第63話 エルフの耳とマンドラゴン(2)
第63話 エルフの耳とマンドラゴン
エルミナは無理に笑うように続ける。
「土臭いって言われることもあるわ。エルフなのに、もっと綺麗な花だけ見ていればいいのにって。泥だらけになって、変な植物ばかり育てているから、近寄りにくいって思われているのかもしれない」
言葉は穏やかだった。
だが、その奥に少しだけ寂しさがあった。
植物が好き。
好きだからこそ、誰よりも近くにいる。
けれど、その姿を理解されないこともある。
蒼真は作業台の上のマンドラゴンを見た。
眠っている植物。
土に触れるエルミナの手。
その手袋についた泥。
蒼真は静かに言った。
「土臭い? 誰ですか、そんなこと言う奴は」
エルミナが驚いたように顔を上げた。
「え?」
「いいじゃないですか、土の匂い」
蒼真は真面目に続けた。
「俺は好きですよ。土の匂いも、花も、野菜も」
それは、気を遣った言葉ではなかった。
この世界に来る前、蒼真はそこまで植物に関心があったわけではない。
けれど、こちらに来てから、食べ物も薬も、魔法も、生活も、多くのものが植物に支えられているのだと少しずつ知った。
「育てるのがどれだけ大変か、今日少し手伝っただけでもわかりました。前の世界では、そんなこと考えたこともなかったので、勉強になります」
蒼真はエルミナを見る。
「だから、土がついてるのは、それだけちゃんと向き合ってる証拠だと思います」
エルミナは何も言わなかった。
ただ、蒼真を見つめていた。
その瞳が、少しずつ潤んでいく。
「エルミナ先輩?」
蒼真が声をかけると、エルミナは慌てて目元を押さえた。
「ご、ごめんなさい。違うの」
「俺、何か変なこと言いましたか?」
「ううん。嬉しかっただけ」
エルミナは小さく笑った。
目元に涙が残っている。
「そう言ってもらえたの、初めてかもしれない」
蒼真は少し困ったように頭をかいた。
「普通のことを言ったつもりだったんですけど」
「その普通が、嬉しいのよ」
エルミナは深呼吸した。
そして、涙を拭ってから、柔らかく微笑む。
「蒼真くんとは、仲良くなれそう」
「え?」
蒼真は少し不思議そうに首を傾げた。
「もう友達だと思ってましたけど」
エルミナが固まった。
「……え?」
「違いました?」
「い、いいの?」
「何がですか?」
「友達になってくれるの?」
蒼真はますます不思議そうにした。
「もちろんですよ」
あまりにも自然な返答だった。
そこに計算はない。
蒼真にとって、数日前に出会い、植物を教えてくれて、今日も一緒に作業した相手は、もう十分に友人と呼べる存在だった。
エルミナはしばらく呆然としていた。
そして、ゆっくりと顔を赤くする。
「そ、そう……友達……」
「はい」
「友達……」
なぜかエルミナは同じ言葉を二度繰り返した。
それから、ふわりと嬉しそうに笑った。
「ありがとう、蒼真くん」
「お礼を言われることじゃないです」
「私にとっては、言いたいことなの」
そう言われると、蒼真は何も返せなかった。
穏やかな沈黙が落ちる。
マンドラゴンの葉が小さく揺れた。
作業台の上には土と鉢。
窓から差し込む夕方の光。
蒼真はふと、エルミナの横顔を見た。
「あれ」
「どうしたの?」
「エルミナ先輩、ここに泥がついてます」
「え?」
エルミナが自分の頬を触ろうとする。
だが、泥がついているのは頬ではなかった。
髪の隙間から覗く、長く尖った耳の先。
そこに小さな泥がついていた。
蒼真は特に深く考えなかった。
作業中に土が飛んだのだろう。
気づいたなら取った方がいい。
ただそれだけだった。
「こっちです」
そう言って、蒼真は手を伸ばした。
指先で、エルミナの耳についた泥をそっと拭う。
次の瞬間。
「ひゃっ……!」
エルミナの肩が大きく跳ねた。
耳がぴんと震える。
顔が一瞬で真っ赤になった。
蒼真も固まる。
「え」
「ひゃ、あ……っ」
エルミナは両手で自分の耳を押さえ、数歩後ずさった。
目が潤んでいる。
さっきの涙とは違う。
明らかに別の意味で動揺していた。
「す、すみません!」
蒼真は慌てて手を引いた。
