第64話 赤く染まった温室(1)
第64話 赤く染まった温室
エルミナ・リーフグレイスと出会ってから、蒼井蒼真の放課後は少し変わった。
もちろん、毎日必ず植物研究施設へ通っているわけではない。
授業はある。
課題もある。
ルミエールやフレイア、セレナたちと過ごす時間もある。リリアの研究部に顔を出せば、召喚や魔法理論に関する話であっという間に時間が過ぎる。
それでも、昼休みや放課後、ふと時間が空いた時、蒼真の足は自然と学園の奥へ向くようになっていた。
植物研究施設。
ガラス張りの巨大温室。
魔法陣によって温度や湿度を管理された、魔法植物たちの空間。
最初に訪れた時は、食人植物に指を食べられかけた。
次に訪れた時は、マンドラゴンの植え替えを手伝った。
その時、エルミナの耳に泥がついていたので拭ったら、彼女が真っ赤になって逃げ出した。
あれ以降、蒼真はエルフ族の耳には不用意に触れないよう心に決めている。
ちなみに、エルミナ本人はその件について、しばらく目を合わせてくれなかった。
だが、数日経つと少しずつ元に戻った。
いや、元に戻ったというより、妙に耳を意識するようになった。
蒼真が近づくと、エルミナの耳がぴくりと動く。
蒼真がそれに気づき、心配して尋ねる。
「エルミナ先輩、耳、まだ痛いですか?」
するとエルミナは顔を赤くして、手で耳を押さえる。
「痛いわけじゃないの」
「でも、動いてます」
「動くの。エルフの耳は動くものなの」
「そうなんですね」
「そうなの」
そう言ったあと、エルミナはなぜかさらに赤くなる。
蒼真にはよくわからなかった。
ただ、ひとつわかったことがある。
エルミナは、植物の話をしている時が一番楽しそうだ。
月光草の採取時間。
炎苺の熟度の見分け方。
歌花に大声を聞かせてはいけない理由。
眠り砂の調合。
水を好む薬草と、水を与えすぎると根腐れする魔法草の違い。
エルミナは、どれも丁寧に教えてくれた。
その説明はわかりやすい。
ただ知識を並べるだけではなく、植物それぞれの性質や、扱う時の注意点、なぜそうなるのかまで話してくれる。
蒼真にとって、それはこの世界を理解する新しい手がかりだった。
魔法は人間だけのものではない。
植物もまた、魔力を宿し、環境に反応し、時に人を助け、時に人を傷つける。
魔法植物を知らずに、この世界の事件を理解することはできないかもしれない。
そう思うようになっていた。
そして、エルミナにとっても、蒼真が植物研究施設に来る時間は少しずつ特別なものになっていた。
彼女はそれを言葉にはしない。
けれど、蒼真が扉を開けると、手入れの途中でも顔を上げる。
「来てくれたのね」
その声には、いつも少しだけ嬉しさが混じっていた。
そんな日々が、しばらく続いた。
ボタニカル・マギアフェスタ。
学園ではそう呼ばれる植物祭が、少しずつ近づいていた。
正式名称は長いが、生徒たちはほとんど「植物祭」と呼ぶ。
魔法植物、薬草、精霊花、栽培研究、危険植物の管理技術などを展示する、ノクティス魔法学園でも人気の行事らしい。
まだ本番ではない。
今は準備期間だ。
展示予定の植物を選び、状態を整え、説明札を作り、来客が安全に見学できるよう導線を確認する。
植物研究会だけでなく、薬草学、精霊学、医療魔法を学ぶ生徒たちも関わる大きな行事だった。
エルミナはその準備に追われていた。
植物研究会所属の二年生。
さらに、植物施設の管理にも詳しい。
だから、委員会にも呼ばれることが増えているらしい。
「大変ですね」
ある日の昼休み、蒼真がそう言うと、エルミナは薬草の束をそろえながら笑った。
