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その事件、魔法ではありません。~魔力ゼロ転移者の魔法学園生活~  作者: にめ
1学年前期:ルミエールの相談

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第10話 噂は真実より速く、距離は静かに縮まる

第10話 噂は真実より速く、距離は静かに縮まる


 目を覚ました瞬間、蒼真は胸の奥がふっと緩むような感覚に包まれた。


 ――近い。


 視線を少し動かすと、朝の光を受けて淡く輝く白い髪が見えた。ユリウス・フィオレが、無防備な寝顔で蒼真のすぐ隣にいる。睫毛は長く、寝息は静かで、まるで子猫のようだ。


 昨日よりも、確実に距離が近い。


 しかも、ユリウスは蒼真の服の裾を、指先で無意識に掴んでいた。引き寄せるつもりはないのだろう。ただ、そこに誰かがいると確認するための、癖のような仕草だった。


(……安心したいだけか)


 蒼真はため息を飲み込み、慎重に体を起こす。強く動けば、裾を掴んだ指が引っ張られてしまう。指先に触れないよう、布をそっとほどく。


 その動きに反応したのか、ユリウスが小さく身じろぎした。


「……起きろ、ユリウス」


 声を落として呼ぶと、ユリウスはゆっくりと目を開けた。


「あ……おはよう、蒼真」


 寝起き特有の、少し甘い声。まだ半分眠っているのか、焦点の合わない目で蒼真を見つめる。頬には枕の跡が薄く残っていて、見た目だけなら“かわいい”という言葉が一番しっくり来る。


 そして、悪びれもせずに言う。


「……今日は、続き、する?」


「しない」


 蒼真は即答した。


「即答だね……」


 ユリウスはくすっと笑い、目を細める。


「でもさ、蒼真が起こしてくれるの、好きだよ。ちゃんと声かけてくれるし」


「評価基準が不明だ」


「安心できる基準」


 ユリウスは当たり前のように言い切って、寝癖のついた白髪を手で整える。指先で梳かすたびに、さらりと光が滑った。


「……それにさ」


 ユリウスは小さく欠伸をしてから、妙に真剣な顔になる。


「昨日、蒼真、遅かったでしょ。帰ってくるまで、ちょっと……寝れなかった」


 蒼真は一拍置いた。


 そういうことを、平然と言う。


「心配する理由がない」


「あるよ」


 ユリウスはにこりと笑って、やわらかく言い返す。


「蒼真、危なっかしい。魔法が使えないのに、事件の中心に突っ込んでいくし」


「……突っ込んでない」


「突っ込んでる」


 言い切られて、蒼真は言葉を探すのをやめた。


(反論すると長くなる。ここは切り上げる)


「着替える」


「うん。じゃあ、食堂でね」


 そう言って、ようやくユリウスは自分のベッドへ戻った。名残惜しそうに一度だけ振り返り、柔らかく笑う。


 蒼真は天井を見上げ、小さく息を吐いた。


(……距離感が、完全に定まっていない)


 だが、それを拒絶したいとは思わなかった。ユリウスがここを“安全な場所”だと認識している。その事実だけは、悪くなかった。


 ◆


 寮の廊下は朝の匂いがした。石造りの壁は冷たいのに、窓から差す光は暖かい。生徒たちの足音が点々と響き、遠くで食堂の扉が開く音がする。


 食堂で簡単に腹を満たし、蒼真はユリウスと並んで校舎へ向かった。


 歩きながら、ユリウスが不意に首を傾げる。


「ねえ、なんか今日、視線多くない?」


「多い」


 蒼真は即答した。


 実際、多いどころではなかった。


 登校中、蒼真はすぐに異変に気づいた。


 視線が多い。それも、はっきりと意味を持った視線だ。昨日の“珍しい転入生”を見る目ではない。確信と、憶測と、面白がりが混ざった視線だった。


「ねえ、昨日見た?」

「委員長、男の子と抱きついてたよ」

「人の少ない場所で」

「完全に恋人でしょ、あれ」


 囁き声が、噂として形を持ち、すでに完成している。


(……事実の一部が、意味を変えて流通している)


