第57話 雨の日の約束(1)
第57話 雨の日の約束
その日は、朝から雨だった。
ノクティス魔法学園の空は、薄い灰色の雲に覆われている。高い尖塔の先は雨霞に溶け、普段なら朝日を反射して白く輝く城塞の壁も、今日は静かな銀灰色に沈んでいた。
雨粒は細かく、けれど絶え間なく降り続いている。
石畳に落ちた雨は小さく跳ね、校舎の縁を伝って細い水の筋を作っていた。中庭の噴水には、空から落ちる雨と下から湧き上がる水が重なり、いつもより柔らかい音を響かせている。
雨の日の学園は、晴れの日とはまるで違う場所のようだった。
廊下に灯る魔法灯は、昼前だというのに淡く光っている。窓の外に見える庭木は濡れて色を深め、魔法で整えられた花壇も、今日はどこか静かに息を潜めているように見えた。
蒼井蒼真は、食堂の窓際の席で朝食を取っていた。
皿の上には、焼きたてのパン、薄く焼かれた卵、野菜のスープ、そしてこの世界特有の香草が添えられた肉料理が少し。最初は慣れなかった食事にも、最近ではだいぶ馴染んできた。
窓の外では、雨具を着た生徒たちが中庭を横切っている。
防水の外套を羽織る者。
風属性で雨粒を逸らして歩く者。
水属性の生徒なのか、身体の周りに薄い膜を張って濡れずに進む者。
そして、なぜか傘を差しているのに足元だけびしょ濡れになっている者。
魔法世界の雨の日は、現代日本の雨の日とは似ているようで、やはり少し違っていた。
だが、窓を打つ雨音だけは変わらない。
蒼真はスープを口に運びながら、ぼんやりと思った。
雨は、どこの世界でも雨なんだな。
現代日本の街にも雨は降っていた。
傘を差して通学した日もあった。濡れたアスファルトの匂いも、駅前の水たまりも、コンビニの入り口に並ぶ傘立ても、記憶の中には確かにある。
けれど、その記憶の先には、昨日思い出した別の光景もあった。
廃ビル。
崩れる階段。
落下。
白い光。
蒼真は、無意識に手を止めていた。
自分は、あの時、死にかけていたかもしれない。
そして、誰かに呼ばれた。
あるいは、何かに引き寄せられた。
その答えはまだ分からない。
ただ、今ここで考え込んでも解ける謎ではないことも分かっている。
必要なのは情報だ。
リリアが調べている召喚魔法。
学園に残る記録。
校長が何かを知っている可能性。
そして、自分自身の記憶。
蒼真は静かに息を吐き、食事へ意識を戻した。
その時だった。
「蒼真」
聞き慣れた声がした。
顔を上げると、ルミエール・ド・アルセリアが立っていた。
金色の髪は今日も丁寧に整えられている。雨の日だからか、いつもより少しだけ柔らかくまとめられており、白を基調とした制服の上には薄い肩掛けを羽織っていた。
食堂の柔らかな魔法灯を受けて、彼女の髪は淡く輝いて見える。
「ルミエール」
「少し、いいかしら」
その声には、いつもの落ち着きがあった。
ただ、蒼真はわずかな違和感を覚えた。
ルミエールは普段、用件がある時でももっと自然に話しかけてくる。けれど今は、言葉の前にほんの少しだけ間があった。
何か、言い出すのに迷っている。
そんな感じがした。
「どうかしたか」
「ええ。食後に、少し話したいことがあるの」
ルミエールは周囲を一度だけ見た。
食堂には多くの生徒がいる。
朝食を取る者、友人と話す者、雨のせいで実技訓練が中止になったと喜ぶ者、逆に屋内演習になったと嘆く者。人の声が重なっている。
ここで詳しい話をするつもりはないらしい。
「分かった。もう少しで食べ終わる」
「ありがとう。では、食後に談話室で」
「ああ」
ルミエールは小さく頷くと、静かに自分の席へ戻っていった。
その後ろ姿を見送りながら、蒼真は少し首を傾げた。
ルミエールが個人的に話したいこと。
事件の相談ではなさそうだった。
少なくとも、緊急性のある表情ではない。
だが、どこか緊張している。
蒼真は残りのパンを食べながら、窓の外の雨を見た。