「大変だけど、楽しいわ。植物祭は、普段植物に興味がない人にも、この子たちのことを知ってもらえる機会だから」
「この子たち、ですか」
「ええ。植物だって、それぞれ違うのよ。怖い子もいるし、気難しい子もいるし、優しい子もいるわ」
「食人植物は怖い子ですね」
「あの子は素直なだけよ。お腹が空いたら食べる。それだけ」
「素直すぎます」
蒼真が言うと、エルミナは楽しそうに笑った。
そんなふうに笑う彼女を見ていると、本当に植物が好きなのだとわかる。
土に触れ、葉に触れ、根を気遣い、花の状態を見る。
彼女の手はいつも少し土で汚れている。
だが、それを恥じているようには見えなかった。
むしろ、植物と向き合ってきた証のように思えた。
蒼真はそういうところを、悪くないと思っていた。
そして、その日。
事件は起こった。
放課後。
蒼真は授業を終え、植物研究施設へ向かっていた。
空は薄く曇っている。
雨が降るほどではないが、日差しは弱く、学園の石畳には少し湿った空気が漂っていた。
校舎裏の道を歩くと、遠くに巨大温室が見えてくる。
いつも通り、ガラス張りの外壁には薄い魔法陣が浮かび、ゆっくりと光が流れていた。
ただ、その日は珍しく、温室の入り口の前に人影があった。
緑色の長い髪。
少し疲れたような横顔。
エルミナだった。
「エルミナ先輩」
蒼真が声をかけると、エルミナは振り返った。
「あら、蒼真くん」
その表情に、いつもの柔らかい笑みが浮かぶ。
けれど、目元には少し疲れがあった。
「お疲れ様です。今着いたんですか?」
「ええ。ちょっと委員会に時間がかかっちゃってね」
「植物祭の準備ですか?」
「そう。展示順とか、安全区画の配置とか、危険植物の見学範囲とか……決めることが多くて」
エルミナは小さく息を吐いた。
「でも、ようやく今日の分は終わったわ。あとはこの子たちの様子を見て、水やりをして、記録をつければ……」
「無理してませんか?」
蒼真が尋ねると、エルミナは少し驚いたように目を開いた。
それから、ふわりと笑う。
「大丈夫。植物たちの顔を見る方が、私には休憩になるの」
「顔、ですか」
「植物にも顔があるのよ。元気な時と、機嫌が悪い時で全然違うんだから」
「まだ俺には見分けがつかないですね」
「少しずつわかるようになるわ」
エルミナは鍵を取り出した。
植物研究施設の扉には、普段は簡易的な魔法錠がかかっている。見学可能な時間帯なら解放されていることもあるが、準備期間に入ってからは安全管理のため、関係者が開ける形になっていた。
エルミナが鍵を差し込む。
魔法陣が淡く光り、扉のロックが外れた。
「今日は、昨日植え替えた薬草の様子を見て、それから月光草の記録を――」
そう言いながら、エルミナが扉を開けた。
いつものように、土と草の匂いが流れてくるはずだった。
だが、その瞬間、蒼真は違和感を覚えた。
匂いが違う。
土の湿った匂いはある。
草の青い香りもある。
しかし、その奥に、妙に甘ったるい匂いが混じっていた。
花の香りというより、何かを煮詰めたような、濃い匂い。
それと、わずかに鉄のような匂い。
蒼真が眉を寄せた直後、先に中へ入ったエルミナが立ち止まった。
「……え?」
小さな声だった。
次の瞬間、その声は悲鳴に変わった。
「なに、これ……!」
蒼真はすぐに施設内へ踏み込んだ。
そして、息を呑んだ。
温室が赤かった。
夕焼けの赤ではない。
花の赤でもない。
葉も。
茎も。
蔓も。
小さな草も。
白かったはずの歌花の花弁も。
青白く光っていた月光草の葉も。
淡い緑色だった薬草の束も。
すべてが、不自然な赤に染まっていた。
