第58話 雨の森と光の気配(2)
第58話 雨の森と光の気配
その時、蒼真はルミエールの髪に何かが付いていることに気づいた。
「ルミエール」
「なに?」
「髪に何かついてる」
「え?」
ルミエールが自分の髪に触れようとする。
だが、場所が分からないのか、指先は少しずれた。
蒼真は近づいて、フードからこぼれた金髪の一房を見る。
そこに、小さな光の粒がついていた。
まるで花粉のような、粉雪のような、ごく小さな光。
雨に濡れているのに消えず、淡く瞬いている。
「光ってる」
「光ってる?」
「ああ。花粉みたいだ」
ルミエールは驚いたように目を細めた。
「もしかしたら、ルミナスブルームの魔力片かもしれないわ」
「魔力片?」
「花粉のように雨に溶けて漂うことがある、と本で読んだことがあるの。実物を見るのは初めてだけれど」
蒼真はさらに近づき、彼女の頬の辺りを見る。
そこにも、淡い光の粒が一つ付いていた。
「頬にもついてる」
「え?」
ルミエールが身じろぎする。
蒼真は確認しようとして、顔を近づけた。
そして、ルミエールの表情が変わったことに気づく。
「蒼真」
「ん?」
「近いわ」
声は小さい。
だが、はっきり聞こえた。
蒼真はそこで距離に気づいた。
雨具のフード越しではあるが、かなり近い。
ルミエールの頬には、光の粒だけでなく、薄い赤みも浮かんでいた。
「悪い。確認しようとしただけだ」
「分かっているけれど……」
ルミエールは視線を少し逸らした。
「急に近づかれると、驚くわ」
「気をつける」
蒼真は一歩下がった。
ルミエールは頬に付いた光の粒をそっと指先で触れようとした。
しかし、その粒は触れた瞬間、ふわりと浮かび上がり、雨の中へ溶けるように消えた。
「不思議だな」
「ええ」
ルミエールは自分の指先を見つめた。
「でも、綺麗」
その言葉通りだった。
雨に煙る森の中で、彼女の髪や外套の肩に、小さな光の粒が少しずつ集まっている。
蒼真は自分の外套を見た。
濃い灰色の布には、ほとんど光の粒がついていない。
「俺にはあまり付かないな」
「光属性の魔力に反応しているのかもしれないわ」
「ルミエールに集まってるってことか」
「そう……なのかもしれない」
ルミエールは少し照れたように言った。
光の粒は、雨粒とは違う動きをしている。
風に流されるだけではなく、ルミエールの周囲へ引き寄せられるように漂っていた。
髪に。
肩に。
傘の縁に。
外套の金糸の刺繍に。
淡い光が点々と宿る。
その姿を見て、蒼真は思わず言った。
「綺麗だな」
ルミエールが固まった。
「え?」
「いや、光属性って、こういう感じなんだなと思って」
「そ、それは花粉が光っているだけで……」
「それでも綺麗だ」
蒼真は深く考えずに言った。
事実を述べただけだった。
雨の森。
淡い霧。
光の粒をまとったルミエール。
その光景が綺麗だった。
それ以上でも、それ以下でもない。
しかし、ルミエールは一気に頬を赤くした。
「そ、そういうことを、急に言わないで」
「急だったか?」
「急です」
「悪い」
「謝られると、それはそれで困るわ」
ルミエールは小さく息を吐いた。
だが、口元にはわずかに笑みがあった。
雨音が二人の間の沈黙を埋める。
強い言葉を交わしたわけではない。
けれど、さっきより少しだけ距離が近くなった気がした。
森の奥へ進むほど、光の気配は確かに強くなっていった。
雨粒の中に混ざる淡い光は、もう蒼真にもはっきり見える。
足元の水たまりには、金色の揺らぎが浮かび、消える。
木の根元には、小さな光の粒が溜まるように漂っている。
ルミエールはその流れを読むように進んでいった。
「こっちよ」
「分かるのか」
「ええ。さっきよりずっとはっきりしているわ。光が、奥へ流れている」
「川みたいだな」
「そうね。見えない川を辿っているみたい」