 抱きついていたのは事実だ。だが、それは恐怖からの逃避であり、安心を求めた結果にすぎない。


 それでも噂は、感情や理由を削ぎ落とし、最短距離で“物語”を作り上げる。


「蒼真、聞いてる?」


 ユリウスが小声で覗き込んでくる。


「聞こえてる」


「……委員長って、ルミエールさんのこと?」


「そうだろうな」


 ユリウスは小さく息を飲む。


「え、じゃあ、男の子って……」


「推測するな」


「推測したくなるよ」


 ユリウスは頬を膨らませるが、すぐにふっと笑う。


「でも、蒼真、顔が変わってない。さすが」


「変える必要がない」


「うん、かっこいい」


 褒め言葉として受け取るべきか分からないまま、蒼真は校舎へ入った。


 ◆


 教室に入ると、空気が微妙に張り詰めているのが分かった。


 視線が、さっきより露骨だ。


 ルミエールは委員長席に座り、いつも通り背筋を伸ばしている。表情は崩していない。だが、指先がほんの少しだけ机の端をなぞっていて、落ち着かない気配がある。


 そこへ――。


「ねえ委員長! 彼氏できたって本当!?」


 フレイアの直球が飛んだ。


 教室が一気に静まる。


「否定しないということは、肯定と取られても仕方ありませんわ」


 セレナが腕を組み、理屈を重ねる。声は冷たいが、瞳の奥に焦りがある。たぶん彼女自身が、噂に振り回されている。


 ルミエールは一瞬、言葉に詰まった。


 その前に、一歩前へ出た人物がいた。


 アリシアだった。


 淡い色合いの制服の下でも、すらりとした体のラインが分かる。姿勢が良く、胸元の布地がわずかに張ることで、彼女の女性的なスタイルが自然と目に入った。けれど本人は、そんな視線に気づかないふりをして、ただ主を守る位置に立つ。


「……その話題は、控えていただけますか」


 穏やかな声だが、芯がある。


「委員長の私生活に関わることです」


 しかし、その言葉がセレナの感情を刺激した。


「……なによ」

「ルミエールの側近の分際で」

「本人がいないと、何も言えないくせに」


 空気が凍る。


「どうせ、外見を盾にしてるだけでしょう」

「本質は空っぽ……母親と、そっくりじゃない」


 アリシアの肩が震え、唇がきゅっと結ばれる。言い返したいのに、できない。主のために黙るしかない。その葛藤が、目に滲む。


「――セレナ。おやめなさい」


 静かな声だったが、教室の空気が一変した。


 ルミエールが、はっきりと告げる。


 その声には、委員長としての命令と、友人としての叱責が混ざっていた。


「……ごめん」


 セレナは視線を逸らす。強がりが剥がれ、ほんの少しだけ小さくなる。


「いえ……大丈夫です」


 アリシアはそう言ったが、その声はかすかに震えていた。


 ルミエールは一歩だけ前へ出て、アリシアを背に隠すように立つ。


 それ以上、誰も口を開けなかった。


 蒼真は、その一連を黙って見ていた。


(……噂は、もう人を傷つけている)


 そしてもう一つ。


(昨日の抱擁は、彼女にとって“逃げ場”だったはずだ)


