第57話 雨の日の約束(2)
第57話 雨の日の約束
「では、行きましょう」
ルミエールが傘を少し傾ける。
二人は校門を出た。
学園の敷地を離れると、雨音が少し変わる。
石畳を叩く硬い音から、土や草に吸い込まれる柔らかい音へ。
道の両側には低い草が生え、雨を受けて濃い緑に変わっている。遠くには森の影が見えた。晴れの日にはもっと明るく見えるのだろうが、今日は雨に煙り、奥行きが分かりにくい。
ルミエールは蒼真の少し横を歩いている。
傘を差しているが、外套にも防水術式があるため、濡れる心配はほとんどなさそうだった。
蒼真の外套も雨をよく弾いていた。雨粒が肩に当たっては、丸く弾かれて落ちていく。
「ルミナスブルームについて、もう少し教えてくれ」
蒼真が言うと、ルミエールは嬉しそうに頷いた。
「ええ。ルミナスブルームは、雨の日にだけ咲くと言われている花よ。普段は蕾のまま草陰や木の根元に隠れていて、見つけるのは難しいの」
「雨の日だけ咲く理由は?」
「はっきりとは分かっていないわ。ただ、雨水と周囲の魔力、それから光属性の魔力に反応するのではないかと言われている」
「光属性に反応するのか」
「ええ。近くに光属性の魔法使いがいると、花弁が淡く光ることがあるそうよ」
「それなら、ルミエールがいれば見つけやすいんじゃないか」
蒼真が言うと、ルミエールは少しだけ照れたように笑った。
「そうだといいのだけれど。ルミナスブルームは気まぐれな花とも言われているの。光属性なら誰にでも反応するわけではないらしいわ」
「花にも好みがあるのか」
「そういう言い方をすると少し可愛いわね」
「違うのか?」
「学術的には、魔力の質や波長に反応しているのだと思うわ」
「波長」
蒼真は昨日のリリアの話を思い出した。
召喚対象の指定。
魂の波長。
存在の座標。
この世界では、魔力や存在をそういう言葉で扱うことがあるらしい。
ルミナスブルームも、ただの花ではない。
魔力環境に反応する植物。
つまり、この世界の自然そのものが魔法と無関係ではないということだ。
「この世界の植物は、魔力に反応するものが多いのか?」
「多いわ。特に森や泉、古い遺跡の近くに生える植物は、周囲の魔力環境の影響を受けやすいと言われている。薬草の中には、火山地帯では火属性を帯び、湖畔では水属性を帯びるものもあるの」
「同じ種類でも環境で変わるのか」
「ええ。だから魔法薬学では、採取場所も重要になるわ」
「なるほど」
蒼真は感心した。
ただの薬草ではない。
どこで育ったか。
どんな魔力を浴びたか。
雨の日か、晴れの日か。
そうした条件で性質が変わる。
魔法世界の自然は、思った以上に複雑だ。
ルミエールは雨の道を歩きながら、少し声を柔らかくした。
「ルミナスブルームには、古い言い伝えもあるの」
「言い伝え?」
「その花を見た人は、幸せになると言われているわ」
「幸せに」
「ええ」
ルミエールはそこで、少しだけ言葉を切った。
頬に雨の光が反射している。
「とても古い言い伝えだから、本当かどうかは分からないけれど」
「いい花だな」
「そうね」
ルミエールの返事は、やはり少しだけ歯切れが悪かった。
蒼真は首を傾げた。
「それだけじゃないのか?」
「え?」
「いや、何か言いにくそうだったから」
ルミエールは一瞬、目を見開いた。
そして、わずかに頬を赤くする。
「な、なんでもないわ。幸せになる。それだけよ」
「そうか」
蒼真はそれ以上追及しなかった。
ルミエールは少しだけほっとしたように息を吐く。
実際には、まだ続きがあった。
ルミナスブルームには、好きな人と一緒に見ると想いが実る、という古い恋の言い伝えがある。
貴族の娘たちの間では、子どもの頃から聞かされるような可愛らしい伝承だ。
もちろん、本気で信じている者ばかりではない。
だが、雨の日に好きな人と光花を探しに行く、という響きには、どこか特別なものがある。
ルミエールも、幼い頃はその話を聞いて憧れたことがあった。
いつか、自分も誰かと見に行くのだろうか、と。
その誰かが、今隣を歩いている蒼真になるとは、少し前の彼女なら想像もしなかっただろう。
ルミエールは横目で蒼真を見る。
彼は純粋に花に興味を持っているようだった。