二人はさらに奥へ進む。
森は少しずつ静かになっていった。
いや、雨音は変わらず聞こえている。
だが、人の気配や学園の気配が完全に遠ざかり、世界が雨と森と光だけになっていくようだった。
ルミエールが不意に足を止めた。
「……待って」
「どうした?」
蒼真も立ち止まる。
ルミエールは足元を見ていた。
彼女の雨靴の周囲に、淡い光が集まっている。
最初は、ただ水たまりが光っているように見えた。
しかし、違った。
光の粒が雨水を伝い、細い線となって地面を這っている。
その線は、草の間を抜け、木の根を越え、ルミエールの足元へ集まっていた。
やがて、それは蔓のような形を取った。
細い光の蔓。
植物の蔓に似ているが、実体があるようには見えない。半透明で、雨粒を受けるたびに揺らめき、淡い金色の光を放っている。
それが、ルミエールの足首へ絡みついた。
「えっ……?」
ルミエールが戸惑いの声を漏らす。
「ルミエール?」
蒼真はすぐに近づいた。
ルミエールは足を動かそうとする。
だが、動かない。
「動けない……」
「痛みは?」
「ないわ」
「締めつけられてる感じは?」
「それもない。でも……足が前に引かれるような感じがする」
蒼真はしゃがみ込み、光の蔓を観察した。
蔓はルミエールの足首に絡んでいる。
しかし、皮膚や服を傷つけている様子はない。触れようとすると、蒼真の指は光の中をすり抜けるように通った。
物理的な蔓ではない。
魔力だ。
光属性の魔力が、蔓の形を取っている。
「息苦しさは?」
「ない」
「魔力を吸われている感覚は?」
ルミエールは目を閉じ、少し集中した。
「吸われている感じではないわ。むしろ……共鳴しているみたい」
「共鳴」
「ええ。私の魔力に反応している。害はなさそう。でも、強いわ」
蒼真は光の流れを見る。
蔓は森の奥から伸びてきているようだった。
ルミエールを引っ張っている。
ただし、乱暴ではない。
無理に引きずる力ではなく、こちらへ来てほしいと導くような力。
「光花の魔力か?」
蒼真が言うと、ルミエールは小さく頷いた。
「聞いたことがあるわ……ルミナスブルームは、光属性の魔力を持つ者を花の中心へ導くことがあるって」
「導く?」
「ええ。花が強く咲く時、光の道を作ることがあると」
「かなり強引な案内だな」
蒼真は光の蔓を見た。
払おうとしても、手はすり抜ける。
物理的には触れない。
だが、ルミエールの魔力には絡んでいる。
このままにしておくのは少し危険に思えた。
「大丈夫か?」
「大丈夫よ。害はなさそう」
ルミエールはそう言ったが、声にはわずかな不安があった。
自分の魔力が何かに強く反応している。
それも、見えない力に足を止められている。
怖くないはずがない。
蒼真は立ち上がり、迷わずルミエールの手を取った。
「蒼真?」
「魔力を逃がす」
ルミエールが目を見開く。
「できるの?」
「たぶん。完全に消すと花の方に影響が出るかもしれない。だから、集まりすぎている分だけ逃がす」
言いながら、蒼真は自分でも半分は感覚で動いていることを理解していた。
彼は魔力を生成できない。
だが、外部魔力には干渉できる。
無力化。
吸収。
反射。
痕跡の視認。
そのどれにも近く、どれとも少し違う。
今やろうとしているのは、ルミエールに集中している光の魔力を、壊さず、奪わず、周囲へ逃がすことだった。
蒼真はルミエールの手を握る。
彼女の手は、少し冷えていた。
雨のせいか、不安のせいか。
「大丈夫」
蒼真は言った。
「離さないから」
ルミエールの表情が、わずかに揺れた。
彼女は蒼真の手を握り返す。
「……うん。ありがとう」
蒼真は足元の光へ意識を向けた。
光の蔓。
ルミエールの魔力。
雨に溶けた光の粒。
森の奥へ続く流れ。
それらは一つの流れとして繋がっているように感じられた。
無理に断ち切るのではない。
