第60話 雨上がりの伝説(2)
第60話 雨上がりの伝説
ユリウスは、数秒間蒼真を見つめた。
そして、心底おかしそうに口元を押さえた。
「……ああ、本当に知らないんだ」
「何を」
「ルミナスブルームの伝説」
蒼真は動きを止めた。
伝説。
ルミエールは、幸せになる花だと言っていた。
それ以外にも何かあるような態度ではあったが、結局詳しくは話さなかった。
「幸せになるって話じゃないのか?」
「それはかなり薄めた説明だね」
ユリウスはベッドの上で足を組み、完全に面白がる姿勢になった。
「ルミナスブルームはね、雨の日にだけ咲く幻の花。そこまでは合ってる」
「ああ」
「問題は、その後」
ユリウスはわざとらしく咳払いをした。
「雨の日に咲いているルミナスブルームを、恋人同士で見ながらキスをすると、将来その二人は必ず結ばれて、幸せになれると言われている」
蒼真の思考が止まった。
部屋の音が遠ざかる。
ルミナスブルーム。
恋人同士。
見ながら。
キス。
将来必ず結ばれる。
幸せになれる。
「……」
蒼真は無言でユリウスを見た。
ユリウスはにこにこしている。
「で、続きがある」
「まだあるのか」
「うん。二回目を見ると、永遠に結ばれない」
「……は?」
「だから、恋人同士で一回だけ見るのが大事なんだって。二度目はだめ。一度きりの誓いの花、みたいな感じ」
蒼真の頭の中で、いくつもの言葉が繋がっていく。
ルミエールが言っていたこと。
その花を見た人は幸せになる。
今じゃないと駄目だった。
秘密です。
また見に来ようか。
私は、いいかな。
一度見れば十分。
何度も見たら、感動が薄れてしまうでしょう?
蒼真は、その場で完全に固まった。
「……そんなこと、ルミエールは何も言ってなかったぞ」
「言うわけないじゃない」
ユリウスは肩をすくめた。
「言ったら、蒼真は絶対に構えるでしょ」
「それは……」
「で、キスできないでしょ」
「……」
蒼真は何も言えなかった。
ユリウスはくすくす笑う。
「はめられたね」
「はめられたって言い方はどうなんだ」
「じゃあ、上手に誘導された」
「余計に悪く聞こえる」
「でも、ルミエールさんらしいと思うよ。上品で、ちゃんと伝説に則ってて、しかも肝心なところは秘密にしてる」
蒼真はベッドに腰を下ろした。
頭の中が混乱している。
雨の日。
森。
光花。
虹。
キス。
ルミエールの赤い頬。
あれは、勢いではなかった。
今でなければ駄目だった。
彼女はそう言った。
その意味が、今になって分かってしまった。
「……マジか」
蒼真は呟いた。
「マジだね」
ユリウスは楽しそうに言う。
「ちなみに」
「まだ何かあるのか」
「ルミエールさん、本気だと思うよ」
蒼真は黙った。
ユリウスの声は、からかい混じりではあったが、そこだけは妙に真面目だった。
「貴族令嬢が、その伝説を知らないわけないし。ルミナスブルームに誘う意味も、ちゃんと分かっていたはず。しかも一度見れば十分って言ったんでしょ?」
「ああ」
「それ、もう特別な一回にしたいってことじゃないかな」
蒼真は天井を見上げた。
情報が多すぎる。
リリアのこともまだ整理しきれていない。
召喚のこともある。
そこへ、ルミエールの伝説付きのキスが加わった。
自分の周囲で、いろいろなものが少しずつ動いている。
いや、少しずつどころではない。
かなり動いている。
「蒼真」
「なんだ」
「顔、赤いよ」
「うるさい」
ユリウスは声を出して笑った。
「でもよかったね。ルミナスブルーム、見られて」
「……ああ」
蒼真は目を閉じた。
その景色だけは、本当に綺麗だった。
たとえ伝説を知らなかったとしても。
いや、知らなかったからこそ、純粋に感動できたのかもしれない。
だが今になって思い返すと、ルミエールの一つ一つの言葉が違って聞こえる。
秘密です。
今は、教えません。
一度見れば十分。