雨の日。
ルミエール。
話したいこと。
その三つがどう繋がるのか、まだ分からなかった。
食後、蒼真は食堂を出て、隣接する談話室へ向かった。
談話室は、食堂の喧騒から少し離れた落ち着いた空間だった。
大きな窓が並び、外の中庭がよく見える。今日は雨のせいで窓の向こうが少し霞み、ガラスには無数の雨粒が流れていた。壁際には書棚があり、中央には低いテーブルと柔らかな椅子が置かれている。暖炉に似た魔法暖房が淡い光を放ち、部屋全体をほんのり温めていた。
朝の談話室は人が少ない。
何人かの生徒が窓際で本を読んでいる程度だった。
ルミエールは奥の席に座っていた。
窓に近い、雨音がよく聞こえる場所だ。
蒼真が近づくと、彼女は顔を上げた。
「来てくれてありがとう」
「それで、話って?」
蒼真は向かいの椅子に座った。
ルミエールはすぐには答えなかった。
窓の外を見る。
雨粒が、ガラスを伝って落ちていく。
「今日、雨でしょう?」
「ああ。朝からずっと降ってるな」
「こういう日は、少し外へ出にくいわよね」
「普通はそうだな」
「でも、雨の日だからこそ見られるものもあるの」
ルミエールは、そこで蒼真を見た。
その瞳には、少しだけ期待が混ざっているように見えた。
「蒼真。今日、少し出かけたいところがあるのだけれど、付き合ってくれないかしら」
「出かける? この雨の中で?」
「ええ」
ルミエールは頷いた。
「雨の日だからこそ、行きたい場所なの」
蒼真は少し考えた。
今日は特別な予定はない。
授業も午前で終わる日だ。
雨の中を出かけるのは少し面倒ではあるが、ルミエールがわざわざ誘うということは、何か理由があるのだろう。
「俺でよければ付き合う」
蒼真がそう言うと、ルミエールの表情がわずかに明るくなった。
「本当?」
「ああ。どこに行きたいんだ?」
ルミエールはそこで少しだけ視線を逸らした。
そして、小さく息を吸う。
「光花……ルミナスブルームって、知っている?」
「ルミナスブルーム?」
聞いたことのない名前だった。
「いや、知らない。花なのか?」
「ええ。光る花よ」
「光る花」
蒼真は純粋に興味を引かれた。
この世界には、魔力を帯びた植物があることは知っている。授業でも少し習った。魔法生物学や魔法薬学では、魔力環境に反応する草花や、属性に応じて性質を変える植物について扱うらしい。
だが、実際に見たことはほとんどない。
「すごい花なのか?」
「す、すごい……と言えば、そうね」
ルミエールの返事は、少し歯切れが悪かった。
「とても綺麗な花よ。ただ、少し珍しいの」
「珍しいなら、見てみたいな」
「本当に?」
「ああ。光属性に関係あるのか?」
「ええ。ルミナスブルームは、光属性の魔力に反応する花なの。雨の日にだけ咲くと言われていて……その、昔からいろいろな言い伝えがあるわ」
「雨の日にだけ咲くのか」
蒼真は窓の外を見た。
雨はまだ降り続いている。
「それで今日なのか」
「そういうこと」
ルミエールは上品に微笑んだ。
だが、その頬がほんの少し赤いことに、蒼真は気づいた。
何か、まだ言っていないことがある。
ただ、無理に問い詰めるほどのことではない気がした。
「光の花か……ぜひ見てみたい。行こう」
蒼真がそう答えると、ルミエールは明らかにほっとしたような顔をした。
「ありがとう、蒼真」
「礼を言われるほどのことじゃない」
「私にとっては、少し勇気が要ったのよ」
「勇気?」
「いいえ、なんでもないわ」
ルミエールはすぐに首を振った。
その仕草がどこか慌てていて、蒼真は少しだけ不思議に思う。
ルミエールは普段、貴族令嬢らしく落ち着いている。
堂々としていて、言葉遣いも丁寧で、何かを頼む時も自然だ。
だが、今日は違う。
まるで、ただの外出ではなく、もっと個人的な何かを申し込んでいるようだった。
蒼真は、深く考えようとしてやめた。
