第54話 帰る場所(2)
第54話 帰る場所
蒼真は部屋を見回した。
「散らかってるな」
「研究室なんて、こんなものでしょ」
リリアは悪びれない。
「その辺の空いているところに適当に座って」
「空いているところが見当たらないんだが」
「探せばあるわ」
蒼真は少しだけ部屋を見渡し、かろうじて座面の見えている椅子を見つけた。上に載っていた薄い本をそっと横へ移し、座る。
椅子の隣には、背丈ほど積み上がった本の塔があった。
少し揺れている気がする。
「これ、崩れないのか?」
「崩れたら積み直せばいいわ」
「崩れる前提なのか」
「研究に犠牲はつきものよ」
「本の配置を犠牲にしないでくれ」
リリアはほんの少し口元を緩めた。
普段の彼女は冷静で、感情を大きく出さない。だが、こうしたやり取りの時には、わずかに表情が柔らかくなる。
蒼真は、それがリリアらしいと思った。
リリアは机の上の資料をいくつかどけ、中央に空間を作った。そこへ抱えていた本と羊皮紙を置く。さらに、引き出しから数枚の紙を取り出し、机の上に広げた。
その動きは迷いがなかった。
散らかっているように見えて、リリアの中では整理されているのかもしれない。
本人にしか分からない分類法なのだろうが。
「蒼真」
リリアの声が、少し低くなる。
蒼真は姿勢を正した。
「召喚魔法について、いろいろ調べてみたの」
その言葉で、部屋の空気が変わった。
さっきまでの軽いやり取りが、すっと遠ざかる。
「召喚魔法……」
「ええ。あなたがこの世界に来た理由に関係するかもしれないから」
リリアは眼鏡の位置を直し、一枚の羊皮紙を蒼真の前へ差し出した。
「これを見て」
蒼真は身を乗り出した。
羊皮紙には、複雑な魔法陣が描かれていた。
いくつもの円。
その内側を走る線。
交差する記号。
見たことのない文字。
星形にも似た構造。
外周に沿ってびっしりと書き込まれた術式らしきもの。
蒼真には、すべてを読むことはできない。
だが、ただ複雑だということだけは分かった。
リリアも同じ紙を覗き込むように、蒼真の横へ来た。
顔が近い。
紙面を見るためには自然な距離なのだろうが、肩が触れそうだった。
リリアの黒髪が、蒼真の視界の端で揺れる。
ふと、リリアがこちらの距離に気づいた。
「……ちょっと、近い」
「そっちが紙を出したんだろ」
「そうだけど」
リリアはわずかに顔を赤くし、咳払いをした。
「とにかく、説明するわ」
「ああ」
蒼真は紙へ視線を戻す。
リリアは一枚目の羊皮紙を指で押さえた。
「まず、召喚魔法にはいくつか種類があるの。単純な物品召喚、契約対象を呼び寄せる精霊召喚、魔獣召喚、使い魔召喚。それぞれ難易度が違う」
「物を呼ぶのと、生き物を呼ぶのでは違うのか」
「全然違うわ。物品召喚は、座標と対象が明確なら比較的安定する。もちろん、それでも簡単ではないけれど」
リリアは別の紙を出した。
そこには、簡易的な図が描かれていた。
こちらの世界のどこかから、別の場所へ物体を移動させる図。
「でも、生物は違う。魂、意識、生命活動、魔力循環。呼び寄せる時に壊してはいけない要素が増えるの」
蒼真は黙って聞いた。
召喚魔法。
自分がこの世界に来た原因かもしれないもの。
だが、今まで蒼真はそれを詳しく調べる余裕がなかった。
事件が起きた。
誰かが困っていた。
その度に目の前の問題を解くことを優先してきた。
しかし、考えなかったわけではない。
自分はなぜ、この世界にいるのか。
誰が呼んだのか。
何のために。
そして、戻れるのか。
その問いは、ずっと胸の奥に残っていた。
「魔獣召喚の場合は、対象の種族や個体の性質を術式に指定する必要がある。精霊召喚はさらに特殊で、こちらから無理に呼ぶというより、契約や呼応に近い」
「じゃあ、人間は?」
蒼真が尋ねると、リリアの指が止まった。
彼女は少しだけ蒼真を見て、それから資料へ視線を戻した。
「人間召喚は、極めて難しいわ」
声が、慎重になった。
「この世界の人間を、同じ世界の別の場所から呼び寄せるだけでも高難度。本人の身体、意識、魔力循環、座標を安定させる必要があるから」
「俺の場合は、別の世界から来た」
「そう」
リリアは小さく頷いた。
「だから、普通の召喚魔法とは段階が違う」
彼女は次の資料を広げた。
そこには、二つの円が描かれている。
一つは、この世界を示す円。
もう一つは、別世界を示すらしい円。
その間を、細い線が繋いでいた。
ただし、その線は何重にも保護され、いくつもの術式が周囲を囲んでいる。
「異世界召喚には、少なくとも三つの条件が必要だとされているわ」
リリアは指を立てた。
「一つ目。召喚対象を指定するための情報」
「情報?」
「名前、魂の波長、存在の座標、世界間の接続点。文献によって表現は違うけれど、要するに“誰を呼ぶのか”を決めるための情報ね」
蒼真は眉を寄せた。
「俺の情報を、誰かが知っていたってことか?」
「可能性としては」
リリアの表情は険しい。
「でも、それだけじゃない。二つ目は、膨大な魔力」
彼女は別の資料を指差した。
「通常の使い魔召喚ですら、術者一人の魔力では足りないことがあるわ。儀式用の魔石や、補助陣、複数人の詠唱が必要になる場合もある」
「異世界人召喚は?」
「一人の魔法使いでは不可能」
即答だった。
リリアはためらわずに言った。
「少なくとも、私が調べた範囲ではそう。蒼真みたいな人間を異世界から召喚するには、膨大な魔力が必要になる。国家級の儀式、あるいはそれに匹敵する何かがなければ成立しない」
「国家級……」
蒼真はその言葉を反芻した。
ただの事故ではない。
少なくとも、リリアの調べた限りでは、偶然で片付けられる規模ではない。
「三つ目は、緻密な魔法陣」
リリアは最初の羊皮紙へ戻った。
「これが一番厄介。異世界からの召喚は、座標のずれが命取りになる。少しでも術式が乱れれば、対象が来ないどころか、身体や魂に損傷が出る可能性もある」
「物騒だな」
「物騒なのよ」
リリアは真剣だった。
「だから、普通ならやらない。やれない。実験として行うには危険すぎるし、必要な魔力も桁違い。そもそも成功例の記録がほとんどない」
蒼真は資料を見た。
複雑な魔法陣。
膨大な魔力。
召喚対象の指定。
それらが揃って、初めて異世界召喚が成立する。
ならば、自分はなぜここにいるのか。
誰かが、そこまでして呼んだのか。
それとも、リリアの知らない別の仕組みが働いたのか。
「ねえ、蒼真」
リリアの声は、いつもより少し小さかった。
「あなたがこの世界に来た時、何か覚えていることはある?」
「……はっきりとは」




