第55話 召喚直前(1)
第55話 召喚直前
研究室の中に、静寂が落ちていた。
夕方の光は、先ほどよりも少しだけ赤みを増している。窓際に積まれた本の背表紙が薄く照らされ、机の上に広げられた羊皮紙には、複雑な魔法陣の線が淡い影を作っていた。
異世界召喚。
膨大な魔力。
国家級の儀式。
召喚対象を指定する情報。
帰還の可能性。
そこには、蒼真がこの世界に来た理由へ繋がるかもしれない資料が並んでいた。
だが今、蒼井蒼真の思考は、それらのどれにも正しく向いていなかった。
目の前にいる九条リリアが、顔を真っ赤にして俯いていたからだ。
「……ごめんなさい」
さっき、リリアはそう言った。
声は震えていた。
いつもの冷静な調子ではない。理論を積み上げる時の彼女でも、資料を読み解く時の彼女でもない。目元にまだ涙の気配を残したまま、唇を結び、どうしていいのか分からないように立っていた。
蒼真も、どうしていいのか分からなかった。
キスされた。
それは事実だ。
しかも、触れるだけの短いものではなかった。
リリアは、蒼真がこの世界からいなくなるかもしれないという不安に耐えきれず、抱きついてきた。そして、唇を重ねた。
長い沈黙。
その間に、蒼真は何度か口を開きかけた。
だが、適切な言葉が見つからない。
こういう時、何を言えばいいのか。
大丈夫だと言うのは違う気がした。
気にするなと言うのも違う。
なかったことにするのは、もっと違う。
リリアの行動は、衝動だったのかもしれない。けれど、そこに込められていた感情は本物だった。
それを、軽く扱うことはできなかった。
「リリア」
ようやく蒼真は名前を呼んだ。
リリアの肩が小さく跳ねる。
「……なに」
「その……謝ることじゃない、と思う」
言ってから、蒼真は自分の言葉の曖昧さに気づいた。
リリアも同じだったのだろう。顔を上げて、困ったように蒼真を見た。
「それは、許してくれるってこと?」
「許すとか、そういう話でもない気がする」
「じゃあ、どういう話?」
「……分からない」
正直に言うと、リリアは一瞬きょとんとした。
そして、少しだけ笑った。
その笑みは、まだぎこちなかったが、張り詰めていた空気を少しだけ緩めた。
「蒼真らしいわね」
「そうか?」
「ええ。変に格好つけないところが」
「格好つけられる状況でもない」
「それもそうね」
リリアは眼鏡の位置を直した。
その動作で、いつもの自分を取り戻そうとしているように見えた。
彼女は一度深呼吸すると、机の上の資料へ視線を落とした。
「……話を戻しましょう」
「戻せるのか」
「戻すの」
リリアは少し強めに言った。
頬はまだ赤い。
だが、その声には研究者としての芯が戻りつつあった。
「召喚魔法の話。まだ確認しなければいけないことがある」
蒼真は頷いた。
正直、頭はまだ完全には整理できていない。
リリアに抱きつかれた感触も、キスの温度も、はっきり残っている。
それでも、今は話を続けるべきだと思った。
自分がこの世界に来た理由。
元の世界へ戻れるのか。
そこから目を逸らすことはできない。
リリアは机の上の羊皮紙を一枚引き寄せた。
「蒼真。もう一度確認するわ」
「ああ」
「召喚される直前のことは、覚えてる?」
その問いに、蒼真はすぐには答えられなかった。
覚えているようで、覚えていない。
この世界に来た直後から、その記憶はぼんやりしていた。
学校。
街。
走っていたような感覚。
何かを追っていたような焦り。
だが、細部は霧の向こうに隠れている。
「それが……」
蒼真は眉を寄せた。
「はっきりしない。ただ、街中を走っていた気がする」
「街中?」
「ああ。誰かを追っていたような……」
言葉にした瞬間だった。
頭の奥で、何かが軋むような感覚がした。
忘れていた扉が、少しだけ開く。
蒼真は思わず机に手をついた。
「蒼真?」
リリアの声が遠くなる。
研究室の匂いが薄れていく。
本。
紙。
インク。
魔石。
それらが遠ざかり、別の匂いが蘇った。
アスファルト。
排気ガス。
雨上がりの湿った空気。
現代日本の街の匂い。
そして、足音。
自分の足音。
誰かの逃げる足音。
記憶が、一気に蘇る。
――待て!
