第65話 私の彼氏よ(2)
第65話 私の彼氏よ
エルミナが息を呑む。
「トマス、やめて」
「目を覚ませ、エルミナ」
トマスの声は震えていた。
「君はおかしくなっている。そんな男を選ぶなんて、ありえない。そいつが悪いんだ。そいつが君を――」
言葉の途中で、トマスは呪文を唱え始めた。
蒼真の視界に、赤い光が見えた。
杖の先端。
そこに魔力が集まっている。
熱を帯びた赤。
火属性に近い魔力。
まるで燃える前の火種のように、赤い光が揺れていた。
エルミナは反応が遅れた。
まだ倒れた後で体が万全ではない。
それに、トマスが本当に杖を向けてくるとは思っていなかったのだろう。
蒼真は考えるより先に動いた。
一歩前へ出る。
エルミナの前に立つ。
そして、トマスの杖の先端を掴んだ。
「やめろ」
瞬間、手のひらに焼けるような痛みが走った。
「っ……」
熱い。
ただの杖ではない。
発動直前の魔力が先端に集まっている。
火傷するほどの熱を帯びていた。
だが、蒼真は手を離さなかった。
杖の先の魔力が、蒼真の手に触れた瞬間、流れを乱す。
赤い光が歪む。
集まっていた魔力が、術式として形を取る前に崩れていく。
蒼真の中で魔力を生み出すことはできない。
けれど、外部の魔力に干渉することはできる。
流れを止める。
歪める。
乱す。
結果として、魔法は発動しなかった。
赤い光が、ぱちんと小さな音を立てて弾ける。
温室内に焦げたような匂いがわずかに漂った。
蒼真は杖を握ったまま、小さく呟く。
「熱……」
声は静かだった。
しかし、手のひらは赤くなっている。
トマスは目を見開いた。
「な……」
杖を引こうとする。
だが、蒼真はまだ離さない。
トマスの顔から血の気が引いていく。
「なんなんだ、お前……」
その声には、初めて恐怖が混じっていた。
蒼真は杖から手を離した。
トマスは後ろへよろめき、そのまま腰を抜かすように床へ尻もちをついた。
エルミナが蒼真の背中に駆け寄る。
「蒼真くん!」
彼女は蒼真の手を見た。
手のひらが赤くなっている。
皮膚の一部が熱で刺激され、痛々しい色になっていた。
「大丈夫です」
蒼真はすぐに言った。
だが、エルミナは首を振る。
「大丈夫じゃない!」
その声は、怒っているようで、泣きそうでもあった。
「私のせいで……」
「違います」
「違わないわ。私があなたを巻き込んだから」
蒼真は返答に迷った。
確かに巻き込まれた。
だが、彼女が悪いわけではない。
悪いのは、杖を向けたトマスだ。
その時、温室の扉が大きく開いた。
「何事ですか!」
鋭い声が響く。
クラリス・ヴァルシュタイン先生だった。
その後ろには、植物施設の管理担当らしい教師もいる。
おそらく、騒ぎと魔力の乱れを察知して駆けつけたのだろう。
クラリス先生は温室内を見回した。
赤く染まった植物。
床に座り込むトマス。
蒼真の手。
エルミナの青ざめた顔。
数秒で状況が尋常ではないと判断したようだった。
「蒼井くん、説明を」
蒼真は頷いた。
できるだけ簡潔に話す。
「植物施設に来た時、すでに植物が赤くなっていました。エルミナ先輩はショックで倒れました。その後、トマス先輩が来て、植物の戻し方を知っているような発言をしました」
「違う!」
トマスが叫ぶ。
「僕はそんなこと――」
クラリス先生の視線がトマスを刺す。
「黙っていなさい。今は蒼井くんに聞いています」
トマスは口を閉じた。
蒼真は続ける。
「その後、トマス先輩がエルミナ先輩に杖を向けました。魔法を発動しようとしたので、俺が止めました」
クラリス先生の目が細くなる。
「生徒に杖を向けたのですか」
「違う! 僕は、そいつがエルミナをたぶらかしたから――」
「理由は聞いていません」
クラリス先生の声は冷たかった。
「生徒に向けて攻撃魔法を発動しようとしたのか、と聞いています」
トマスは言葉に詰まった。
答えられない。
それが答えだった。
植物施設の管理教師が、床に落ちたトマスの杖を拾い上げる。
「先端に火属性魔力の残滓があります。発動直前だったのは間違いないでしょう」
クラリス先生は静かに頷いた。
「トマス・グレンヴィル。事情を聞きます。来なさい」
「待ってください! 僕は何もしていない! 植物のことも、僕は――」
「植物の件も含めて聞きます」
クラリス先生は容赦しない。
「ですが、今この場で確定しているのは、あなたが生徒に杖を向けたという事実です」
トマスは蒼真を睨んだ。
「お前……」
その目には、まだ諦めきれない憎しみがあった。
しかし、教師二人を前にしては何もできない。
トマスは管理教師に促され、温室の外へ連れていかれた。
去り際、彼は一度だけ振り返った。
視線はエルミナに向いている。
だが、そこにあったのは心配ではなかった。
未練。
執着。
そして、怒り。
扉が閉まる。
温室に静けさが戻った。
