第66話 植物はまだ生きている(1)
第66話 植物はまだ生きている
トマスが連れていかれた後も、植物研究施設の赤は消えなかった。
温室の中には、まだ緊張の余韻が残っている。
クラリス先生と植物施設の管理教師は、少し離れた場所で赤く染まった植物の状態を確認していた。勝手に触れないように、まずは記録を取る。どの区画の植物がどの程度赤くなっているのか。葉、茎、花弁、果実。それぞれの変化を紙に書き留め、必要に応じて魔法具で状態を測っている。
赤くなった月光草が、いつもの青白い光ではなく、淡い赤紫色の光を放っていた。
白かった歌花の花弁も、赤い筋を帯びている。
薬草棚の葉も、風車蔓の細い蔓も、炎苺の周囲の土までも、どこか不自然な赤みを帯びているように見えた。
蒼真はその光景を見つめながら、包帯を巻かれる前の自分の手をそっと開いた。
手のひらが熱い。
トマスの杖を握った瞬間の感触が、まだ残っている。
発動寸前の魔法。
火属性に近い赤い魔力。
それを掴んだせいで、手のひらは赤くなり、じんじんと痛んでいた。
だが、我慢できないほどではない。
蒼真にとっては、むしろそれよりも気になることがあった。
赤い植物たち。
表面に塗られたのではなく、内側から染み出したような赤。
葉脈に沿って広がる赤。
枯れてはいない植物。
その違和感が、頭の奥に引っかかっている。
「蒼真くん」
声をかけられて、蒼真は振り返った。
エルミナが立っていた。
顔色はまだ少し悪い。
それでも、さっき倒れた時よりは落ち着いている。けれど、その目には、はっきりとした心配が浮かんでいた。
彼女は蒼真の手を見た。
赤くなった手のひら。
それを見た瞬間、エルミナの表情が痛そうに歪む。
「……ごめんね」
小さな声だった。
「私のために……こんな」
「エルミナ先輩のせいじゃありません」
蒼真はすぐに答えた。
「杖を向けたのはトマス先輩です」
「でも、私があなたを巻き込んだのは事実よ」
エルミナは視線を落とした。
「彼氏だなんて、勝手に言って……キスまでして……それで、あの人が逆上して」
最後の方は声が小さくなった。
キス、という言葉を自分で言ったせいか、エルミナの頬が一瞬赤くなる。
蒼真も少しだけ反応に困った。
あの場では合わせるしかなかった。
そう理解している。
けれど、唇に触れた感触を何もなかったことにできるほど、蒼真も鈍くはなかった。
「今は、手の処置をお願いします」
蒼真はあえて淡々と言った。
エルミナははっとしたように顔を上げる。
「そうね。ごめんなさい、すぐに」
エルミナは近くの棚へ向かった。
棚には、薬草や魔法植物の葉が小さな鉢で並んでいる。赤く染まっているものも多いが、彼女は迷わず一つの鉢の前で足を止めた。
丸みのある葉を持つ小さな植物だった。
本来は淡い水色の葉らしいが、今は端から中心へかけて薄赤く染まっている。
エルミナは葉の状態を確かめるように指先でそっと触れた。
「大丈夫。薬効は残ってる」
そう呟いて、一枚だけ丁寧に葉を摘み取る。
乱暴にちぎるのではなく、茎を傷つけないように、必要な分だけを取る。その仕草は、いつもの彼女らしく、植物への敬意があった。
エルミナは戻ってくると、蒼真の前に立った。
「手、出して」
「はい」
蒼真が手のひらを見せると、エルミナは息を呑んだ。
赤くなった皮膚。
魔力の熱を直接受けたせいで、中心部分は少し痛々しい色になっている。
エルミナは唇を噛んだ。
「本当に、ごめんね」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないわ」
少し怒ったような声だった。
けれど、怒っている相手は蒼真ではない。
自分自身か、トマスか、あるいはその両方だろう。
エルミナは葉を軽く揉んだ。
葉の表面から、透明な汁がにじむ。
それを蒼真の手のひらにそっと押し当てた。
「少し冷たいかも」
言葉通り、ひんやりとした感触が広がった。
手のひらに残っていた熱が、少しずつ引いていく。
痛みも和らいだ。
「これは……」
「冷却葉よ。火属性の軽い火傷や、熱を持った腫れに使うの。医務室の治療ほど強くはないけれど、応急処置にはなるわ」
エルミナは葉を押さえながら、片手で包帯を取った。
器用な手つきで包帯を巻いていく。
蒼真はその様子を見ていた。
彼女の指は細い。
けれど、土に触れてきた手だ。
植物を世話し、鉢を持ち、根を支え、葉を摘んできた手。
丁寧で、迷いがない。
包帯が手のひらを覆うと、葉の冷たさがほどよく押さえ込まれた。
「いったん、これで大丈夫だわ」
エルミナは小さく息を吐いた。
「ありがとう。かなり楽になりました」
「よかった」
エルミナはようやく少しだけ笑った。
その笑顔を見て、蒼真も少し肩の力が抜ける。
「治療魔法とかあるのかと思ってました」
蒼真が何気なく言うと、エルミナは一瞬目を丸くした。
それから、ふっと笑う。
「あるわよ。もちろん」
「ですよね」
「でも、私はまだ上手にできないの。ごめんなさい」
「あ、いや、そういう意味ではなかったです」
蒼真は少し慌てた。
「自分のいた世界と似たような処置だったので、少しほっとしただけです」
「ほっとした?」
「はい。魔法の世界だから、全部魔法で治すのかと思ってました。でも、冷やしたり、葉を当てたり、包帯を巻いたりするんだなと」
エルミナはしばらく蒼真を見つめた。
そして、くすっと笑った。
「なにそれ」
「変ですか」
「ううん。蒼真くんらしいわ」
「俺らしい?」
「何でも魔法で片付けないところ」
エルミナは包帯の端を整えながら言った。
「この世界では、魔法があるからこそ、魔法で何とかしようと考える人が多いの。でも、植物の世話はそうじゃないわ。水をあげる。土を替える。日差しを見る。根を傷つけない。そういう地味なことの方が大事な時も多いの」
「それは、少しわかります」
「うん。だから、蒼真くんがそう言ってくれて、少し嬉しい」
二人は短く笑った。
重かった空気が、ほんの少しだけ和らいだ。
だが、その柔らかさは長く続かなかった。
エルミナの視線が、赤く染まった温室へ向く。
月光草。
歌花。
薬草棚。
マンドラゴンの鉢。
植物祭に向けて整えてきた植物たちが、まだ不自然な赤に染まっている。
エルミナの表情が曇った。
「はあ……」
深いため息だった。
「今年は、だめかな」
その言葉には、諦めが混じっていた。