 それが、今日この教室で“刃”になっている。


 授業が始まっても、空気は完全には戻らない。


 教師の声が黒板の文字をなぞり、魔法理論の復習が淡々と続く。それでも蒼真は、教室の温度を測るように視線を巡らせてしまう。


 噂が生むのは、面白さだけではない。


 妬み、怒り、恐怖。


 そして、沈黙。


 ◆


 昼休み。


 蒼真は一人で図書室へ向かった。


 教室にいると、視線が絡みつく。今は静かな場所が必要だった。


 図書室の扉を開けた瞬間、紙とインクの匂いが鼻をくすぐる。天井は高く、窓から柔らかい光が落ちる。足音すら、ここでは小さくなる。


 張り詰めていた神経が、少しだけ緩んだ。


「……蒼井くん」


 声をかけられて振り向くと、九条リリアがいた。黒髪のロングが肩から流れ、眼鏡の奥の瞳が、彼を見つけた瞬間にわずかに明るくなる。


「来てくれたのね」


「静かな場所が必要でな」


「分かるわ」


 リリアは自然に隣の椅子を引き、距離を詰める。肘が触れそうなほど近いが、本人はまったく気にしていない様子だ。


 蒼真が本棚を眺めようと立ち上がると、リリアも一緒に立つ。


「部活動の資料、見たいんでしょ」


「……読まれてるな」


「図書委員だから」


 さらりと言い切り、リリアは受付の奥から薄い冊子を取り出してきた。『部活動案内』と書かれた、学園用の小冊子だ。


「これ。最新」


 差し出された冊子を受け取ろうとして、蒼真は一瞬止まった。


 リリアの指が、蒼真の指に触れた。


 ほんの一瞬。だが、触れたこと自体が妙に意識に残る。


 リリアは気づかない。気づかないまま、自然体で続けた。


「読みながらでもいいけど、説明したほうが早いと思う」


 少し雑談を交わした後、リリアがちらりと視線を上げる。


「……ルミエールさんと、付き合ってるの?」


 質問は短いのに、温度が高い。


「違う。“ふり”だ」


 蒼真がそう言った瞬間、リリアは一瞬目を見開き、それから胸を撫で下ろすように息を吐いた。


「……そう」


 ほっとしたのが、はっきりと分かった。


「じゃあ、変な遠慮はしなくていいわね」


「何の話だ」


「勉強の話」


 そう言いながら、リリアはさらに椅子を寄せ、ノートを開く。


 椅子が擦れる音がやけに大きく聞こえて、蒼真は反射的に周囲を見る。


 幸い、近くの席には誰もいない。


「……近い」


「近いほうが教えやすいでしょ」


 理屈は通っている。だが、それを言われると反論が難しい。


 リリアは眼鏡を指で押し上げ、さらりと話題を切り替えた。


「で、部活」


 そこからは、部活動の話になった。


 魔法研究部、魔法剣術部、属性特化部、精霊研究会、魔導具制作部、結界研究部、召喚研究部、歴史文献研究部、馬術部、非魔法戦闘部――それだけではない。


「この学園、部活はかなり多いの」


 リリアは指で冊子をめくりながら、淀みなく挙げていく。


「例えば、治癒・補助魔法部。支援系の実習が多い」

「飛行術研究会。箒に乗るのが得意な人たち」

「薬草・錬金部。魔力触媒も扱う」

「魔法演劇部。幻術を使って舞台を作るの」

「古代語研究会。術式文の読み解き担当」

「天文観測会。占星術とは別で、純粋な星の記録」

「調停・法務研究会。魔法犯罪の法体系を勉強する」


 蒼真は、思ったよりも生活感のある部活の多さに、わずかに目を細めた。


「……学園というより、小さな街だな」


「そういうものよ。ここで一通り学んで、どこへでも行ける」


「掛け持ちは?」


「基本、自由。研究系と実技系を両方って人も多い」


 リリアはちらりと蒼真を見る。


「蒼井くんは、実技を補うべき」


 痛いところを突かれて、蒼真は否定しなかった。


「……魔法剣術部と、歴史文献研究部だな」


「合理的ね。蒼井くんらしい」


 リリアはそう言って微笑む。


「ルミエールさんは馬術部。貴族の嗜みもあるし、騎獣の扱いも上手い」


 蒼真は昨日の彼女を思い出した。


 強がって、泣いて、でも最後には前を向いた。


 馬の上なら、きっとまた別の顔を見せるのだろう。


「リリアは?」


「私は魔法研究部。図書委員と兼ねてる」


 言い切る声が少し誇らしげで、蒼真はそれを意外に思った。


 リリアは自分の選択を、誰かに認めてほしいわけではない。ただ、自分で納得している。


 その姿勢は、蒼真に近い。


 しばらくして、リリアは視線を伏せた。


「……実は、私も相談したいことがあるの」


 声が小さくなる。


「近いうちに、ちゃんと話す」


「分かった」


 蒼真は深追いしない。準備ができていない相談を、無理に引き出せば壊れる。


 リリアは少しだけ安心したように息を吐き、ふっと視線を上げた。


「……蒼井くんって、逃げないのね」


「逃げる必要がない」


「そういうところ、ずるい」


 その言い方が妙に甘く聞こえて、蒼真は返事のタイミングを失った。


 リリアは気づかないふりをして、ノートの端に小さく文字を書き足す。


「はい。ここ、覚えて。次の小テスト、出る」


「……分かった」


 ◇


 図書室を出るころには、昼休みの時間がかなり削れていた。


 廊下に出ると、空気が一気に騒がしくなる。遠くの教室から笑い声が聞こえ、階段を駆ける足音が響く。


 蒼真は背後に、微かな視線を感じた。


(見られている)


 振り返れば、誰かの顔が見えるのかもしれない。


 だが、蒼真は振り返らなかった。


 振り返った瞬間、相手の“物語”に巻き込まれる。


 そう直感していた。


 そして――噂は、真実より速い。


 だからこそ。


 蒼真は歩みを止めず、次の授業へ向かった。


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