第58話 雨の森と光の気配(1)
第58話 雨の森と光の気配
雨の森は、学園の外にある別の世界のようだった。
蒼井蒼真とルミエール・ド・アルセリアは、森の入口で一度だけ足を止めた。背後には、雨に霞むノクティス魔法学園の尖塔が見える。白い石壁も、遠くからでは灰色の影のように見えた。
前方には、濡れた木々が広がっている。
葉は雨を含んで深い緑になり、枝先からは雫が絶えず落ちていた。地面は柔らかく、ところどころに小さな水たまりができている。森の奥は薄い霧に包まれ、木々の隙間には静かな暗さが漂っていた。
学園の近くにある森だと聞いていた。
危険な場所ではない、とルミエールは言っていた。
それでも、入口に立つと少しだけ空気が変わる。
石畳の上を歩いていた時とは違う。
足元は土。
聞こえるのは、雨音と葉から落ちる雫の音。
風は湿り気を帯びていて、濡れた木と草の匂いが濃かった。
蒼真は森の奥を見ながら、外套のフードを少し直した。
「ルミエール」
「なに?」
「魔物とか……出ないよな?」
問いかけると、ルミエールは少しだけ目を丸くした。
それから、上品に微笑む。
「学園近くの森だから、安全よ。管理区域にも近いし、危険な魔物が入り込まないように結界も張られているわ」
「結界があるのか」
「ええ。完全ではないけれど、大型の魔物は近づけないはずよ。小さな魔法生物くらいならいるかもしれないけれど、こちらから刺激しなければ問題はないわ」
「それを聞いて少し安心した」
「蒼真でも、魔物は気になるのね」
「気になる。俺は魔法で戦えないからな」
「そうだったわね」
ルミエールは、少しだけ真面目な顔になった。
蒼真は魔力を生成できない。
外部魔力に干渉するという特殊な性質はあるが、それは普通の意味での戦闘魔法とは違う。突然魔物が出てきた時、火球を撃つことも、結界を張ることも、光の矢を放つこともできない。
「でも、大丈夫よ」
ルミエールは静かに言った。
「もし何かあっても、私が守るわ」
その言い方があまりに自然だったので、蒼真は一瞬だけ返事に困った。
「頼もしいな」
「光属性の名門ですもの。少なくとも、この程度の森で蒼真を困らせるつもりはないわ」
ルミエールは少しだけ胸を張った。
雨粒が彼女の魔法傘に落ち、淡い光となって弾ける。
蒼真は思った。
雨の中でも、ルミエールはやはり光属性の令嬢だった。
「じゃあ、行きましょう」
ルミエールが森の奥へ一歩踏み出す。
蒼真も続いた。
森に入ると、雨音の質がさらに変わった。
外では空から直接降っていた雨が、ここでは葉に受け止められ、枝を伝い、雫となって落ちてくる。音は細かく、柔らかく、重なり合っていた。
ぽたり。
さらさら。
ぱらぱら。
木々の間を抜ける風が、濡れた葉を揺らすたび、雨粒がまとめて落ちる。
足元は思った以上にぬかるんでいた。
ブーツには滑り止めの術式が入っているが、それでも油断すると足を取られそうになる。木の根が地面から浮き出ている場所もあり、雨に濡れて黒く光っていた。
ルミエールは傘を少し傾けながら、慎重に進んでいく。
彼女の白金色の外套は、森の暗さの中で淡く浮かび上がって見えた。雨粒を弾くたびに、外套の縁の刺繍が小さく光る。まるで、彼女自身が雨の森に灯された小さな明かりのようだった。
少し歩いたところで、ルミエールが足を止めた。
「……こっち」
彼女は森の右奥へ顔を向けた。
「分かるのか?」
蒼真が尋ねる。
ルミエールは目を閉じるようにして、雨音の中に意識を澄ませていた。
「ええ。微かだけれど、光の魔力が流れているわ」
「光の魔力」
