第54話 帰る場所(3)
第54話 帰る場所
蒼真は記憶を辿った。
現代日本。
学校。
日常。
そして、気づけばこの世界にいた。
すべてが霧の向こうにあるようだった。
「光とか、音とか、魔法陣とか」
「覚えていない」
「誰かの声は?」
「それも……分からない」
蒼真は自分の手元を見た。
「ただ、呼ばれた、という感覚はある」
リリアが息を止めた。
「呼ばれた?」
「説明はできない。でも、事故で落ちたとか、迷い込んだとか、そういう感じじゃない。誰かに引っ張られたような……いや、正確には、どこかへ向かう流れに乗せられたような感覚だった」
言葉にすると曖昧だった。
蒼真自身、確信を持っているわけではない。
だが、何もなかったとは思えなかった。
リリアは黙ってメモを取った。
その横顔は真剣だった。
研究者の顔。
けれど、どこか不安そうでもあった。
「それなら、やっぱり召喚に近い」
「近い?」
「断定はできない。でも、少なくとも“世界間移動”が起きたのは確かよ。自然現象の可能性もゼロではないけれど、あなたの能力を考えると偶然とは言い切れない」
「俺の能力」
「魔力生成不能。それなのに外部魔力への干渉ができる」
リリアは蒼真を見た。
「無力化、吸収、反射、痕跡の視認。普通じゃないわ」
「普通じゃないのは分かってる」
「いいえ、多分あなたが思っている以上に普通じゃない」
その言い方は、少し強かった。
蒼真は黙った。
リリアは、すぐに視線を資料へ落とす。
「ごめんなさい。責めているわけじゃないの」
「分かってる」
「ただ……」
リリアの指が、紙の端を軽く押さえた。
「あなたがこの世界に来たことには、理由があると思う」
部屋の中が、静かになった。
外からは、遠くの部活動の声がかすかに聞こえる。研究棟のどこかで魔道具が小さく鳴っている音もする。
それでも、この部屋だけが少し世界から切り離されたようだった。
「誰が」
リリアは呟くように言った。
「何のために」
資料の上に、夕方の光が落ちている。
「あなたを呼んだのか」
蒼真はその言葉を聞きながら、妙な感覚を覚えた。
自分はこれまで、目の前の事件を見てきた。
被害者。
加害者。
動機。
手段。
証拠。
だが、自分自身についてはどうだろう。
なぜ呼ばれたのか。
誰が得をするのか。
どんな手段が使われたのか。
それは、まだ何一つ分かっていない。
自分自身の事件だけが、未解決のまま残っている。
蒼真は、ゆっくりと口を開いた。
「それで」
リリアが顔を上げる。
「俺は戻れるのか」
その瞬間、リリアの動きが止まった。
本当に、止まったように見えた。
紙を押さえていた指。
わずかに開いた唇。
眼鏡の奥の瞳。
すべてが、一瞬だけ凍りついた。
「……戻る」
リリアは小さく繰り返した。
「ああ」
蒼真は視線を逸らさなかった。
「召喚されたなら、逆の手順で戻れる可能性があるのかと思った」
それは、当然の疑問だった。
呼ばれたなら、帰れるのか。
道があるなら、逆向きの道も存在するのか。
しかし、リリアの表情を見た瞬間、蒼真は自分の問いが彼女にどう響いたのかを理解した。
リリアは、ただ研究者としてその問いを聞いたわけではなかった。
彼女にとってそれは、蒼真がこの世界からいなくなる可能性を意味していた。
「蒼真」
リリアの声は、かすかに震えていた。
「戻りたいの?」
問われて、蒼真はすぐに答えられなかった。
戻りたいのか。
その問いは、簡単なようで難しかった。
この世界に来たばかりの頃なら、迷わず戻りたいと答えただろう。
知らない世界。
知らない人間。
知らない魔法。
自分が何者なのかも、何のためにここにいるのかも分からなかった。
だが今は違う。
ルミエールがいる。
リリアがいる。
アリシアがいる。
フレイアがいる。
セレナがいる。
この学園で出会った人たちがいる。
事件を通して関わった人間たちがいる。
この世界には、もう蒼真の居場所が少しずつでき始めていた。
それでも。
「分からない」
蒼真は正直に答えた。
「分からない?」
「この世界が嫌なわけじゃない。むしろ……楽しくなってきた」
リリアは黙って聞いている。
「魔法も、学園も、こっちの常識も、まだ分からないことだらけだ。でも、知りたいと思う。ここで会った人たちのことも、嫌いじゃない」