詰まった水路の流れを、少し広げるように。
集中しすぎた光を、周囲へ逃がす。
蒼真の手を通して、何かが抜けていく感覚があった。
熱ではない。
冷たさでもない。
ただ、細い糸がほどけるような感覚。
足元の光の蔓が、ゆっくりと揺れた。
絡みつく力が弱くなる。
ルミエールの周囲に集まっていた光の粒が、ふわりと広がる。
雨粒が光った。
一つ。
二つ。
三つ。
やがて、二人の周囲の雨が、淡い金色を帯び始めた。
森全体が静かに変わっていく。
濡れた葉の先が光る。
木の幹を伝う水滴が光る。
足元の水たまりが光る。
ルミエールの髪に宿った光が、さらに柔らかく輝く。
蒼真の灰色の外套にも、今度は小さな光がいくつか留まった。
雨の森が、金色に染まっていた。
それは強い光ではなかった。
眩しくもない。
ただ、雨の中で静かに灯る、優しい光だった。
ルミエールは息を呑んだ。
「綺麗……」
その声は、本当に小さかった。
蒼真も、言葉を失っていた。
この世界に来てから、何度も魔法を見た。
炎。
光。
結界。
魔法陣。
攻撃も、防御も、治癒も見た。
だが、この光景はそれらとは違う。
誰かが敵を倒すために作った魔法ではない。
誰かを隠すための術でもない。
自然と魔力が混ざり合って生まれた、静かな現象。
魔法世界の美しさが、雨の中に広がっていた。
やがて、光の蔓がルミエールの足元からゆっくりほどけた。
絡みついていた線は細かい粒となり、地面へ降りる。
そして、森の奥へ向かう細い光の道のように伸びていった。
ルミエールが足を動かす。
「……動ける」
「よかった」
蒼真はほっと息を吐いた。
ルミエールは自分の足元を見つめ、それから蒼真を見た。
「ありがとう。少し、驚いたわ」
「俺もだ。花を探しに来て、花に引っ張られるとは思わなかった」
ルミエールは小さく笑った。
その笑みには、先ほどまでの不安が少しだけ残っていたが、それ以上に安堵があった。
「でも、きっと近いわ」
「ああ」
蒼真は森の奥へ続く光の道を見た。
「あの先か」
「ええ。今までで一番はっきり感じる。優しい光が、奥で集まっているわ」
二人は、まだ手を繋いだままだった。
蒼真はそれに気づき、離そうとした。
だが、ルミエールの手が少しだけ力を込めて握り返した。
「もう少し、このままでいいかしら」
雨音の中で、彼女はそう言った。
蒼真は一瞬だけ考え、頷いた。
「ああ。足元も悪いしな」
「そうね。足元が悪いものね」
ルミエールは少しだけ笑った。
その言い方には、分かっていて合わせているような柔らかさがあった。
二人は光の道に沿って歩き始めた。
森の奥はさらに静かだった。
雨は降り続いているのに、不思議と音が遠く感じられる。霧は淡く光を含み、木々の間には金色の粒が漂っていた。
光の道は、地面を這うように続いている。
まっすぐではない。
木の根を避け、水たまりを回り込み、時には小さな石の上を通って、森の奥へと導いていた。
ルミエールはその道を見つめながら歩く。
蒼真は彼女の手を握ったまま、周囲を観察する。
危険な気配はない。
攻撃的な魔力もない。
ただ、光が集まっている。
やがて、前方の木々の間に少し開けた場所が見え始めた。
雨の森の中に、ぽっかりと空いた空間。
そこだけ霧が薄く、奥から淡い光が漏れている。
まだ花そのものは見えない。
だが、明らかに何かがある。
森の奥から、これまでで一番強い光が、ふわりと揺れた。
ルミエールが立ち止まる。
彼女の瞳が、光を映している。
「蒼真……」
声が震えていた。
恐怖ではない。
期待だ。
「たぶん、この先よ」
蒼真も前を見る。
雨の向こう。
霧の奥。
光が、静かに息づいている。
「ああ」
蒼真は頷いた。
二人は手を繋いだまま、森の奥の開けた場所へ向かって、ゆっくりと歩き出した。
幻の光花は、もうすぐそこにある。




