第8話 魔法の授業と、図書室の論理
第8話 魔法の授業と、図書室の論理
目を覚ました瞬間、蒼真は違和感を覚えた。
――重い。
正確には、自分の身体の横に、想定していない温もりがある。
ゆっくりと視線を下げると、そこには白い髪があった。寝癖のついた柔らかそうな髪が、蒼真の肩にかかっている。
「……ユリウス」
蒼真は即座に状況を整理した。
場所は男子寮の自室。自分のベッド。昨夜は確か、一人で眠りについたはずだ。鍵も閉めた。記憶に欠落はない。
ではなぜ――
隣で、ユリウス・フィオレが無防備な顔で眠っているのか。
しかも距離が近い。近すぎる。肩に頭を預け、片腕が蒼真の腹のあたりに回されている。
(結論。寝相……というより、生活習慣だな)
蒼真はそこまで考えて、少しだけ思考を深めた。
ユリウスは、これまでずっと一人部屋を使ってきたと言っていた。闇属性という理由だけで距離を取られ、結果として「誰かと同じ空間で眠る」経験がほとんどなかったらしい。
だからこそ、どちらのベッドで寝るか、境界線がどこか――そういった感覚が、根本的に欠けている。
蒼真は冷静だった。
驚きはしたが、混乱はない。感情が先走る前に、原因と結果を切り分ける癖が、こんな場面でも発動する。
ユリウスは闇属性というだけで警戒されがちな存在だが、本人は極端に人懐っこく、距離感が壊滅的だった。まだ同室になって日が浅いが、その兆候だけは十分すぎるほど理解していた。
蒼真は、絡まった腕をそっと外そうとしてから諦め、声をかけた。
「……起きろ、ユリウス」
肩を軽く揺すると、ユリウスはむにゃりと眉をひそめ、数秒遅れて目を開いた。
「あ……あれ?」
寝ぼけた声。ゆっくりと焦点が合い、状況を理解した瞬間、彼は跳ね起きた。
「ご、ごめん! またやった!?」
「“また”なんだな」
「うん……無意識で……」
ユリウスは頭をかきながら、申し訳なさそうに続ける。
「前はずっと一人だったからさ。部屋にベッドが二つあるって感覚が、まだよく分かってなくて……」
「どっちで寝ても、同じだと思ってた?」
「うん。気づいたら、蒼真のほうがあったかくて……」
ユリウスはしゅんと肩を落とし、勢いよく頭を下げる。
「ほんとにごめん! 蒼真が嫌じゃなかったら、その……」
「嫌という感情は発生していない」
蒼真は即答した。
それは事実だった。不快ではない。ただ、予測外だっただけだ。
ユリウスはぱっと顔を上げ、ぱあっと笑顔になる。
「よかった!」
「ただし、次からは自分のベッドで寝ろ」
「え、でも……」
「境界線を覚えろ。これは推奨事項だ」
「柵!?」
そんなやり取りをしているうちに、部屋の外からは特に物音はしなかった。
男子寮は個室構造で、防音もしっかりしている。少なくとも、この初日に限っては、他人に聞かれる心配はない。
それでも蒼真は、無意識に周囲へ意識を向けてしまう自分に気づき、内心で苦笑した。
(……慣れていないのは、俺のほうかもしれないな)
◆
ユリウスはなおも気まずそうに視線を泳がせながら、ぽつりと言った。
「……誰かと一緒に寝るの、ちょっと楽しかった」
「感想は不要だ」
「はは、ごめん!」
蒼真は溜息をつきつつも、完全に突き放すことはしなかった。
ユリウスが悪意でやっていないことは、最初から分かっている。ただ、人との距離を測る経験が、極端に少なかっただけだ。
(問題は……周囲の誤解が加速する点だな)
蒼真は、朝から頭の中でそう整理していた。
◆
朝食の時間。
寮の食堂は、朝から活気に満ちていた。
長いテーブルの上には、この世界特有の料理が並んでいる。淡く光を放つ果実のジャム、香草と魔獣の乳から作られた白いスープ、魔力を帯びた穀物を練り込んだ黒パン。どれも見慣れないが、香りだけは食欲を刺激する。
蒼真は慎重に黒パンを割り、スープに浸して口に運んだ。
(……普通にうまいな)
味覚は、少なくとも人間の感覚から大きく外れてはいないらしい。
視線が集まる理由は明白だった。女子生徒の比率が圧倒的に高い。その中で数少ない男子、それも“例の事件の中心人物”がいれば、注目されないほうがおかしい。
「ねえ、あの人でしょ?」
「魔法、消したって……」
「反射したって噂……」
「異世界から来たって……」
ひそひそ声が、魔法障壁でも張られているかのように、妙に鮮明に耳へ届く。
(事実、誇張、誤解……全部混ざっている)
魔法を消したわけではない。反射も条件が揃った結果だ。異世界から来たのは事実だが、それが何を意味するかは誰も理解していない。
ユリウスは隣で、白いスープを気に入ったのか、嬉しそうに飲み干していた。
「これ、すごく優しい味だね。蒼真はどう?」
「味覚的には問題ない」