「泥がついていたので、つい……急に触ったらびっくりしますよね。本当にすみません」
「ち、違うの」
エルミナは耳を押さえたまま首を振る。
しかし、顔はますます赤い。
「嫌とかじゃなくて、その、違うの」
「違う?」
「ちょ、ちょっと、お手洗い!」
そう言うと、エルミナは逃げるように作業台から離れ、施設の奥へ向かってしまった。
蒼真は一人残された。
目の前には眠っているマンドラゴン。
横には植え替え用の道具。
そして、自分の指先。
ついさっきまで、エルミナの耳に触れていた指。
「……やってしまったのか」
蒼真は真剣に考え込んだ。
エルフ族。
長い耳。
種族ごとの文化やマナー。
この世界に来てから、知らないことばかりだ。
人間同士でも、国や地域が違えば触れてはいけない場所や礼儀がある。異種族ならなおさらだ。
もしかすると、エルフにとって耳は神聖な場所なのかもしれない。
あるいは、家族や恋人以外が触れてはいけない場所なのかもしれない。
「確認するべきだったな」
蒼真は反省した。
どれだけ善意でも、相手の文化を知らずに触れるのはよくない。
泥を取るにしても、一言断るべきだった。
その頃。
施設の外。
ガラス張りの壁の向こう側に、一つの影があった。
夕方の光を背にしているせいで、顔は見えない。
その人物は、植物施設の中をじっと見ていた。
蒼真が一人で作業台の前に立っている姿。
奥へ消えていったエルミナの姿。
そして、並べられた鉢や道具。
影はしばらく動かなかった。
まるで、何かを確かめているように。
やがて、足音もなく、その場から離れていった。
蒼真はそれに気づかなかった。
しばらくして、エルミナが戻ってきた。
髪を少し整え、顔の赤みも少しだけ引いている。
それでも、耳はまだ赤かった。
「エルミナ先輩」
蒼真はすぐに頭を下げた。
「すみません。エルフ族に対するマナーがわかっていませんでした。耳に触れる前に、確認するべきでした」
エルミナは一瞬きょとんとした。
それから、慌てて手を振る。
「ち、違うの。そんなに深刻なことじゃないわ」
「でも、嫌だったんじゃ」
「嫌ではないの」
エルミナはそこで言葉を止めた。
また頬が赤くなる。
「ただ、少し……敏感だから」
「敏感」
「ええ。エルフの耳は、人間の耳より魔力や音に反応しやすいの。だから、急に触られると、その……びっくりするの」
「そうだったんですね」
蒼真は真剣に頷いた。
「次からは触る前に確認します」
「つ、次から」
エルミナの耳がまたぴくりと動いた。
彼女はそれを隠すように髪を直す。
「うん。次からは、触る時は言ってね」
「わかりました」
蒼真は真面目に答えた。
エルミナは目を逸らした。
内心では、まだ心臓が落ち着いていなかった。
男性に耳を触られたのは初めてだった。
そもそも、エルフの耳はかなり敏感だ。
親しい相手でも、いきなり触れることは少ない。
それを、蒼真はあまりにも自然に触れた。
泥を取るため。
ただ、それだけ。
だから怒る理由はない。
むしろ、蒼真が悪気なく自分を気遣ってくれたことはわかっている。
わかっているからこそ、余計に困る。
耳に残った感触が、なかなか消えてくれなかった。
「エルミナ先輩?」
「な、なに?」
「顔が赤いですけど、大丈夫ですか?」
「大丈夫」
「本当に?」
「大丈夫です」
なぜか敬語になった。
蒼真は少し心配そうに見たが、エルミナが大丈夫と言う以上、それ以上踏み込むのはやめた。
その後の作業は、少しだけ気まずかった。
蒼真は必要以上に距離を取った。
エルミナも耳を触られたことを意識してしまい、説明の途中で何度か言葉に詰まった。
「この薬草は、乾燥させると傷薬に……あ、違うわ。先に根を洗ってから……」
「はい」
「それで、この瓶に入れて……えっと」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫」
明らかに大丈夫ではない。
しかし、蒼真も何を言えばいいのかわからなかった。
マンドラゴンは眠ったまま、新しい鉢の中で葉を揺らしている。
まるで二人の気まずさなど知らないと言いたげだった。