血のような赤。
染料を吸い上げたような、内側からにじみ出る赤。
温室全体が、一夜にして別の場所に変わってしまったようだった。
「これは……」
蒼真は言葉を失った。
何かが燃えたわけではない。
植物は焼け焦げていない。
枯れているようにも見えない。
葉は垂れていないし、茎も折れていない。
ただ、色だけが異常に変わっている。
それが逆に不気味だった。
エルミナはふらふらと一歩前へ出た。
「うそ……」
震える声。
彼女の視線は、温室の奥へ向いていた。
そこには、数日前まで二人で手入れをした薬草の区画がある。
眠り砂を混ぜた鉢。
植え替えたばかりのマンドラゴン。
ボタニカル・マギアフェスタに向けて、エルミナが特に念入りに世話をしていた植物たち。
そのすべてが赤く染まっている。
「どうして……」
エルミナの声がかすれた。
「昨日まで、元気だったのに……」
彼女の膝が揺れた。
蒼真はすぐに手を伸ばす。
「エルミナ先輩!」
エルミナの体が崩れ落ちる寸前、蒼真は彼女を支えた。
完全に意識を失ったわけではない。
だが、顔から血の気が引き、目の焦点が定まっていなかった。
「エルミナ先輩、大丈夫ですか」
「……あ……」
彼女は何かを言おうとしたが、言葉にならなかった。
蒼真は周囲を確認する。
施設内の休憩スペースに、小さなソファがある。
以前、植物の観察記録を書く時にエルミナが使っていた場所だ。
蒼真は彼女を抱えるようにして、ゆっくりとそこへ運んだ。
ソファに横たえる。
エルミナの呼吸は浅いが、乱れてはいない。
強いショックで意識が遠のいたのだろう。
蒼真は少し迷った。
すぐに教師を呼びに行くべきか。
だが、施設内の状況を確認せずに離れるのは危険かもしれない。
犯人がまだ近くにいる可能性もある。
それに、エルミナを一人残すわけにはいかない。
蒼真はソファの近くに水差しがあるのを確認し、エルミナの手が冷えていないかを見た。
大きな外傷はない。
ひとまず命に関わる状態ではない。
なら、今できることは状況確認だ。
蒼真は温室内を見回した。
「……これは」
入口の扉に破壊の跡はない。
魔法錠も壊されていないように見える。
窓も割れていない。
鉢は倒れていない。
棚も荒らされていない。
土が大きく掘り返された跡もない。
誰かが暴れたような形跡はなかった。
なのに、植物だけが赤い。
蒼真は近くの月光草の前で足を止めた。
元々は青白く光る葉だった。
今は葉脈に沿うように赤が走り、全体が淡い赤紫色に変わっている。
枯れてはいない。
葉は張りを保っている。
むしろ、生きている。
次に歌花を見る。
白い花弁が赤く染まっている。
花弁の縁ほど濃く、中心部はやや薄い。
その赤は、表面に塗られたものには見えなかった。
内側から色が変わっている。
「表面に塗ったわけじゃない……」
蒼真は小さく呟いた。
なら、魔法か。
あるいは、植物自身の反応か。
蒼真は目を細める。
魔力の痕跡を探す。
この世界に来てから、蒼真には魔力の流れや痕跡が見えることがある。
魔法が使われた場所。
魔力が残っている物。
強い術式の跡。
それらは、普通の人には見えない光のように蒼真の目に映る。
だが、この温室全体には、強烈な魔法痕跡は残っていなかった。
もちろん、魔法植物が並ぶ施設なので、魔力そのものはあちこちにある。
しかし、外部から大規模な魔法をかけたような濃い痕跡は見当たらない。
それが気になった。
「魔法で直接、全体を赤く染めた……という感じじゃないな」
蒼真は断定しない。
まだ材料が足りない。
けれど、違和感はあった。




