第59話 ルミナスブルーム(2)
第59話 ルミナスブルーム
足元にはルミナスブルームが咲いている。踏まないように気をつけながら、花の少ない場所を選んで歩く。
蒼真はしゃがみ込み、一輪を近くで見た。
花弁は薄く、光を透かしている。雨粒が乗ると、その水滴の中で光が揺れる。花の中心からは、微かな魔力が流れているようだった。
触れようとは思わなかった。
壊してしまいそうだったからだ。
「摘めるのか?」
蒼真が尋ねると、ルミエールは首を横に振った。
「摘むと、すぐに光を失うそうよ」
「そうなのか」
「ええ。だから、咲いている場所で見ることに意味があるの」
蒼真は納得した。
持ち帰って飾る花ではない。
ここに来て、この雨の日に、この場所で見る花。
だからこそ、幻なのだろう。
しばらく、二人は言葉少なに花を眺めた。
雨は、いつの間にかさらに弱くなっていた。
葉を打つ音が小さくなる。
霧の向こうで、雲の色が少しずつ変わっていく。
ぽつ。
ぽつ。
最後の雨粒が、ルミナスブルームの花弁に落ちた。
そして、雨が止んだ。
森に、静けさが降りる。
雨が止んだ後の森は、不思議なほど音が少ない。
葉から遅れて落ちる雫の音だけが残っている。
ぽたり。
ぽたり。
その一つ一つが、広場に咲く光花の上で小さく輝いた。
蒼真は空を見上げた。
雲が、ほんの少しだけ割れていた。
その切れ間から、光が差し込む。
ルミエールの光属性の魔力とは違う、自然の陽光。
雨上がりの湿った空気の中へ、細い光の筋が降りてくる。
その光が、森の霧と水滴に触れた。
次の瞬間、森の上に大きな虹がかかった。
蒼真は目を見開いた。
木々の間から見える空に、淡く、けれどはっきりとした七色の弧が浮かんでいる。
それは広場を包むように伸び、ルミナスブルームの金色の光と重なった。
地面には光花。
空には虹。
その間に、雨上がりの霧が柔らかく漂っている。
光花の金色と虹の七色が混ざり合い、広場全体が夢のような色に染まった。
「綺麗……」
ルミエールが呟いた。
「ああ……」
蒼真も、それ以上の言葉を持たなかった。
虹なら、現代日本でも見たことがある。
雨上がりの空にかかる虹。
夕方の街で見たことも、学校の窓から見たこともある。
だが、この景色は違った。
雨の森。
光る花。
虹。
そして、隣にいるルミエール。
この世界でしか見られない光景だった。
ルミエールは、しばらく虹を見上げていた。
その横顔には、言葉にできないほどの感情が浮かんでいる。
憧れが叶った喜び。
光に包まれる静かな感動。
そして、何かを決めようとしているような迷い。
彼女は子どもの頃、ルミナスブルームの言い伝えを聞いたことがあった。
雨の日にだけ咲く光の花。
見た者を幸せにする花。
そして、好きな人と一緒に見ると、その想いが届くと言われる花。
もちろん、言い伝えだ。
貴族の少女たちが、雨の日の窓辺でこっそり語り合うような、少し甘くて、少し恥ずかしい話。
ルミエールも幼い頃は、微笑ましい伝承の一つとして聞いていた。
いつか、そんな日が来るのだろうか。
誰かと一緒に、雨の森で光花を見る日が。
その誰かが誰なのか、幼い彼女には分からなかった。
だが今、その誰かは隣にいる。
蒼井蒼真。
魔力を生成できない異世界の少年。
事件の中で真実を見つける人。
魔法を当然としない目で、この世界を見ている人。
最初は、不思議な存在だった。
やがて、頼れる存在になった。
気づけば、特別になっていた。
ルミエールは、蒼真の横顔を見た。
彼はまだ虹と光花を見ている。
きっと、花の仕組みや魔力の反応や、雨上がりの光の角度などを考えているのかもしれない。
それが彼らしい。
けれど、今だけは。
今だけは、考えるより先に伝えたいものがあった。
ルミエールの胸の奥で、何かが静かに高鳴る。
今でなければ、きっと言えない。
いや、言葉では言えない。
だから。
「蒼真」
ルミエールが名前を呼んだ。
蒼真が振り向く。
「どうした――」
言葉は、そこで止まった。
ルミエールが近づいていた。
白金色の外套が揺れる。
金色の髪に、光花の小さな粒がまだ残っている。
彼女の瞳には、虹とルミナスブルームの光が映っていた。
蒼真が状況を理解するより早く、ルミエールはそっと背伸びをした。
そして、蒼真の唇に、自分の唇を重ねた。
「……っ!?」
蒼真の思考が一瞬止まる。
雨上がりの森。
光花の群生。
虹。
そのすべてが遠ざかるほど、近い。
ルミエールの唇は、柔らかかった。
リリアの時のような、感情が溢れ出した長いキスとは違う。
フレイアのような、不意打ちの勢いとも違う。
それは静かで、丁寧で、けれどはっきりとした意思を持っていた。
短い時間だった。
けれど、決して曖昧ではなかった。
ルミエールはゆっくり離れる。
顔は真っ赤だった。
けれど、逃げなかった。
視線を逸らしたい気持ちをこらえるように、彼女は蒼真を見ていた。
「ごめんなさい、いきなり」
声が少し震えている。
蒼真はまだ完全には戻ってこられていなかった。
「ルミエール……?」
「でも」
ルミエールは胸元で手を握った。
「今じゃないと、駄目だったの」
「どういう……」
蒼真が尋ねる。
ルミエールは一瞬だけ困ったように笑った。
