第65話 私の彼氏よ(1)
第65話 私の彼氏よ
赤く染まった温室の中で、空気が張り詰めていた。
葉も、花も、蔓も、薬草も、すべてが不自然な赤に染まっている。
つい数日前まで、緑と白と青い光に満ちていた植物研究施設は、今や血の色を薄く溶かしたような奇妙な空間へ変わっていた。
その中心で、エルミナ・リーフグレイスは蒼井蒼真の袖を握っていた。
指先に力が入っている。
震えている。
怒りだけではない。
悲しみ、悔しさ、不安、そして恐怖。
それらが混ざった震えだった。
蒼真はその震えを感じながら、目の前の男子生徒を見ていた。
トマス。
エルミナがそう呼んだ二年生の男子。
整った顔立ち。
乱れのない制服。
貴族的な立ち姿。
だが、蒼真に向ける視線には、隠しきれない敵意があった。
いや、敵意だけではない。
軽蔑。
嫉妬。
そして、自分のものを奪われたとでも言いたげな歪んだ怒り。
蒼真は静かに言った。
「まずは、事実を整理しよう」
その言葉に、トマスの眉がぴくりと動いた。
「何を偉そうに」
トマスは吐き捨てるように言った。
「お前に何がわかる。ここは植物研究施設だぞ。魔力もまともに感じられない一年生が、口を挟む場所じゃない」
蒼真は反応しなかった。
挑発に乗る必要はない。
今、重要なのはトマスの言葉だ。
彼は言った。
この赤い植物の戻し方を教えてやろうと思ったのに、と。
植物が赤くなった原因がまだわからない段階で、戻し方を知っているかのような発言をした。
それは、無視できない。
「あなたはさっき、戻し方を教えると言いました」
蒼真は淡々と確認した。
「つまり、植物がなぜ赤くなったのか、何か知っているということですか」
トマスの目が一瞬だけ揺れた。
だが、すぐに鼻で笑う。
「知っているとは言っていない」
「戻し方、と言いました」
「植物に詳しい者なら、可能性くらい思いつくと言っただけだ」
「そうですか」
蒼真はそれ以上、強く追及しなかった。
トマスは少し拍子抜けしたような顔をした。
おそらく、もっと食い下がってくると思ったのだろう。
だが、ここで感情的に詰めても意味がない。
証拠はまだない。
植物が赤くなった仕組みも、侵入方法も、使用されたものも、何一つ確定していない。
ただ、トマスが何かを知っている可能性が高い。
今はそれだけで十分だった。
エルミナは黙っていられなかった。
「聞き間違いじゃないわ。あなたは確かに戻し方って言った」
「君は少し混乱しているんだよ、エルミナ」
トマスは急に優しい声を作った。
だが、その優しさは薄く、不自然だった。
「こんな酷い状態を見て、驚いたんだろう。無理もない。君は繊細だからね」
「勝手に決めつけないで」
「僕は君を心配しているだけだよ」
「心配している人は、こんなタイミングで現れないわ」
エルミナの声には怒りがあった。
しかし、足元はまだ少し不安定だ。
彼女は倒れたばかりで、完全には回復していない。
蒼真はさりげなく体の位置をずらし、トマスとの間に立てるようにした。
それに気づいたトマスの視線が鋭くなる。
「それより、エルミナ」
トマスは蒼真を睨んだまま言った。
「本当にそいつが君の彼氏なのか?」
エルミナの指が、蒼真の袖を強く握った。
先ほど彼女は言った。
私の彼氏よ、と。
もちろん、本当ではない。
蒼真もそれは理解している。
トマスを遠ざけるための嘘。
だが、ここで引けば、トマスはさらにエルミナへ迫るだろう。
エルミナもそれをわかっている。
彼女は震える息を整え、はっきりと言った。
「そうよ」
トマスの顔が歪んだ。
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「君がそんな男を選ぶはずがない」
「私が誰を選ぶかは、私が決めることよ」
「違う!」
トマスの声が温室に響いた。
赤く染まった歌花の花弁が、その音に反応して小さく震える。
だが、いつもの澄んだ音は鳴らなかった。
まるで、植物たちまでもが息を潜めているようだった。
「君はわかっていないんだ、エルミナ」
トマスは一歩前へ出た。
「僕は何度も君に想いを伝えた。贈り物もした。君が好きそうな植物の本も用意した。珍しい薬草の種だって手に入れた。それなのに、君は僕を拒み続けた」
「それは、あなたが私を見ていなかったからよ」
「見ていたさ!」
トマスは即座に言い返した。
「誰よりも君を見ていた。君の美しい髪も、耳も、エルフの血を引くその姿も――」
「ほら」
エルミナは低く言った。
トマスが言葉を止める。
「やっぱり、あなたが見ていたのはそこだけじゃない」
彼女の声は震えていた。
怒りではなく、深い失望で。
