第64話 赤く染まった温室(2)
第64話 赤く染まった温室
やがて、背後で小さな声がした。
「……う……」
蒼真は振り返る。
ソファの上で、エルミナがゆっくり目を開けていた。
「エルミナ先輩」
蒼真はすぐにそばへ戻った。
「大丈夫ですか。無理しないでください」
「あたし……」
エルミナはぼんやりと天井を見た。
それから、ゆっくり体を起こそうとする。
蒼真は肩を支えた。
「急に起きない方がいいです」
「うん……ごめんね」
エルミナは少しずつ意識を取り戻しているようだった。
だが、温室の赤い光景が目に入った瞬間、また表情が歪む。
「……夢じゃ、ないのね」
「はい」
蒼真は短く答えた。
ここで嘘をついても意味がない。
エルミナはソファの上で両手を握りしめた。
「どうしよう……」
声が震えている。
「ボタニカル・マギアフェスタが近いのに……」
涙が目元に浮かぶ。
「みんな、ずっと準備してきたの。植物研究会の子たちも、薬草学の子たちも、先生たちも……この子たちを見てもらうために、ずっと……」
エルミナは赤く染まった植物たちを見る。
「私、この子たちの状態、毎日見てたのに……昨日まで元気だったのに……」
蒼真は黙って聞いた。
この光景が、エルミナにとってどれほどつらいものか。
それは、完全にはわからない。
ただ、植物を語る彼女の表情を知っている。
マンドラゴンを起こさないように手を添えた時の真剣な目。
月光草の採取時間を説明した時の楽しそうな声。
土臭いと言われたことを少し寂しそうに話した顔。
彼女にとって、ここにある植物は単なる展示物ではない。
大切に育ててきた存在なのだ。
「まだ、枯れてはいません」
蒼真は言った。
エルミナが顔を上げる。
「え……?」
「葉に張りがあります。茎も折れていない。土も大きく荒らされてはいません。色は異常ですが、少なくとも今すぐ全部駄目になったとは限らないと思います」
「本当に……?」
「断言はできません。でも、諦める段階じゃないです」
エルミナは唇を噛んだ。
涙が一筋、頬を伝う。
「ありがとう……」
蒼真は頷いた。
その時だった。
植物研究施設の扉が、再び開いた。
ゆっくりと。
まるで、開ける者が中の状況をすでに知っているかのように。
「これはこれは」
聞き慣れない男子生徒の声が響いた。
「エルミナ、大丈夫かい?」
蒼真は振り返った。
入口に一人の男子生徒が立っていた。
年齢はエルミナと同じくらいだろう。
二年生の紋章。
整った顔立ち。
薄茶色の髪を綺麗に整え、制服も乱れなく着こなしている。
立ち姿だけなら、貴族の子弟という印象を受ける。
だが、その目は温室ではなく、エルミナだけを見ていた。
赤く染まった植物を見ても、驚きは薄い。
心配そうな言葉を口にしているが、視線はエルミナの顔から離れない。
エルミナの表情が一変した。
悲しみの中に、怒りが混じる。
「トマス……」
彼女はソファから立ち上がろうとした。
蒼真が支える。
エルミナはまだ足元が少しふらついていたが、それでもトマスを睨んだ。
「あなたの仕業でしょ!」
トマスと呼ばれた男子生徒は、大げさに肩をすくめた。
「何を言うんだ、エルミナ。植物を赤くする魔法なんて、僕は知らないよ」
その言い方に、蒼真はわずかな違和感を覚えた。
植物を赤くする魔法。
まだ誰も、魔法で赤くしたとは言っていない。
エルミナは怒りでそこまで気づいていないようだった。
「しらばっくれないで。こんなことをする理由があるのは、あなたくらいよ」
「ひどいな。僕は君を心配して来ただけだよ」
トマスは施設内へ一歩入った。
蒼真は自然にエルミナの前へ少し出る。
トマスの視線が、そこで初めて蒼真へ向いた。
途端に、目つきが変わる。
「……それより、エルミナ」
声が低くなった。
「隣のそいつは誰だよ」
蒼真はトマスを見返した。
敵意。
明確な敵意だった。
初対面の相手に向けるには、少し強すぎる。
「俺は――」
蒼真が名乗ろうとした瞬間、エルミナが蒼真の袖を掴んだ。
小さな力だった。
けれど、はっきりと助けを求めるような仕草だった。
蒼真は言葉を止める。
エルミナは一瞬だけ蒼真を見た。
そして、ほんの少しだけ目で合図をする。
その表情は怒っている。
悲しんでいる。
けれど、それ以上に、トマスから距離を取りたいという意志があった。
エルミナはトマスへ向き直った。
「私の彼氏よ」
温室内の空気が止まった。
蒼真も、一瞬だけ止まった。
だが、エルミナがこちらに小さくウインクしたのを見て、状況を理解した。
嘘だ。
トマスを遠ざけるための嘘。
そう判断した蒼真は、驚きを表に出さないようにした。
「……そういうことです」
淡々と合わせる。
トマスの顔色が変わった。
「なんだと……?」
声が震えていた。
怒りか、嫉妬か。
おそらく両方だ。
「エルミナ……僕という人がいながら……」
「あなたとは何度も付き合えないって言ったわ」
エルミナの声は冷たかった。