そして、いつもの令嬢らしい上品な微笑みに、少しだけいたずらっぽさを混ぜた。
「秘密です」
「秘密なのか」
「ええ。秘密」
「教えてくれないのか?」
「今は、教えません」
「今は?」
「ええ。いつか、気が向いたら」
蒼真は少し困ったように彼女を見た。
ルミエールは頬を赤くしたまま、けれどどこか満足そうだった。
それ以上聞いても、今は答えないだろう。
蒼真はそう判断した。
そもそも、まだキスの衝撃が抜けていない。
問い詰める余裕もなかった。
ルミエールは、空気を変えるように明るく言った。
「来てよかったね」
その声は少し弾んでいた。
蒼真は光花と虹を見て、それから自分の外套を見下ろした。
「ああ。おかげで、ずぶ濡れだけどな」
ルミエールは自分の外套の裾を見る。
防水術式のおかげで雨は弾いているが、森の中を歩いたせいで裾や靴には泥がついていた。
「それはお互い様よ」
「貴族の雨具でも泥は避けられないんだな」
「ええ。万能ではないの」
「そこは魔法でなんとかならないのか」
「できなくはないけれど、泥を完全に避ける術式は歩きにくいのよ。足元が浮くような感覚になるから」
「それはそれで大変そうだ」
「でしょう?」
二人は顔を見合わせて、小さく笑った。
さっきまでの緊張が、雨上がりの空気の中へ少しずつ溶けていく。
けれど、完全に何もなかったようにはならない。
蒼真の唇には、まだルミエールの感触が残っている。
ルミエールもそれを意識しているのか、時折少しだけ視線を逸らしては、また光花へ目を向けた。
広場のルミナスブルームは、まだ咲いていた。
雨が止んでも、しばらくは光を保っているらしい。
ただ、先ほどよりも少しずつ光が落ち着いてきている。雨粒を受けて輝いていた時の強さはなく、今は静かに呼吸するような明るさだった。
虹も、少しずつ薄くなり始めていた。
時間が過ぎていく。
この光景も、永遠ではない。
だからこそ、美しいのかもしれない。
「また、雨の日に見に来ようか」
蒼真は自然にそう言った。
こんな景色なら、もう一度見てもいい。
ルミエールもきっと喜ぶだろう。
そう思ったからだ。
けれど、ルミエールはすぐには答えなかった。
彼女は光花を見つめたまま、少し黙っている。
蒼真は不思議に思って彼女を見た。
「ルミエール?」
「私は……いいかな」
静かな声だった。
「いいのか?」
「ええ。一度見れば十分」
「こんなに綺麗なのに?」
蒼真が尋ねると、ルミエールは微笑んだ。
その笑みは、どこか大人びていて、どこか少女のようでもあった。
「何度も見たら、感動が薄れてしまうでしょう?」
「そう……なのか」
「そうよ」
蒼真はまだ少し不思議だった。
綺麗な景色なら、もう一度見たいと思うものではないのか。
だが、ルミエールの表情を見ると、それ以上は聞けなかった。
彼女にとって、この一度は特別なのだ。
そのことだけは分かった。
何がどう特別なのかまでは、まだ分からない。
ルミエールは花を見つめながら、胸の奥でそっと思った。
一度でいい。
何度もいらない。
この雨の日に。
この森で。
この光の中で。
蒼真と一緒に見たルミナスブルームは、きっと一生消えない。
幼い頃に聞いた言い伝えが本当かどうかは分からない。
好きな人と一緒に見れば想いが届く。
そんな話を信じるほど、もう子どもではないつもりだった。
けれど、今日だけは信じてもいいと思えた。
虹と光花に包まれたこの瞬間だけは、少しだけ夢を見てもいい。
ルミエールはそっと息を吐いた。
雨上がりの森の空気は、冷たくて澄んでいた。
「蒼真」
「なんだ?」
「来てくれて、ありがとう」
「俺も見られてよかった」
「本当に?」
「ああ。こんな景色、他では見られない」
蒼真は少し間を置いて続けた。
「それに、ルミエールが見たかったものを一緒に見られてよかった」
ルミエールは目を見開いた。
それから、ゆっくり微笑む。
「……そう」
その一言だけだった。
けれど、十分だった。
虹は少しずつ薄くなっていく。
ルミナスブルームの光も、ゆっくりと静かになっていく。
森の奥の小さな広場には、まだ幻想の名残が残っていた。
蒼真とルミエールは、しばらく並んでその景色を見つめていた。
帰らなければならないことは分かっている。
学園へ戻る道も、ぬかるんだ森の中を歩かなければならないことも分かっている。
けれど、二人はすぐには動かなかった。
この景色が消える前に、もう少しだけ覚えておきたかった。
雨の森。
光花。
虹。
そして、秘密のキス。
やがてルミエールが小さく呟いた。
「来られて、本当によかった」
蒼真はその横顔を見た。
彼女がなぜキスをしたのか。
なぜ秘密だと言ったのか。
なぜ一度で十分だと言ったのか。
まだ分からないことはある。
けれど、それらをすぐに解く必要はない気がした。
すべての謎を、その場で暴く必要はない。
大切に隠された秘密なら、今はそのままでもいい。
蒼真はそう思いながら、もう一度ルミナスブルームの群生へ視線を向けた。
淡い光が、雨上がりの森に静かに揺れている。
その光は、二人の影を柔らかく包んでいた。
小さな冒険の終わりを告げるように。
そして、帰り道へ踏み出す前の、最後の余韻を残すように。