「それ、褒めてる?」
「評価だ」
ユリウスはくすくす笑い、無邪気に周囲へ手を振る。
「おはよう!」
数人の女子が顔を赤くし、慌てて視線を逸らした。
(……この反応も、誤解を助長する要因だな)
蒼真はそう分析しながら、異世界の朝食を静かに噛みしめた。
◆
教室は、城の一角を切り取ったような広さだった。
前方中央に委員長席。その位置に、ルミエール・ド・アルセリアが座っている。背筋を伸ばし、周囲に自然と視線を配る姿は、貴族令嬢という肩書きを抜きにしても、場をまとめる資質を感じさせた。
一瞬、視線が合う。
ルミエールは気づいたように、ほんのわずか微笑んだ。
(……何か、意図があるな)
蒼真はそう感じたが、深追いはしなかった。
◆
基礎魔法理論の授業は、学園の根幹を成す科目だった。
「魔法の発動には、三つの要素が必要です」
教師は黒板に整った文字で書き込む。
「第一に、魔力。第二に、術式。第三に、意志」
内在魔力を持つ者。外部から魔力を供給する触媒を使う者。その差異について説明が続く。術式も、詠唱による言語型、地面や空中に描く魔法陣、刻印や魔導具に組み込まれた固定式と、多岐にわたる。
「そして意志。これは方向性と制御を司る要素です。どれほど魔力があっても、意志が曖昧では暴走する」
続いて基本属性。
火・水・風・土。自然現象と結びついた四属性。
光・闇。概念や精神に影響を及ぼす二属性。
「個人には適性があります。相性の悪い属性は、努力しても伸びにくい」
生徒たちは熱心にメモを取っている。
「魔法が発動しない場合、その原因は二つ。実力不足か、属性相性の問題です」
教師はそう締めくくった。
蒼真はペンを止め、思考を巡らせる。
(……前提条件が多すぎる)
観測されていない事象は、最初から存在しないものとして扱われている。魔法が“効かない”可能性そのものが、想定外だ。
だが今は口を挟むべきではない。蒼真はそう判断し、ノートを閉じた。
◆
昼休み。
蒼真は一人で図書室へ向かった。
魔法理論ではない。彼が探していたのは、学園史、王国史、そして過去の異世界召喚記録だ。
(帰還の手段があるなら……過去に痕跡が残っている)
高い書架が並ぶ静かな空間。
蒼真が上段の本に手を伸ばした、そのときだった。
「失礼。図書委員です」
落ち着いた声が、すぐ後ろからかかる。
振り返ると、そこに立っていたのは、黒髪の少女だった。腰まで届く長い髪は丁寧に整えられ、知的な印象の眼鏡が涼しげな瞳を引き立てている。制服の上からでも分かるほど整った体つきだが、本人はまるで意識していないらしく、姿勢はあくまで実務的だ。胸元には、図書委員を示す小さな腕章が留められている。
「探している本があれば、案内する決まりなの」
形式張った言い方だが、声の調子は柔らかい。
「……九条リリア。魔法理論科一年、図書委員をしているわ」
そう名乗ってから、リリアは蒼真の手元と視線の先を一瞬で見て取った。
「学園史と王国史。それに、異世界召喚の記録……ね」
蒼真はわずかに目を見開く。
「蒼井蒼真だ。編入したばかりで……まだ勝手が分からない」
「そう。噂の転入生ね」
リリアは特に含みもなく頷いた。
「なら、余計に案内が必要ね」
そう言って一歩近づき、棚を見上げる。
「その資料なら、もう少し上……」
リリアは言葉を切り、蒼真の背後から腕を伸ばした。
しかしリリアは本に集中していて、距離が近くなったことにまったく気づいていない。
「あ、これね。学園創設期の資料」
蒼真が一歩前に出た瞬間、リリアがようやく距離に気づいた。
「……あ」
眼鏡の奥で、頬が赤くなる。
「ご、ごめんなさい……無意識で……」
さらにリリアは「もう一冊、関連があるわ」と言って、近くに置いてあった小さな踏み台を引き寄せた。
踏み台に乗り、上段へ手を伸ばす。棚と棚の間隔が狭く、位置関係が思った以上に近い。
蒼真は反射的に視線を逸らした。
(……危険だ。ここは、視線の置き場を誤ると色々と危険だ)
本人は本に集中していて、こちらの挙動にまったく気づかない。
「……これ。年代別に事例が整理されてる」
リリアが振り返る。
「……? どうかした?」
「い、いや。なんでもない」
リリアは首を傾げつつ、本を抱え直す。
「昨日の事件、見てたわよ」
「あなた、異世界から来たんでしょう?」
蒼真は息を呑んだ。
「私、魔法陣の研究をしているの」
「理論上は……世界を越える術式も成立するはず」
「手伝ってくれない?」
胸が高鳴る。
「……本当か!」
気づけば、蒼真はリリアの両手を握っていた。
リリアは真っ赤になって固まる。
図書室に、静かな沈黙が落ちた。
――この学園には、話が通じる人間がいる。
蒼真は、確信していた。




