第9話 委員長の依頼と、彼氏のふり
第9話 委員長の依頼と、彼氏のふり
昼休みの図書室で、九条リリアから突きつけられた言葉が、蒼真の頭の中でまだ熱を帯びていた。
――世界を越える術式。
理論上は成立する。
その一文だけで、胸の奥の何かが少しだけ持ち上がる。帰れないかもしれない、という不安が、帰れるかもしれない、という可能性に置き換わっただけだ。確証は何もない。それでも、ゼロではない。
(可能性は、情報の形をしている)
蒼真は午後の授業の席で、ノートの端に小さく「召喚事例」「術式」「触媒」「学園史」と書き散らしながら、意識を戻した。
教室の空気は、午前よりも少しざわついている。
視線が多い。自分が立ち上がるわけでも、発言するわけでもないのに、何かが揺れている。
「ねえ、ほんとに魔法、消したの?」
背後の席から、女の子のひそひそ声が聞こえた。
「消したっていうか、反射したって……」
「異世界人だから、常識が違うんじゃない?」
(観測対象が増えた。噂が自己増殖している)
蒼真は感情を動かさず、声の主と周囲の反応を脳内で整理した。
好奇心。怖れ。尊敬。嫉妬。
混ざれば混ざるほど、言葉は正確さを失う。
教師の講義は淡々と続く。午後は「術式基礎」の導入で、詠唱の文法と陣の構造が中心だった。だが蒼真は、誰がどこで視線を向けているか、誰がどの話題で頷いたか、そういった“空気の流れ”を無意識に追ってしまう。
そして、その視線の中心に、いつも同じ人物がいることにも気づく。
前方中央――委員長席。
ルミエール・ド・アルセリア。
彼女は授業中、特にこちらを見ていない。背筋を伸ばし、筆記を取り、教師の言葉にうなずく。完璧な優等生の顔だ。
だが、教室のざわめきが強くなりかけた瞬間だけ、ほんのわずかに視線が動く。
――場を整える視線。
(管理している。……いや、まとめている、か)
蒼真がそう判断したところで、午後の授業は終わった。
◆
放課後。
椅子を引く音が一斉に鳴る。生徒たちが立ち上がり、次の場所へ散っていく。その流れの中で、蒼真の周囲だけが逆方向に渦を巻いた。
「蒼井くん、ちょっといい?」
「昨日の事件、あれって本当に魔法じゃないの?」
「異世界って、どんなとこ? 空飛ぶ乗り物があるって本当?」
女子生徒が、あっという間に蒼真を囲む。
数が多い。距離が近い。質問の方向性が統一されていない。
(これは会話ではなく、情報採取だな)
蒼真は一歩退く余地を探したが、背後にも人がいる。攻撃ではない。だが、圧力は圧力だ。
「順番に」
蒼真がそう言いかけた瞬間。
「みんな、そこまで」
澄んだ声が教室の空気を切った。
ルミエールが、いつの間にか輪の外側に立っていた。目立つはずの金髪と凛とした佇まいが、逆に“当然そこにいる”ように空気を支配する。
「皆さん、質問はまた後ほどにしてください」
柔らかいが、委員長としての線を引く声だった。
「蒼井くんは、先生から校内案内を頼まれていますの」
言い切ると、自然と場が静まる。
「……よろしいかしら、蒼井くん」
蒼真は、わずかに頷いた。
「……構いません」
「じゃ、行こ」
ルミエールは踵を返し、蒼真はその後を追った。
◆
廊下を歩きながら、ルミエールは学園の説明をしていく。
新校舎の教室配置。実技棟への行き方。封印資料室は立ち入り禁止であること。魔導具工房の利用には申請が必要なこと。
説明は的確で無駄がない。
ただ、時々、ほんの数秒だけ言葉が途切れる。
そのたび、ルミエールは前を向いたまま、何かを確かめるように歩調を変える。
(人の気配を見ている)
蒼真は、その小さな癖を拾った。
彼女が案内している場所は、自然と人の多い廊下から外れていく。
中庭の裏手。古い回廊。窓から差し込む光が、石床に長い影を落としている。
その回廊は、足音がよく響く。誰かが来ればすぐ分かる。
ルミエールはそこで立ち止まった。
蒼真も止まる。
風が、制服の裾を少し揺らした。
ルミエールは一度、深呼吸をしてから、こちらを向いた。
そして、まるで言葉を飲み込むように唇を結ぶ。
「……蒼井くん」
「どうした」
ルミエールの頬が、少し赤い。
夕方の光のせいではない。
「……その、蒼井くん」
一拍置いてから、はっきりと言う。
「私と……お付き合いしている“ふり”を、していただけませんか」
一瞬、蒼真の脳内が真空になった。
「……は?」
驚きが遅れてやってくる。
彼女は委員長で、貴族で、学園の“顔”のような存在だ。そんな人物が、初日の転入生に向かって、いきなり彼氏になってほしいと言う。
合理性がない。
感情だけなら、なおさら読めない。
「どういう意味だ」
蒼真の声は、自然と低くなった。
ルミエールは視線を逸らし、少し早口になる。
「だって……昨日のこと、です」
「見られてしまいましたし……」
蒼真は瞬きをした。
「……昨日?」
「その……下着姿、です」
ルミエールが小さく言った瞬間、蒼真の頭の中で状況が繋がった。
女子寮の件だ。
蒼真は即座に訂正する。
「あれは事故だ」
「しかも裸じゃない。下着だ」
「……下着も、人に見られたくない姿です」
声は小さいが、はっきりしている。
「ですから……その……責任を、取っていただけたらと……」