「何度も。はっきりと」
「どうしてだ!」
トマスが声を荒げる。
「僕はこんなに君を愛しているのに!」
「違う」
エルミナは即座に否定した。
「あなたが欲しいのは、私じゃない。私の中にあるエルフの血でしょ」
トマスの目が一瞬だけ揺れた。
蒼真はそれを見逃さなかった。
エルミナは続ける。
「あなたはいつもそうだった。エルフは美しい、エルフは長命だ、エルフの血は特別だって……私自身の話なんて、聞こうともしなかった」
「そんなことはない」
トマスは取り繕うように笑った。
「僕は君が好きなんだ。君のすべてが欲しいんだよ」
その視線が、エルミナの顔から、髪、耳、そして身体へと流れる。
好意というより、所有欲に近い。
蒼真は無意識に眉を寄せた。
エルミナは一歩引いた。
「私、純粋なエルフじゃないわよ」
その言葉は、静かだった。
けれど、覚悟を決めた声だった。
「混血だけど、それでもいいの?」
トマスの表情が、ほんの一瞬だけ止まった。
本当に一瞬だった。
だが、迷った。
蒼真にはそう見えた。
トマスはすぐに笑顔を作り直す。
「構わないさ。君が好きなんだから」
だが、その言葉は軽かった。
エルミナにも、それは伝わったらしい。
彼女の目から、怒りよりも深い失望が滲む。
トマスはそれに気づかないまま続けた。
「僕と一緒にいれば、こんな泥くさい作業をしなくて済むよ。毎日土にまみれて、変な植物の世話をして、危ない思いをして……そんなことをしなくてもいい」
エルミナの肩が震えた。
「それに、そいつとも別に本気じゃないんだろう? どうせ僕を遠ざけるための嘘だ。君がそんな平凡な男を選ぶはずが――」
「もういい」
エルミナの声が、低く響いた。
トマスが口を閉じる。
「やっぱり、あなたは何もわかってない」
エルミナは、赤く染まった植物たちを見た。
それから、自分の手を見た。
土がついている手。
植物を育ててきた手。
「私は、この場所が好きなの」
声が震えている。
けれど、弱くはなかった。
「この子たちが好きなの。土に触れることも、水をあげることも、葉の色を見ることも、根が元気か確かめることも……全部、私にとって大切なことなの」
エルミナはトマスを睨んだ。
「それを泥くさいって言う人に、私の何がわかるの?」
トマスは少し苛立ったように顔を歪めた。
「エルミナ、僕は君のためを思って――」
「出ていって」
「……何?」
「もう出ていって。あなたと話したくない」
温室内に沈黙が落ちた。
赤く染まった植物たちが、ただ静かに揺れている。
トマスの顔が怒りで引きつった。
「くっ……」
そして、ついに口を滑らせた。
「せっかく、この赤い植物の戻し方を教えてあげようと思ったのに」
その瞬間。
蒼真の目が細くなった。
エルミナも息を呑む。
「……今、なんて言ったの?」
エルミナの声は震えていた。
トマスは一瞬、しまったという顔をした。
だが、すぐに開き直るように顎を上げる。
「別に。ただ、僕には知識があると言っただけだ」
蒼真は静かに言った。
「そういうことですか」
トマスの視線が蒼真へ向く。
「なんだよ」
蒼真は赤く染まった植物を見た。
それから、トマスを見る。
「戻し方を知っているんですね」
「お前に何がわかるんだよ」
トマスの声には、あからさまな敵意が混じっていた。
「エセ彼氏が」
エルミナの手が、蒼真の袖を強く握った。
蒼真はその震えに気づく。
怒り。
恐怖。
悔しさ。
そして、植物たちを傷つけられたかもしれない悲しみ。
事件は、まだ解決していない。
植物がなぜ赤くなったのかも、まだわからない。
トマスがどう関わったのかも、証拠はない。
けれど、少なくとも一つだけはっきりした。
この男は、何かを知っている。
蒼真は静かに息を吐いた。
赤く染まった温室の中で、エルミナの震える手を感じながら、トマスを見据える。
植物祭はまだ始まっていない。
だが、その準備期間に起きたこの異変は、もう単なる事故では済まされない。
そして、蒼真は理解していた。
ここから先は、ただ植物を元に戻すだけの話ではない。
エルミナが大切にしてきたものを、誰が、なぜ、どうやって傷つけたのか。
それを明らかにする必要がある。
赤い葉が、温室の明かりを受けて不気味に光る。
トマスは蒼真を睨みつけていた。
エルミナは泣きそうな顔で、それでも蒼真の横に立っていた。
蒼真はまだ、結論を出さない。
ただ、事実を一つずつ拾い上げる。
この世界でいつもそうしてきたように。
魔法のせいだと決めつけず。
感情に流されず。
目の前の現象を観察する。
赤く染まった温室。
壊れていない鍵。
枯れていない植物。
薄い魔力痕跡。
そして、戻し方を知っていると言った男。
蒼真は小さく呟いた。
「まずは、事実を整理しよう」
その言葉に、トマスの眉がぴくりと動いた。
エルミナは不安そうに蒼真を見る。
だが、蒼真の視線は温室全体を捉えていた。
事件は、ここから始まる。