蒼真には、普通の森にしか見えなかった。
濡れた木々。
霧。
雨。
薄暗い緑。
だが、ルミエールには違うものが見えている、あるいは感じられているらしい。
「どんな感じなんだ?」
「言葉にするのは難しいわね」
ルミエールは少し考えた。
「冷たい雨の中に、ほんの少しだけ温かい光が混ざっているみたい。強くはないの。でも、とても優しい」
彼女は右奥を見つめた。
「まるで、呼ばれているみたい」
その声は、いつもの貴族令嬢らしい落ち着いた声ではなかった。
もっと素直で、柔らかい。
森の奥にある何かに心を引かれている少女の声だった。
蒼真は、その横顔を見た。
ルミエールの金色の髪には、雨具のフードから少しだけこぼれた髪があり、湿った空気を受けて柔らかく揺れている。雨の森の暗さの中で、彼女の存在だけが淡く明るい。
光属性に反応する花。
それを探すルミエール。
この光景は、彼女にとてもよく似合っていた。
「じゃあ、そっちへ行こう」
「ええ」
二人は進路を変えた。
道と呼べるほど整った道ではない。獣道に近い細い通りを、木々の間を縫うように進む。
雨で濡れた草が外套の裾に触れた。小さな雫が跳ねる。蒼真は足元を確認しながら進んだ。
少し前を歩いていたルミエールが、木の根を越えようとして足を滑らせた。
「きゃっ」
短い声。
蒼真は反射的に手を伸ばした。
ルミエールの手を取る。
彼女の身体が傾きかけたところで、蒼真は腕に力を入れた。
「大丈夫か?」
ルミエールは蒼真の手を握ったまま、少し驚いたように彼を見た。
「え、ええ。ありがとう」
「足元、かなり滑るな」
「そうね。森の中は思ったよりぬかるんでいるわ」
「無理せず進もう」
「ええ」
そう言いながらも、二人はすぐには手を離さなかった。
蒼真は、危ない道だから支えているだけだと自分に言い聞かせた。
ルミエールも、足元が悪いから仕方ないという顔をしていた。
ただ、彼女の頬が少しだけ赤い。
雨のせいではないだろう。
その後も、木の根が多い場所や、ぬかるみの深い場所では、自然に手を取り合って進んだ。
ルミエールの手は、思ったより小さく、温かかった。
雨で冷えた森の中で、その温度は妙にはっきり感じられる。
蒼真は、視線を前へ向けたまま歩いた。
強く意識すると、かえって足元を見落としそうだった。
森の奥へ進むにつれ、空気が少しずつ変わっていく。
最初は、ただ雨に濡れた森だった。
だが今は、雨の中に何かが混ざっているように見える。
最初に気づいたのは、ルミエールだった。
「……近づいているわ」
「光花に?」
「たぶん」
彼女は立ち止まり、周囲を見回した。
「さっきより光の気配が濃い。優しいけれど、はっきりしてきている」
蒼真も周囲を見た。
最初は何も分からなかった。
ただ、濡れた木々と薄い霧があるだけに見える。
しかし、しばらく目を凝らしていると、雨粒の中にほんの微かな光が混ざっているような気がした。
気のせいかもしれない。
だが、完全な錯覚とも言い切れない。
水たまりの表面に、小さな金色の揺らぎが一瞬だけ浮かぶ。
葉の先から落ちる雫が、地面に触れる直前、淡く光ったように見える。
蒼真は眉を寄せた。
普通の光ではない。
反射でもない。
魔力の痕跡に近い。
けれど、これまで事件現場で見た魔力の残滓とは違った。
攻撃的ではない。
刺さるような違和感もない。
ただ、雨の中に溶けるように、静かに流れている。
「俺にも、少し見える気がする」
「本当?」
「ああ。雨粒が、たまに光ってる」
ルミエールは少し嬉しそうに微笑んだ。
「それなら、きっと近いわ」