「エルフの耳。珍しい血。自分の隣に置けば自慢できる存在。あなたにとって私は、そういうものだった」
「違う」
「違わない」
エルミナは首を振った。
「私は純粋なエルフじゃない。人間の血も混じっているわ。あなた、それを聞いた時、一瞬迷ったでしょう?」
トマスの表情が硬くなる。
蒼真は黙って見ていた。
その一瞬は、蒼真も見ていた。
トマスは取り繕おうとしている。
だが、完全には隠しきれていない。
「そんなことはない」
トマスは笑おうとした。
「僕は君が好きなんだ。君のすべてが欲しいんだよ」
その言葉に、エルミナの肩がわずかに震えた。
欲しい。
トマスは自然にそう言った。
好きだという言葉よりも先に、欲しいと言った。
それがすべてだった。
蒼真は静かに口を開いた。
「エルミナ先輩の価値を決めるのは、あなたじゃない」
トマスの視線が蒼真へ刺さる。
「何だと?」
「本人が大切にしているものを否定して、それで好かれると思っているなら、かなり無理があります」
蒼真の声は落ち着いていた。
怒鳴ってはいない。
だが、その分、言葉はまっすぐだった。
「エルミナ先輩は植物が好きです。土に触れることも、植物を育てることも、大切にしています。それを泥くさいと言う人が、彼女を理解しているとは思えません」
トマスの顔が赤くなる。
怒りで。
「お前に何がわかる!」
「少なくとも、あなたよりは今の彼女の表情を見ています」
「黙れ!」
トマスは叫んだ。
その声には余裕がなかった。
エルミナは蒼真の横顔を見た。
蒼真はいつも通りだった。
冷静で、落ち着いていて、大きな感情を表に出さない。
けれど、彼は言ってくれた。
土の匂いが好きだと。
育てる大変さがわかったと。
土がついているのは、植物とちゃんと向き合っている証拠だと。
あの言葉が、今も胸の奥に残っている。
トマスは違った。
彼は植物を見ない。
自分を見ない。
ただ、エルフという形だけを見ている。
エルミナは、蒼真の袖を握っていた手を少しだけ緩めた。
そして、自分の胸元に手を当てる。
ここで引いてはいけない。
彼氏だという嘘は、勢いで言ったものだ。
けれど、この場で撤回すれば、トマスはまた踏み込んでくる。
それに。
蒼真に否定されるのは、少し怖かった。
「なら証明してみろ!」
トマスが叫んだ。
「本当に彼氏なら、それらしい証拠を見せてみろ! 口では何とでも言える。どうせ僕を遠ざけるための嘘だろう!」
蒼真は少しだけ困った。
証明。
本当ではないものを証明するのは難しい。
そもそも、嘘を重ねるべきかという問題もある。
しかし、今この場でエルミナを突き放す選択肢はない。
蒼真がどう返すべきか考えた、その瞬間だった。
エルミナがこちらを向いた。
「ごめんね、蒼真くん」
小さな声だった。
「え?」
蒼真が聞き返すより早く、エルミナの手が蒼真の制服の胸元を掴んだ。
彼女は少し背伸びをした。
緑色の髪が揺れる。
頬が赤い。
耳まで赤い。
それでも、目は逸らさなかった。
次の瞬間。
柔らかい感触が、蒼真の唇に触れた。
温室内の時間が止まった。
ほんの一瞬のキスだった。
触れて、すぐに離れる。
けれど、確かに唇に触れた。
蒼真は固まった。
トマスも絶句した。
エルミナは顔を真っ赤にしながら、それでも蒼真の前に立った。
声は少し震えていた。
それでも、はっきりとトマスに告げる。
「どう? これで信じた?」
エルミナは蒼真の腕に自分の腕を絡めた。
「蒼井くんは、私の彼氏よ」
蒼真の頭の中では、いくつかの思考が同時に動いていた。
まず、今何が起きたのか。
次に、なぜ起きたのか。
そして、ここでどう動くべきか。
エルミナは自分を守るために嘘をついた。
それを証明するためにキスをした。
彼女は今、かなり無理をしている。
ここで蒼真が驚いて否定すれば、エルミナはさらに傷つく。
だから、蒼真は息を整えた。
そして、いつものように淡々とした声で言う。
「そういうことです」
エルミナが驚いたように蒼真を見た。
蒼真は小さく頷く。
合わせる。
今はそれが一番いい。
エルミナの表情に、わずかな安堵が浮かんだ。
だが、トマスはそうではなかった。
「嘘だ」
低い声だった。
「嘘だ、嘘だ、嘘だ……」
トマスの手が震えている。
唇が歪む。
「そんなはずがない。僕がどれだけ言っても駄目だったのに。贈り物も、言葉も、何度も何度も……それなのに、どうしてそんな男が!」
彼の視線は、もはやエルミナを見ていなかった。
蒼真を睨んでいる。
奪った相手として。
自分より劣っているはずの相手として。
それが許せないのだろう。
「どうやってエルミナをたぶらかした!」
「たぶらかしていません」
「黙れ!」
トマスは腰に差していた杖を抜いた。




