第60話 雨上がりの伝説(1)
第60話 雨上がりの伝説
ルミナスブルームの光は、森の奥で静かに揺れていた。
蒼井蒼真とルミエール・ド・アルセリアは、しばらくその場を動かなかった。
雨はもう止んでいる。
森の中には、葉から遅れて落ちる雫の音だけが残っていた。ぽたり、ぽたりと、枝先から落ちる水滴が草を濡らし、小さな水たまりに輪を作る。
光花の群生地は、雨上がりの空気の中で、まだ淡い金色に輝いている。
先ほどまで空にかかっていた虹は、少しずつ薄くなっていた。けれど、その名残はまだ森の霧に溶け、花の光と混ざり合って、どこか夢の中のような景色を作っていた。
蒼真は、隣に立つルミエールをちらりと見た。
彼女はルミナスブルームを見つめている。
その横顔は穏やかだった。
けれど、頬にはまだ薄い赤みが残っている。
蒼真の唇にも、先ほどの感触がまだ残っていた。
ルミエールからのキス。
静かで、丁寧で、けれどはっきりした意思を持ったキス。
蒼真は、何か言うべきなのかと考えた。
だが、結局言葉は出なかった。
言葉にすると、今の静かな空気を壊してしまう気がしたからだ。
ルミエールもまた、何も言わなかった。
ただ、ほんの少しだけ、繋いでいた手に力がこもった。
蒼真は、それに気づいた。
けれど、何も言わなかった。
やがて、ルミエールが小さく息を吐いた。
「そろそろ、戻りましょうか」
「ああ。暗くなる前に戻った方がいいな」
「ええ。雨は止んだけれど、森の中は足元が悪いもの」
そう言って、ルミエールはゆっくりと視線を花々から外した。
名残惜しそうだった。
それでも、もう一度見ようと振り返る様子はなかった。
蒼真は少し不思議に思った。
あれほど美しい景色なら、もっと長く見ていたくなるものではないだろうか。
だが、彼女の表情は満ち足りていた。
まるで、これ以上は必要ないと言うように。
二人は光花の広場に背を向けた。
歩き出す前、ルミエールは小さく頭を下げるように、花々へ目を伏せた。
礼をしているようにも見えた。
蒼真は、その仕草を見てから森の道へ足を向けた。
帰り道は、来た時よりも少し明るかった。
雨が止んだことで霧が薄くなり、木々の隙間から淡い光が差し込んでいる。地面は相変わらずぬかるんでいたが、光花の魔力が完全に消えたわけではないのか、道のところどころに小さな金色の粒が残っていた。
ルミエールは歩きながら、時折足元を確認している。
蒼真はその隣を歩いた。
手はまだ繋いでいる。
最初は、森の中で足元が悪いからだった。
光の蔓に導かれた時も、ルミエールの魔力を落ち着かせるために手を取った。
けれど今は、もうその必要はないかもしれない。
それでも、どちらからも手を離さなかった。
蒼真は、どう切り出せばいいのか分からなかった。
ルミエールも、何事もなかったように歩いている。
ただ、指先だけが少しだけ熱い。
「足元、大丈夫か?」
蒼真が聞くと、ルミエールは頷いた。
「ええ。ありがとう」
「森に来る時より歩きやすい気がするな」
「雨が止んだからかしら」
「それもあるかもしれない」
会話は静かだった。
だが、気まずくはなかった。
むしろ、不思議なくらい穏やかだった。
森を抜ける頃には、空の色が少し明るくなっていた。
雲はまだ残っているが、ところどころに切れ間がある。雨に濡れた草原は光を受けてきらきらと輝き、遠くに見えるノクティス魔法学園の白い壁も、雨上がりの光を受けて美しく浮かび上がっていた。
学園へ戻る道は、来た時よりも静かだった。
雨具の外套はまだ湿っている。
ブーツには泥がついている。
けれど、蒼真の胸の中には、森で見た光景がずっと残っていた。
地面に咲いた星のような花。
雨上がりの虹。
ルミエールの横顔。
そして、彼女のキス。