「……なら」
「でも」
蒼真は続けた。
「何か、やり残してきた気がするんだ」
その言葉は、自分でも曖昧だった。
記憶が完全に欠けているわけではない。
自分が現代日本にいたことは分かる。
高校生だったことも分かる。
推理小説を読んでいたことも覚えている。
日常も、断片的には思い出せる。
けれど、その奥に何かがある。
置いてきたもの。
果たしていない約束。
あるいは、ただ戻らなければならないという感覚。
形にならないものが、胸の奥に残っていた。
「戻る必要があるんじゃないかと思ってる」
蒼真は静かに言った。
リリアの顔から、血の気が引いていくのが分かった。
彼女は一度、視線を落とした。
長い沈黙。
紙の上に落ちる夕日が、ゆっくり色を変えていく。
リリアは唇を噛んだ。
「なにそれ」
声は小さかった。
けれど、はっきりと怒っていた。
「リリア?」
「なにそれ、蒼真」
リリアは顔を上げた。
眼鏡の奥の瞳が揺れている。
「戻る必要があるかもしれないって、なに」
「俺にも分からない。ただ――」
「分からないのに言わないで」
リリアの声が、少しだけ強くなった。
蒼真は言葉を止めた。
リリアは両手を握りしめている。
研究者として資料を調べていた彼女ではなかった。
そこにいるのは、ただ一人の少女だった。
「私、調べたの」
リリアは震える声で言った。
「あなたがどうして来たのか、何が起きたのか、少しでも分かればいいと思って調べた」
「ああ」
「でも……」
彼女は目を伏せた。
「あなたを帰すためだけに調べていたわけじゃない」
蒼真は息を止めた。
リリアは言葉を続ける。
「あなたのことを知りたかったの。あなたがどこから来て、なぜここにいるのか。あなた自身が分からないままでいるのが嫌だったから」
それは、リリアらしい理由だった。
知りたい。
理解したい。
曖昧なものを曖昧なままにしたくない。
彼女はいつもそうだった。
けれど、今の言葉には、それだけではない感情が混ざっていた。
「でも、戻るって言われたら」
リリアの声が詰まる。
「戻ったら、二度とこっちの世界に来られないかもしれないのよ」
蒼真は何も言えなかった。
その通りだった。
帰れるとしても、再び来られる保証はない。
そもそも帰る方法があるのかも分からない。
戻るという言葉は、この世界の人間にとって、蒼真との別れを意味する。
蒼真は、その重さを十分に考えていなかったのかもしれない。
自分の問題としてだけ、見ていた。
帰れるか。
帰るべきか。
だが、帰れば残される人がいる。
リリアは、そのことを真正面から受け止めていた。
「リリア」
蒼真が名前を呼ぶ。
リリアは答えなかった。
彼女はゆっくりと立ち上がった。
椅子が床を擦る音が、静かな研究室に響く。
机を回り込み、蒼真の方へ歩いてくる。
蒼真は少し戸惑った。
「どうした?」
リリアは止まらない。
蒼真の前まで来る。
距離が近い。
彼女の黒髪が、夕方の光を受けて淡く揺れていた。
「嫌」
リリアが言った。
その声は、今にも壊れそうだった。
「蒼真がいなくなるの、嫌」
次の瞬間、リリアは蒼真に抱きついた。
蒼真の身体が固まる。
柔らかな重み。
制服越しに伝わる体温。
胸元に顔を押しつけるようにして、リリアは蒼真を抱きしめていた。
普段の彼女からは想像できないほど、必死だった。
「リリア……」
蒼真は、どうすればいいのか一瞬分からなかった。
推理なら、条件を整理できる。
証言なら、矛盾を探せる。
現場なら、痕跡を追える。
だが、泣きそうな少女が自分に抱きついている時、何をどうすれば正解なのか、蒼真には分からなかった。
ただ、引き離すことだけは違うと思った。
蒼真はゆっくりと手を上げた。
迷った末に、リリアの頭に触れる。
黒髪は思ったより柔らかかった。
そっと撫でる。
「……ごめん」
蒼真は言った。
「そんなつもりで言ったわけじゃなかった」
「分かってる」
リリアの声は、蒼真の胸元に埋もれていた。
「分かってるけど……嫌なの」
蒼真の手が止まりかける。
リリアはさらに強く抱きしめた。
「蒼真が、急にいなくなるのは嫌」
その言葉は、まっすぐだった。