それでも、時間が経つにつれて、少しずつ空気は戻っていった。
エルミナは薬草の束を整理し、蒼真は鉢を棚へ運んだ。
水をやる量を教わり、危険な植物には近づきすぎないように注意され、作業台を拭く。
何気ない手伝いだった。
けれど、蒼真にとっては新鮮だった。
事件の捜査でもなく、授業でもなく、誰かに疑われているわけでもない。
ただ、植物の世話をする。
この世界の日常に、少しだけ混ざったような気がした。
やがて、窓の外が夕焼けに染まる。
植物施設の中には、月光草の淡い光が灯り始めていた。
「今日はありがとう、蒼真くん」
エルミナが言った。
「かなり助かったわ。マンドラゴンの植え替え、一人だと少し大変だったから」
「役に立てたならよかったです」
「役に立ったわ。蒼真くん、筋がいいもの」
「そうですか?」
「ええ。観察が丁寧だし、植物の反応をちゃんと見てくれる」
エルミナは微笑む。
「また手伝ってくれる?」
「もちろんです」
蒼真は自然に答えた。
エルミナの表情が明るくなる。
「本当?」
「はい。勉強にもなりますし」
「勉強にも……」
エルミナは少しだけ唇を尖らせた。
「それだけ?」
「え?」
「ううん、なんでもないわ」
エルミナはすぐに笑ってごまかした。
蒼真は首を傾げる。
彼女の言葉の意味はよくわからなかった。
出口まで見送られながら、蒼真はもう一度頭を下げた。
「今日はありがとうございました。それと、耳の件は本当にすみませんでした」
「もういいの」
エルミナは赤くなりながら言った。
「次から気をつけてくれれば」
「はい。次から触る時は言います」
「……うん」
エルミナの耳がまた小さく動いた。
蒼真はそれを見て、やはり耳は触られると敏感なのだと理解した。
ただし、その理解は少しずれていた。
エルミナは何か言いたそうにしたが、結局言わなかった。
「それじゃあ、また」
「ええ。また来てね」
「はい」
蒼真は植物研究施設を出た。
外の風は少し冷たかった。
温室の中にいたせいか、余計にそう感じる。
校舎へ向かう道を歩きながら、蒼真は今日のことを思い返した。
マンドラゴン。
植え替え。
エルミナの本音。
友達という言葉。
そして、エルフの耳。
「……次からは確認する」
蒼真は小さく呟いた。
異世界で生きるには、学ぶことが多い。
魔法だけではない。
植物だけでもない。
種族ごとの文化や距離感も、きちんと知る必要がある。
一方、植物研究施設の中。
エルミナは扉の前に立ったまま、蒼真の背中が見えなくなるまで見送っていた。
やがて姿が消えると、彼女はそっと自分の耳に触れた。
まだ、少し熱い。
「友達……」
エルミナは小さく呟いた。
蒼真は、あまりにも自然に言った。
もう友達だと思っていた、と。
その言葉が、胸の奥に残っている。
植物ばかり見ている自分。
土臭いと言われる自分。
変わった植物に夢中になる自分。
そんな自分を、蒼真は普通に受け入れた。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
「……不思議な子」
エルミナは微笑んだ。
その時、施設の外でかすかな物音がした。
エルミナは顔を上げる。
「……?」
ガラスの向こう、夕暮れの影が揺れたように見えた。
けれど、次の瞬間にはもう何もなかった。
風で枝が揺れただけかもしれない。
エルミナは少し首を傾げたが、すぐに作業台へ戻った。
マンドラゴンの鉢を確認し、葉を優しく撫でる。
「今日はいい日だったわね」
マンドラゴンは眠ったまま、小さく葉を震わせた。
まるで、そうだね、と返事をするように。
だが、施設の外。
夕暮れに沈む木陰の奥で、一つの影が足を止めていた。
その人物は、植物研究施設を見つめていた。
蒼真が去った扉。
エルミナが戻った作業台。
そして、温室の奥に並ぶ植物たち。
影は小さく息を吐く。
「……もう少し」
その声は、誰にも届かなかった。
やがて影は、夕暮れの中へ静かに消えていった。
植物祭はまだ始まっていない。
事件も、まだ表には出ていない。
けれど、静かな温室の周囲では、誰にも気づかれないまま、小さな歪みが芽を出し始めていた。