考えれば考えるほど、頭の整理が追いつかない。
フレイア。
リリア。
ルミエール。
蒼真は、自分の周囲の関係が少しずつ変わっていることを感じていた。
それでも、何かを簡単に決めることはできない。
誰かの気持ちを軽く扱うこともできない。
ただ今は、ルミエールの手を離さずに歩いている。
それだけが事実だった。
校門が見えてきた。
巨大な門の上には、学園の紋章が刻まれている。雨に濡れた石は色を濃くし、普段より重厚に見えた。
門の前まで来ると、ルミエールが足を止めた。
蒼真も立ち止まる。
ここで、二人は手を離した。
どちらからともなく、自然に。
けれど、離れた指先に少しだけ名残が残った。
「蒼真」
ルミエールが名前を呼ぶ。
「ん?」
「今日はありがとう」
彼女は正面から蒼真を見た。
雨上がりの光を受けて、金色の髪が柔らかく輝いている。
「付き合ってくれて。森まで来てくれて。ルミナスブルームを一緒に見てくれて」
「俺も見られてよかった。あんな景色、初めてだった」
「私もよ」
ルミエールは微笑んだ。
その笑みには、今日の光花の余韻がまだ残っている。
しばらくの沈黙。
それから、彼女は少しだけ視線を伏せ、再び蒼真を見た。
「これからも、ずっと仲良くしてちょうだい」
蒼真は一瞬、その言葉の意味を測りかねた。
ずっと。
仲良く。
それは普通の言葉のようで、どこか特別な響きもあった。
ただ、ルミエールの表情があまりにも穏やかだったので、蒼真は深く考えすぎるのをやめた。
「ああ。また明日」
そう返すと、ルミエールは一瞬だけ目を丸くした。
そして、少し困ったように、けれど楽しそうに微笑んだ。
「ええ。また明日」
彼女は軽く会釈し、女子寮の方へ歩いていった。
その背中はいつも通り上品だったが、どこか足取りが軽い。
蒼真はしばらくその背中を見送った。
「……なんか、機嫌よかったな」
そう呟いてから、男子寮へ向かった。
男子寮の廊下は、雨上がりの湿気を少し含んでいた。
外から戻ってきた生徒たちが何人かいて、雨具を干したり、靴の泥を落としたりしている。蒼真も外套を軽く払ってから部屋へ向かった。
自室の扉を開ける。
「ただいま」
部屋の中では、ユリウスがベッドに寝転がって本を読んでいた。
柔らかな栗色の髪が枕に広がり、片手で本を支えながら、もう片方の手で菓子をつまんでいる。いかにも休日の午後という姿だった。
「おかえり、蒼真」
ユリウスは本から顔を上げた。
そして、蒼真の雨具と靴の泥を見て、少し目を細める。
「ずいぶん森っぽい姿で帰ってきたね」
「森に行ってたからな」
「ルミナスブルーム探しに行ったんだって?」
蒼真は少し驚いた。
「知ってるのか」
「学園では有名だよ。雨の日に光属性の子が森に行くって聞いたら、だいたいそれでしょ」
「そういうものなのか」
「そういうもの」
ユリウスは本を閉じずに、にやりと笑った。
「で、あったの?」
「ああ」
蒼真は外套を椅子にかけながら答えた。
「それはもう、すごかった」
「へえ」
「雨の森の奥に、光る花が一面に咲いていてな。地面に星が落ちたみたいだった。雨が止んだら虹も出て、花の光と重なって……あれは、本当に綺麗だった」
蒼真の声には、自然と熱がこもっていた。
彼は自分でも気づかないうちに、少し早口になっていた。
「ユリウスにも見せたかったよ」
その瞬間、ユリウスの表情が固まった。
「ぼ、ぼくと?」
「え?」
蒼真は首を傾げる。
「まずいのか?」
「まずいというか……」
ユリウスは本をぱたりと閉じた。
ベッドの上で起き上がり、なぜか少しだけ頬を赤くしている。
「蒼真、本当にいいの?」
「何がだ?」
「ぼくとルミナスブルームを見に行くってこと」
「綺麗な花を見に行くだけだろ」