蒼真は叫んでいた。
夕暮れの街を走っている。
制服ではない。現代日本で着ていた学生服。鞄はどこかに置いてきたのか、手には何もない。息が荒い。肺が痛い。だが、止まるわけにはいかなかった。
前方を、一人の男が走っている。
年齢は二十代後半から三十代くらい。黒っぽい上着。深くかぶった帽子。顔ははっきり見えない。
男は人混みを乱暴にかき分け、路地へ飛び込んだ。
「ちっ、まだ追ってきやがる!」
男が吐き捨てる声が聞こえる。
蒼真は速度を落とさなかった。
「待て!」
どうして追っていたのか。
それはまだ曖昧だった。
だが、犯人だ、という認識だけはある。
何かを盗んだのか。
誰かを傷つけたのか。
目の前で事件が起きたのか。
細部は思い出せない。
ただ、逃がしてはいけないと思っていた。
路地を抜けると、古い建物が見えた。
取り壊し中の廃ビル。
周囲には工事用の柵が立っているが、一部が歪み、人一人が通れるほどの隙間ができていた。男は迷わずそこへ滑り込む。
「くそっ」
蒼真も後を追った。
中は薄暗かった。
窓ガラスの多くは割れ、床には埃と小さな瓦礫が散らばっている。天井からぶら下がるコード。むき出しの鉄骨。壁には剥がれかけた古いポスター。
人の気配はない。
だが、逃げた男はこの中にいる。
「どこに隠れた……」
蒼真は息を殺す。
廃ビルの中に、微かな音が響いた。
コン。
コン。
コン。
階段を上る音。
「こっちか!」
蒼真は階段へ向かった。
古いコンクリートの階段。
手すりは錆び、足元には細かいひびが入っている。
危ない。
そう思ったのかもしれない。
けれど、立ち止まらなかった。
犯人を追う。
逃がさない。
一段。
二段。
三段。
駆け上がる。
その時だった。
足元で、嫌な音がした。
ミシリ。
次の瞬間、階段の一部が砕けた。
「っ!?」
足場が消える。
体が宙に浮いた。
視界がぐらりと傾く。
手を伸ばす。
何かを掴もうとする。
だが、指先は空を切った。
下へ落ちる。
胃が浮く感覚。
背中を冷たいものが走る。
これは、まずい。
落ちたら。
死ぬ。
「わ――」
叫び声が喉から漏れた瞬間。
光が、視界を埋め尽くした。
白い光。
熱はない。
けれど、すべてを飲み込むような光。
落下しているはずの体が、どこかへ引き込まれる。
廃ビルも、階段も、犯人の足音も、街の匂いも、全部が遠ざかっていく。
そして――。
「蒼真!」
リリアの声で、蒼真は現実へ引き戻された。
研究室だった。
机の上には召喚魔法の資料。
窓の外には夕焼け。
目の前には、心配そうにこちらを覗き込むリリア。
蒼真は、自分が激しく息をしていることに気づいた。
額に汗が滲んでいる。
背中も冷たい。
手が震えていた。
「大丈夫?」
リリアが近づく。
「顔色が悪いわ」
「……思い出した」
蒼真は、かすれた声で言った。
「召喚される直前のことを」
リリアの表情が変わる。
研究者としての緊張と、蒼真を案じる不安が同時に浮かぶ。
「ゆっくりでいい。話せる?」
「ああ」
蒼真は椅子に座り直した。
膝の上に置いた手が、まだ少し震えている。
情けないと思った。
だが、震えは止まらなかった。
さっきまで記憶だと思っていたものが、急に現実味を帯びて蘇った。
自分は、落ちていた。
本当に落ちていた。
もし光に包まれなければ、そのまま下へ落ちていた。
蒼真は、記憶を一つずつ言葉にした。
街中を走っていたこと。
誰かを追っていたこと。
犯人らしき男が逃げていたこと。
取り壊し中の廃ビルに入ったこと。
階段を上ったこと。
足場が崩れたこと。
落下したこと。
そして、光に包まれたこと。
リリアは途中で口を挟まなかった。
ただ真剣に聞いていた。
必要な部分では短くメモを取り、蒼真が言葉に詰まると、急かさず待った。
蒼真がすべてを話し終える頃には、研究室の夕日はさらに赤くなっていた。
長い沈黙があった。
リリアは、手元の紙を見つめたまま動かない。
蒼真は、乾いた喉で息をした。
「それって……」
リリアがようやく口を開いた。
だが、その先の言葉はすぐには出てこなかった。