これからも、ずっと仲良くしてちょうだい。
蒼真は両手で顔を覆った。
「……どうすればいいんだ、これ」
「誠実に考えるしかないんじゃない?」
ユリウスはさらりと言った。
「蒼真はそういう人でしょ」
蒼真は返事をしなかった。
誠実に。
それは簡単なようで、とても難しい。
誰かを傷つけたくない。
だが、何も選ばないこともまた、誰かを傷つけるのかもしれない。
今すぐ答えを出せる問題ではない。
それでも、少なくとも今日のルミエールの気持ちを、軽く扱ってはいけない。
蒼真はそう思った。
一方、その頃。
女子寮の一室で、ルミエール・ド・アルセリアはベッドの上に座っていた。
外套はすでに脱ぎ、丁寧に椅子へ掛けてある。
靴の泥も落とし、髪も軽く乾かしていた。
部屋は貴族令嬢らしく整っている。
淡い色のカーテン。
花柄の敷物。
机の上には整えられた教科書とノート。
棚には光属性の魔法書が並び、小さな香水瓶やリボンもきれいに置かれている。
普段のルミエールなら、帰宅後の身支度を終えると、そのまま優雅にお茶でも淹れるところだろう。
だが、今日の彼女は違った。
ベッドの上で、両手で枕を抱きしめている。
顔は真っ赤だった。
「……」
無言。
数秒後。
「……やってしまったわ」
小さな声。
さらに数秒。
「やってしまったわ……!」
今度は、枕に顔を埋めた。
ばふ、と柔らかな音がする。
ルミエールは枕を抱えたまま、ベッドの上で小さく身をよじった。
「どうして、あそこで……いえ、あそこしかなかったのだけれど……でも、でも……!」
声は枕に吸い込まれて、少しくぐもっていた。
脳裏に、森の光景が何度も蘇る。
雨上がりの広場。
一面のルミナスブルーム。
空にかかった虹。
隣に立つ蒼真。
そして、自分から近づいた瞬間。
唇が触れた瞬間。
蒼真の驚いた顔。
思い出しただけで、全身が熱くなる。
「うう……」
ルミエールは枕にさらに顔を押しつけた。
貴族令嬢として、はしたないことはしてはいけない。
人前で取り乱してはいけない。
気持ちは慎ましく、言葉は丁寧に、振る舞いは優雅に。
幼い頃から、そう教えられてきた。
それなのに。
雨の森で。
光花の前で。
自分から。
キスしてしまった。
「……でも」
ルミエールは枕から少しだけ顔を上げた。
頬はまだ赤い。
瞳は潤んでいる。
「今じゃないと、駄目だったもの」
自分に言い聞かせるように呟く。
ルミナスブルームの伝説。
好きな人と一緒に見ながらキスをすると、二人は将来結ばれ、幸せになる。
ただし、二度見れば永遠に結ばれない。
子どもの頃は、ただ可愛らしい言い伝えだと思っていた。
けれど今日、あの景色を前にした瞬間、幼い頃に聞いたその言葉が胸の奥で蘇った。
今だと思った。
ここで何もしなければ、きっと一生後悔する。
だから、した。
それだけだ。
それだけのはずなのに。
「……蒼真、驚いていたわ」
思い出すと、また顔が熱くなる。
ルミエールは枕をぎゅっと抱きしめた。
「当然よね。急にキスされたのだもの。しかも、私から……」
最後の言葉を言い切る前に、彼女は再び枕へ顔を埋めた。
「~~~~っ」
声にならない声。
足がぱたぱたと小さく動く。
普段の彼女を知る者が見たら、同一人物とは思わないかもしれない。
授業では優等生。
貴族令嬢としては完璧。
学園内では気品と落ち着きを持った存在。
けれど今のルミエールは、恋をして、勢いでキスをして、後から恥ずかしさに耐えきれなくなっている普通の少女だった。
「秘密です、なんて……」
ルミエールは小さく呟く。
「もっと、他に言い方があったでしょうに……」
でも、あの時はそれしか言えなかった。
伝説のことを正直に言うのは恥ずかしすぎる。
好きな人と見ると想いが届くのだと、本人の前で言えるはずがない。
だから秘密にした。
蒼真は不思議そうにしていた。
きっとまだ、何も知らない。