理屈ではない。
研究でもない。
結論でもない。
ただ、感情だった。
蒼真は、もう一度リリアの頭を撫でた。
「急にはいなくならない」
「本当?」
「少なくとも、今すぐはいなくならない」
「……今すぐだけ?」
責めるような声ではなかった。
不安がそのまま零れた声だった。
蒼真は言葉に詰まった。
未来のことは分からない。
帰る方法があるかも分からない。
自分がどうしたいのかも、まだ分からない。
だから、簡単に約束はできなかった。
それが蒼真の性格だった。
嘘で安心させることはできない。
だが、何も言わないこともできなかった。
「分からないことは多い」
蒼真は正直に言った。
「でも、何も言わずに消えたりはしない」
リリアが、わずかに顔を上げた。
涙が目に溜まっていた。
眼鏡の奥で、彼女の瞳が揺れている。
「本当に?」
「ああ」
「約束?」
「約束する」
その言葉を聞いて、リリアの表情が少しだけ緩んだ。
けれど、不安が消えたわけではなかった。
彼女は蒼真を見つめていた。
近い。
近すぎる。
さっき資料を覗き込んだ時とは、比べものにならないほど近い。
蒼真はようやく、自分たちの距離に意識が追いついた。
「リリア」
「なに」
「その、近い」
「知ってる」
リリアは答えた。
その声は、まだ震えていた。
けれど、どこか決意もあった。
蒼真は動けなかった。
リリアの手が、蒼真の制服を掴んでいる。
離れたくないと言うように。
蒼真は、彼女を見ていた。
いつも冷静で、理論的で、どこか大人びていて。
けれど今は、涙目で、頬を赤くして、必死に何かをこらえている。
この世界に来てから、蒼真は何度も人の感情に触れてきた。
怒り。
恐怖。
嫉妬。
後悔。
罪悪感。
そして、好意。
リリアのそれは、もう隠しようがなかった。
リリアは唇を震わせた。
「私ね」
声が小さい。
「蒼真が、いなくなるかもしれないって思ったら」
言葉が途切れる。
彼女は一度、目を伏せた。
「嫌で」
そして、もう一度顔を上げる。
「どうしようもなく、嫌で」
蒼真は何も言えなかった。
リリアの瞳が、まっすぐに蒼真を見ている。
研究室の窓から入る夕日が、二人の影を床に伸ばしていた。
周囲には、積み上がった本と資料。
召喚魔法の羊皮紙。
膨大な魔力。
国家級の儀式。
帰還の可能性。
それらすべてが、今は遠かった。
リリアが、少し背伸びをした。
蒼真は、その意味を理解するより先に、動けなくなった。
次の瞬間、リリアの唇が蒼真の唇に触れた。
時間が止まった。
蒼真の思考が、一瞬で白くなる。
柔らかい。
温かい。
近い。
それ以外の情報が、ほとんど入ってこない。
リリアは目を閉じていた。
蒼真の制服を掴む指に、力がこもっている。
触れるだけの短いものではなかった。
彼女は、離れなかった。
不安を押し込めるように。
言葉にできなかった感情を伝えるように。
蒼真がどこかへ行ってしまわないように。
その唇は、長く、静かに重なっていた。
研究室の外では、誰かが廊下を歩く足音がした。
遠くで、魔道具の鈴のような音が鳴った。
だが、蒼真にはほとんど聞こえていなかった。
リリアの体温。
近すぎる距離。
胸の奥で跳ねる自分の鼓動。
それだけが、やけにはっきりしていた。
どれくらいそうしていたのか、蒼真には分からなかった。
数秒だったのか。
もっと長かったのか。
やがて、リリアがゆっくりと離れた。
唇が離れる。
けれど、距離はまだ近い。
リリアは顔を真っ赤にしていた。
涙の残る瞳が、とろんと潤んでいる。
眼鏡の奥のその表情は、いつもの理論派の彼女とはまるで違っていた。
蒼真は、完全に言葉を失っていた。
「リリア……」
名前を呼ぶのが精一杯だった。
リリアは、自分が何をしたのかを遅れて理解したように、はっと目を見開いた。
頬がさらに赤くなる。
蒼真の制服を掴んでいた手が、少し震えた。
研究室の中に、静寂が落ちる。
机の上には、異世界召喚の資料が広がったままだった。
羊皮紙に描かれた魔法陣。
膨大な魔力の計算式。
召喚対象を指定するための記述。
帰還の可能性を示すかもしれない断片。
そのすべての前で、リリアは小さく息を吸った。
そして、震える声で言った。
「……ごめんなさい」