だが、赤い植物たちは何も元に戻っていない。
エルミナはその場に立ち尽くした。
クラリス先生は温室内を見回し、表情を曇らせる。
「これは……かなり広範囲ですね」
植物施設の管理教師も頷く。
「すぐに記録を取ります。状態確認が必要です。下手に触らない方がいい」
クラリス先生は蒼真へ視線を移した。
「蒼井くん、その手は?」
「軽い火傷です」
「軽いかどうかは医務室が判断することです」
いつものように厳しい声だった。
しかし、蒼真が返事をする前に、エルミナが口を開いた。
「先生。応急処置だけ、私にさせてください」
クラリス先生はエルミナを見る。
エルミナの顔色はまだ悪い。
けれど、目にははっきりした意志があった。
「植物由来の冷却葉があります。火属性の軽い火傷なら、少し痛みを抑えられます。もちろん、そのあと必要なら医務室へ行かせます」
クラリス先生は少し考えた。
そして、頷く。
「わかりました。ただし、無理はしないこと。植物の異変については、教師側でも確認します」
「はい」
クラリス先生は蒼真を見る。
「蒼井くん。あなたも、勝手に調べ回らないように」
「はい」
「返事だけはいいですね」
「気をつけます」
クラリス先生は小さくため息をついた。
だが、今はそれ以上言わず、管理教師とともに温室の奥へ向かった。
残された蒼真とエルミナの間に、妙な沈黙が落ちた。
トマスはいなくなった。
教師も離れた。
赤い植物たちは静かに揺れている。
そして、蒼真の唇には、さっきの感触がまだ残っている気がした。
エルミナも同じなのか、顔を赤くして視線を逸らしている。
「あの……」
「その……」
二人の声が重なった。
エルミナはさらに赤くなる。
蒼真は少しだけ間を置いた。
「先に、手の処置をお願いします」
「そ、そうね」
エルミナは慌てたように頷いた。
そして、蒼真の手をそっと取る。
火傷した手のひらを見て、彼女の表情がまた曇った。
「ごめんね」
「エルミナ先輩が謝ることじゃないです」
「でも、私のために……」
「俺が勝手に動いただけです」
「それでも」
エルミナは蒼真の手を両手で包むように持った。
その手は、少し冷たかった。
「ありがとう」
小さな声だった。
蒼真は返事に迷い、結局短く答えた。
「どういたしまして」
エルミナは少しだけ笑った。
泣きそうな顔のまま。
そして、近くの棚へ向かった。
「少し待って。応急処置するから」
彼女は赤く染まった植物たちの中から、まだ葉の形がしっかりしている鉢を選び、慎重に一枚だけ葉を取った。
その葉は、他の植物と同じように赤みを帯びていた。
けれど、エルミナはそれを手のひらに乗せて状態を確かめる。
「大丈夫。薬効は残ってる」
蒼真はその様子を見ていた。
赤く染まっていても、植物は死んでいない。
エルミナの手つきが、それを証明しているようだった。
彼女は葉を軽く揉み、蒼真の火傷した手のひらへそっと当てる。
ひんやりとした感触が広がった。
熱が少し引いていく。
痛みが和らぐ。
エルミナは包帯を取り出し、蒼真の手に巻き始めた。
その指先は丁寧で、優しかった。
蒼真は赤い温室を見回した。
事件はまだ終わっていない。
植物が赤くなった理由も、戻るかどうかも、まだわからない。
トマスが何をしたのかも、証拠はない。
けれど、今日わかったことはある。
トマスはエルミナを見ていない。
植物も見ていない。
自分の欲しいものしか見ていない。
そして、その欲がこの事件に繋がっている可能性は高い。
エルミナは包帯を巻き終えると、小さく息を吐いた。
「いったん、これで大丈夫だわ」
蒼真は自分の手を見た。
植物の葉が包帯の下に挟まれている。
現代日本の湿布に少し似ている。
「ありがとうございます」
「本当は、ちゃんと医務室で見てもらった方がいいんだけど」
「かなり楽になりました」
「よかった」
エルミナはほっとしたように笑った。
だが、その笑顔はすぐに曇る。
彼女の視線は、赤く染まった植物たちへ向いた。
蒼真も同じ方向を見る。
温室はまだ赤い。
何も解決していない。
エルミナは包帯を巻いた蒼真の手を見て、それから自分の手を見る。
「……ごめんね」
「もう謝らなくていいです」
「うん」
エルミナは頷いた。
けれど、声は沈んでいた。
「でも、私、まだ何もできてない」
蒼真は彼女を見る。
エルミナは赤く染まった植物たちを見つめたまま、小さく俯いた。
「この子たちを元に戻せるのかも、わからない」
蒼真は包帯を巻かれた手を軽く握る。
赤く染まった葉。
枯れてはいない植物。
そして、まだ見えてこない真相。
その光景を見つめていた蒼真の脳裏に、前の世界で見たある実験の記憶がかすかによぎった。
だが、まだ確信はない。
蒼真は近くの葉を一枚見つめる。
葉脈に沿って広がる赤。
まるで、何かを吸い上げたような色だった。