でも、ユリウスあたりが知っていそうだ。
男子寮で、もしかしたら今頃――。
そこまで考えて、ルミエールはぴたりと動きを止めた。
「……まさか」
顔を上げる。
頬の赤みが、少し濃くなる。
「ユリウスさんが、蒼真に伝説を話していたら……?」
想像する。
ユリウスが楽しそうに笑いながら、ルミナスブルームの伝説を蒼真へ説明する。
蒼真が固まる。
蒼真が、今日のキスの意味に気づく。
ルミエールの顔から、一瞬で血の気が引き、次の瞬間には耳まで真っ赤になった。
「だ、駄目……!」
ルミエールは枕を抱えたまま、ベッドの上でころんと横になった。
「今知ったら、明日どんな顔をして会えばいいの……!」
ころん。
反対側へ転がる。
「でも、いずれ知ってもらわないと意味が……いえ、でも、今は早いわ……!」
またころん。
枕を抱きしめたまま、ベッドの上を小さく転がる。
髪が少し乱れ、頬は真っ赤。
それでも、口元にはどうしても笑みが浮かんでしまう。
恥ずかしい。
どうしようもなく恥ずかしい。
けれど、後悔はしていなかった。
むしろ、胸の奥には柔らかな幸福感があった。
ルミナスブルームを見た。
蒼真と一緒に見た。
虹の下で、キスをした。
その事実が、何度思い返しても信じられないほど甘く、温かい。
ルミエールは枕から顔を半分だけ出した。
「……蒼真、どう思ったかしら」
嫌だっただろうか。
迷惑だっただろうか。
困らせてしまっただろうか。
もちろん驚いてはいた。
でも、拒まれたわけではなかった。
怒ってもいなかった。
帰り道も、手を繋いでくれた。
校門前でも、普通に話してくれた。
また明日、と言ってくれた。
そこまで思い出して、ルミエールの表情がふにゃりと緩んだ。
「……また明日」
小さく繰り返す。
その言葉だけで、胸が温かくなる。
明日も会える。
いつも通り教室で会える。
けれど、今日の前と同じではない。
ルミエールにとっては、もう違う。
雨の日の森で、光花の前で交わした秘密がある。
蒼真がまだその意味を知らなくても。
自分だけが知っている秘密。
いつか、彼が知るかもしれない秘密。
そのことが恥ずかしくて、嬉しかった。
ルミエールはゆっくり起き上がり、乱れた髪を手で整えた。
貴族令嬢としては、いつまでもベッドの上で転がっているわけにはいかない。
だが、顔の赤みはなかなか引かなかった。
机の上には、明日の授業の教科書が整えて置いてある。
その横に、小さな栞があった。
光属性の紋章が刻まれた、薄い白金色の栞。
ルミエールはそれを手に取った。
今日の光花を思い出す。
摘めば光を失う花。
持ち帰ることはできない花。
でも、記憶だけは持ち帰れる。
胸の奥に、確かに。
「一度で十分」
ルミエールは小さく呟いた。
何度も見る必要はない。
あの景色は、今日の一度で完成している。
雨。
森。
虹。
蒼真。
そして、ルミナスブルーム。
その全てが揃った一度だけの景色だから、特別なのだ。
ルミエールは栞を胸に当て、目を閉じた。
それから、ぽつりと呟く。
「これからも、ずっと……」
その先は、声にならなかった。
ただ、口元だけが小さく笑う。
しばらくして、彼女ははっとしたように顔を上げた。
「……だ、だめよ。浮かれてばかりでは。明日の予習をしないと」
そう言って机に向かう。
椅子に座り、教科書を開く。
羽ペンを手に取る。
だが、ページの文字がまったく頭に入ってこない。
思い浮かぶのは、蒼真の驚いた顔ばかりだった。
数秒後、ルミエールは羽ペンを置いた。
両手で顔を覆う。
「……今日は、無理」
そして、また枕を抱きしめに戻った。
窓の外では、雨上がりの空に最後の光が残っている。
女子寮の小さな部屋で、ルミエールは枕に顔を埋めたまま、誰にも見せられないほど幸せそうに赤面していた。
その胸の奥では、雨の森に咲いた光花が、まだ静かに輝き続けていた。