相手が言いたくなれば、言うだろう。
それより今は、雨の中で光る花を探すという、この世界らしい出来事に興味があった。
「準備は必要か?」
「雨具が必要ね。森へ行くから、足元も濡れると思うわ」
「森?」
蒼真は一瞬、聞き返した。
ルミエールは何でもないことのように頷く。
「ええ。学園の近くの森よ」
「森にあるのか、ルミナスブルームは」
「ある……はずよ」
「はず?」
「大丈夫。大まかな話は聞いているわ」
蒼真は少しだけ不安になった。
だが、ルミエールがあまりにも当然のように言うので、それ以上は今は聞かなかった。
二人はいったん準備をすることにした。
待ち合わせは、校門前。
雨具を整えてから向かう。
蒼真は寮の自室へ戻り、学園から支給されている雨具を取り出した。
それは、濃い灰色の外套だった。
厚手に見えるが、手に持つと意外に軽い。布には防水の魔法処理が施されており、雨粒を弾くだけでなく、内側の湿気もある程度逃がすらしい。フード付きで、肩から背中にかけては動きやすいように布が重ねられている。
現代日本のレインコートに似ている。
だが、細部はやはり魔法世界のものだった。
袖口には水属性の簡易防水術式が縫い込まれ、裾には泥除けのための土属性の小さな刻印がある。ブーツも、普段の靴より厚く、防水と滑り止めの術式が入っていた。
腰には小さな携行灯をつける。
魔石を使った簡易灯で、暗い場所でも数時間は使えると説明されたことがある。
準備を終えて校門前へ向かうと、ルミエールはすでに待っていた。
蒼真は思わず足を止めた。
彼女の雨具は、蒼真のものとはまるで違っていた。
淡い白金色の外套。
生地は雨を弾いているが、重さを感じさせない。縁には細い金糸の刺繍が施され、フードの内側には淡い青の布が使われている。雨粒が外套に当たるたび、ほんの一瞬だけ柔らかな光が散った。
手には細身の魔法傘を持っている。
傘布は透明に近い淡い乳白色で、骨組みには銀色の細工が施されていた。雨粒が当たると、まるで小さな星が弾けるように光る。
雨の日なのに、ルミエールの周囲だけ少し明るく見えた。
「待たせたか」
「いいえ。私も今来たところよ」
ルミエールは微笑んだ。
蒼真は彼女の外套と傘を見る。
「その雨具、すごいな」
「光属性の防水術式が入っているの。雨粒を弾く時に、少しだけ光るようになっているわ」
「実用性と見た目が両立してる」
「貴族の雨具は、濡れないだけでは不十分なの」
「大変だな、貴族」
「ええ。少しだけね」
ルミエールは冗談めかして言った。
その仕草は自然だったが、雨の中で光をまとって立つ姿は、やはり彼女の属性によく似合っていた。
光属性の名門。
ルミエール・ド・アルセリア。
こういう景色の中に立つと、その肩書きがただの設定ではなく、彼女自身の雰囲気として見えてくる。
蒼真は校門の外へ視線を向けた。
雨に濡れた道が、学園の外へ続いている。
「それで、どこに行けばルミナスブルームは見られるんだ?」
ルミエールは一瞬だけ目を逸らした。
「んー……森かしら」
「森かしら?」
「ええ。森ね」
「場所、分かってないのか?」
「大まかには分かっているわ」
「俺は、花屋とか植物園にあるのかと思ってた」
ルミエールは少しだけ眉を寄せた。
「そんなところに、ぽいぽい置いてある花ではありません」
「悪い。そんなに貴重なのか」
「ええ。とても貴重で、幻の花とも呼ばれているの」
「幻の花」
蒼真はその言葉を繰り返した。
「それを今から探すのか」
「そうね」
「なかなか大きな話になってきたな」
「大丈夫よ。危険な森ではないわ。学園の管理区域に近い場所だから」
「それならいいけど」
蒼真は雨の降る道を見た。
森。
幻の花。
雨の日限定。
光属性に反応する。
考えれば考えるほど、簡単に見つかるものではなさそうだった。
だが、不思議と悪い気はしない。
むしろ、少し楽しみだった。