蒼真は言葉に詰まった。
責任。
その単語が、この世界でどういう意味を持つかは、想像できる。
(早まるな。まず事実確認だ)
「責任って、具体的に――」
「ち、違がいますわ!」
ルミエールが慌てて手を振る。
「今のは冗談! 冗談だから!」
赤いまま、咳払いを一つ。
「正確には……彼氏の“ふり”をしてほしいの」
「ふり?」
蒼真が聞き返すと、ルミエールは少しだけ肩を落とした。
「最近、ストーカーに付きまとわれてて……」
その声のトーンが変わった。
さっきまでの強がりが剥がれ、現実の重さが滲む。
ルミエールは鞄の内ポケットから封筒を取り出した。
紙が二つ折りになっている。写真が数枚。封筒の口は何度も開け閉めした跡があった。
「これ」
蒼真が受け取る。
写真には、学園内のルミエールが写っていた。
中庭で本を抱えて歩く横顔。
廊下で友人と話す後ろ姿。
寮の入口で振り返った瞬間。
どれも自然な日常の一場面だが、撮られている角度が異常だった。
距離が近い。
隠し撮り。
そして、添えられた手紙。
文字は丁寧で、内容は歪んでいる。
“君は誰のものでもない。僕だけの光だ”
“君が笑うたび、僕の世界は救われる”
“君が拒むなら、君を拒む世界を消せばいい”
蒼真は、最後の一行で目を止めた。
(これは……脅しだ)
魔法の痕跡はない。術式の匂いもしない。
だが、人間の執着は、魔法より厄介なことがある。
「これはアウトだ」
蒼真は短く言った。
ルミエールの顔が、ほっと緩む。
「やっぱり……そうだよね」
「いつから?」
「少し前から。最初は、ただの手紙だった」
「で、写真が来た」
「……うん」
ルミエールは指先を握りしめている。
「怖い?」
蒼真が聞くと、ルミエールは一瞬だけ唇を噛んだ。
「怖いに決まってる」
それは強がりでも、虚勢でもない。
ただの事実だ。
蒼真は封筒を閉じ、返した。
「分かった」
「捕まえよう」
ルミエールは目を見開いた。
「ほんと!?」
次に、息を吐くように小さく笑ってしまう。
「……ありがとう」
その瞬間、張りつめていた糸が切れた。
ルミエールの肩が、小さく震える。
「……ずっとさ」
「アリシアにしか、相談できなかった」
声が掠れる。
「怖かった」
「誰にも言えなくて」
「委員長だからって……平気なふりしてた」
ルミエールは顔を赤くしたまま、視線を逸らした。
「でも、昨日の事件で蒼井くんを見たとき」
「この人なら……って思った」
言い終わる前に、彼女は一歩踏み出し、蒼真の胸に顔を埋めた。
蒼真は一瞬だけ固まった。
抱き返すべきか。距離を取るべきか。
だが、彼女が求めているのは答えではない。
安全だという感覚だけだ。
蒼真はゆっくりと手を上げ、ルミエールの頭に触れた。
髪は予想以上に柔らかい。
撫でるように、軽く動かす。
「……怖かったんだな」
余計な言葉は足さない。
ルミエールは声を殺して泣いた。
「……うん」
その涙が落ち着くまで、蒼真は動かなかった。
◆
しばらくして、ルミエールが顔を上げた。
目元を袖で拭い、深呼吸を一つ。
「……ごめん。急に、変なことして」
「気にするな」
「じゃあさ」
ルミエールは、少し無理に笑った。
「……では」
「彼氏の“ふり”、お願いいたします」
「了承した」
ルミエールは照れたように口元を隠した。
「……今度の休み」
「家、来て。」
「分かった」
「……助かる」
短く言って、彼女はまた歩き出す。
「さ、校内案内の続き。まだ見せてないとこ、あるし」
蒼真はその背中を見て、言った。
「話してくれて、ありがとう」
ルミエールは足を止め、振り返る。
また赤くなっている。
「……いいよ」
そして、少しだけ不満そうに眉を寄せた。
「でもさ」
「彼氏彼女なんだから、呼び方くらい変えない?」
「名前で?」
「そう。私のこと、ルミエールって呼んで」
蒼真は一拍置き、頷いた。
「……ルミエール」
彼女は耳まで赤くして、目を逸らす。
「……うん」
◆
夜。
ルミエールの部屋は、同室のアリシアが灯りを落としたところだった。
扉が開き、ルミエールが入ってくる。
アリシアは、振り返った瞬間に気づいた。
「……お嬢様。お顔が、少し赤いようですが……」
ルミエールは靴を脱ぎ、ベッドの端に腰掛ける。
「……うん」
「ちょっと、泣いちゃった」
アリシアは一瞬、呼吸を止めた。
「蒼井くんに……お話しになったのですね」
ルミエールは頷く。
「うん。全部」
「写真も手紙も。私が怖かったことも」
アリシアは小さく肩をすくめ、目を伏せた。
「……僭越ながら申し上げますと」
「蒼井くんは、まだ存じ上げない部分も多く……」
「お屋敷へお招きになるのは、少し……不安でございます」
声は弱く、どこか怯えを含んでいる。
「ですが……お嬢様が、お決めになったことでしたら」
「私は……お側で、お支えするだけです」
そっと、視線を上げる。
「……どうか、ご無理だけはなさらないでくださいませ」
ルミエールは、アリシアを見て小さく笑った。
「ありがとう、アリシア」
灯りが落ち、部屋は静かになった。
――それでも、夜は終わらない。
蒼真はまだ知らない。
この学園で、噂がどれほど速く、どれほど歪むかを。




