰れたら、二度とこの世界に来られない可能性があります」
言葉にすると、自分でも重かった。
元の世界。
現代日本。
召喚直前の記憶。
廃ビル。
落下。
光。
そして、この世界。
自分が死んだのか、生きているのかもわからない。
帰れるかどうかもわからない。
帰ったとして、また戻ってこられるのかもわからない。
そんな状態で、誰かに無責任な約束はできない。
「だから」
蒼真は静かに言った。
「今、付き合うとは言えません」
エルミナはしばらく黙っていた。
赤い温室の中で、彼女の緑色の髪が静かに揺れる。
やがて、彼女は小さく息を吐いた。
「そっか」
その声は、少し寂しそうだった。
「わかったわ」
「すみません」
「謝らなくていいの」
エルミナは首を振った。
「むしろ、ちゃんと話してくれてありがとう。そういうところ、蒼真くんらしいわ」
彼女は微笑んだ。
少しだけ無理をしている笑顔だった。
でも、怒ってはいなかった。
「この話は終わり」
エルミナは軽く手を叩くような仕草をした。
「今は、この子たちを戻すことが先ね」
「はい」
「それから、ボタニカル・マギアフェスタ」
その言葉を口にした瞬間、エルミナの表情に少しだけ明るさが戻った。
「楽しみにしててね、蒼真くん」
「そういえば」
蒼真は首を傾げた。
「そのボタニカル・マギアフェスタって、結局どんな祭りなんですか?」
エルミナは目を瞬かせた。
「あら」
「名前は聞きましたけど、詳しい内容はまだです」
「そうだったかしら」
「たぶん」
エルミナは少し考えたあと、ふふっと笑った。
「じゃあ、ちゃんと説明しないとね」
赤く染まった温室の中で、彼女はまだ泣きそうな顔をしていた。
それでも、植物祭の話をしようとする目には、確かに光が戻っていた。