雨の日だけ咲く理由。
光属性への反応。
魔力環境と植物の関係。
きっと、そういうことを考えている。
自分がどういう気持ちで誘ったのかまでは、たぶん気づいていない。
その鈍さに少しだけ不満を覚えながらも、ルミエールは同時に安心していた。
蒼真が余計な勘繰りをせず、まっすぐ付き合ってくれることが嬉しかった。
学園では、最近いろいろなことがあった。
事件。
推理。
フレイアとの距離。
リリアとの調査。
蒼真の周囲には、いつも誰かがいる。
ルミエールは、自分が最初の事件で蒼真に助けられたことを忘れていない。
彼と最初に深く関わったのは、自分だった。
けれど、今ではそれだけで特別だと言い切れなくなっている。
だから、今日の誘いには少しだけ勇気がいった。
雨の日。
光花。
二人きりの小さな外出。
それはルミエールにとって、自分から作った特別な時間だった。
「ルミエール?」
蒼真の声で、彼女は我に返った。
「どうした?」
「いいえ。少し、昔のことを思い出していただけ」
「昔?」
「子どもの頃、この花の話を聞いたことがあるの。雨の日にだけ咲く光の花。とても綺麗で、見た者を幸せにするって」
「子どもが好きそうな話だな」
「そうね。私も好きだったわ」
ルミエールは微笑んだ。
「でも、実際にはなかなか見られない。雨の日でなければいけないし、森の奥でなければいけないし、光属性の魔力にも反応しなければいけない。条件が多すぎるの」
「だから幻の花か」
「ええ」
二人は雨の道を歩き続けた。
学園の建物は少しずつ遠ざかっていく。
振り返ると、ノクティス魔法学園の尖塔が雨の向こうにぼんやり見えた。白い壁は霞み、魔法灯の光がいくつか小さく滲んでいる。
前方には森が近づいていた。
雨に濡れた森は、濃い緑と黒の境界でできているようだった。
木々の葉は水を含んで重く垂れ、枝先から雫が落ちている。地面は柔らかく、ところどころ泥が見える。森の奥は薄暗く、雨音が葉に吸い込まれているせいか、学園の近くとは思えないほど静かだった。
森の入口に立つと、空気が変わる。
土の匂いが濃い。
濡れた木の匂い。
草の匂い。
雨に冷やされた風が、外套の隙間を通り抜けた。
蒼真は森の奥を見た。
「ここから探すのか」
「ええ」
ルミエールは傘を少し持ち上げた。
「ルミナスブルームは、森の奥まった場所に咲くことが多いそうよ。木の根元や、雨水が集まりやすい場所。それから、少しだけ開けた場所に咲くこともあると聞いたわ」
「手がかりはあるんだな」
「もちろん。完全に勘で来たわけではないわ」
「少し安心した」
「少しなの?」
「最初に“森かな”って言われたからな」
ルミエールは少しだけむっとした。
「ちゃんと調べているわ」
「悪い。疑ったわけじゃない」
「ならいいけれど」
そのやり取りに、二人の間の緊張が少し和らいだ。
蒼真は足元を確認する。
地面はぬかるんでいるが、ブーツの滑り止め術式は効いているようだ。少し沈むが、歩けないほどではない。
ルミエールは外套の裾を軽く持ち上げ、森の入口へ一歩近づいた。
その時だった。
森の奥で、何かが淡く光った。
本当に一瞬だった。
雨の幕の向こう。
木々の隙間。
白とも金ともつかない、小さな光。
蒼真は目を細めた。
「今、何か光ったか?」
ルミエールが振り返る。
「え?」
「森の奥だ。一瞬だけ」
ルミエールも森の奥を見る。
だが、もう光は見えない。
雨音だけが静かに続いている。
葉から雫が落ちる音。
遠くで小さな鳥の鳴く声。
そして、薄暗い森。
ルミエールは少しだけ息を呑んだ。
「もしかしたら……」
「ルミナスブルームか?」
「まだ分からないわ」
けれど、その声には期待があった。
ルミエールの瞳に、淡い光が宿る。
「でも、行ってみましょう」
蒼真は頷いた。
「ああ」
雨は、少しだけ強くなっていた。
外套を打つ雨粒の音が、先ほどよりはっきり聞こえる。
ルミエールの魔法傘に雨が当たるたび、小さな光が弾ける。
まるで、これから探しに行く花の予告のようだった。
二人は並んで、雨の森へ足を踏み入れた。
学園の日常から、ほんの少しだけ外れた場所へ。
幻の光花を探す、小さな冒険が始まろうとしていた。




