第54話 帰る場所(1)
第54話 帰る場所
放課後のノクティス魔法学園は、朝や昼とは別の顔を見せる。
授業を終えた生徒たちの声が、広い廊下に幾重にも重なっていた。教室から教室へ移動する足音ではなく、寮へ戻る者、部活動へ向かう者、図書室で課題を片付けようとする者、友人と中庭へ出ていく者。それぞれの目的へ向かう気配が、石造りの校舎全体にゆるやかに広がっている。
夕方の光は、まだ完全には傾ききっていない。
西側の大窓から差し込む陽光は、廊下の床に長い影を作っていた。城塞のような学園の壁は日中の熱をわずかに含み、けれど内部に張られた環境調整の術式が、暑さを不快なものにまではしていない。
蒼井蒼真は、教科書を抱えたまま廊下を歩いていた。
今日の授業は、比較的穏やかだった。
魔法理論Ⅰでは、属性相性について学んだ。属性環、隣接属性、相反属性、そして、属性名ではなく現象を見るという考え方。
魔法を使えない蒼真にとって、それは意外なほど理解しやすい授業だった。
この世界の人間は、魔法を当たり前のものとして扱う。
火が出る。
水が流れる。
風が吹く。
土が形を変える。
光が照らす。
闇が隠す。
けれど、それらは名前ではなく現象だ。
魔法は、何かを起こしている。
ならば、見るべきなのは属性ではなく、何が、どう起きたか。
その考え方は、蒼真にとっては事件を見る時の思考とよく似ていた。
ただし、今日これから向かう場所は、事件の現場ではない。
研究棟だった。
「蒼真」
廊下の角を曲がったところで、声をかけられた。
振り向くと、九条リリアが立っていた。
黒髪をきちんと整え、眼鏡の奥の瞳はいつも通り落ち着いている。腕には何冊もの本と羊皮紙の束を抱えていた。その量は、歩きながら読むためというより、どこかに運ぶ途中という方が近い。
「リリア」
「少し時間ある?」
短い問いだった。
リリアは普段から無駄な前置きをあまりしない。必要なことを必要なだけ言う。それでも、今日の声にはどこか、いつもより硬さがあった。
「あるけど」
「研究部に来て」
「研究部?」
「ええ。見せたいものがあるの」
蒼真は少しだけ首を傾げた。
リリアは魔法研究部に所属している。
同じ一年ではあるが、彼女は蒼真とは別クラスだ。普段の授業で顔を合わせることは少ない。それでも、図書室や調べ物の場ではよく会う。特に事件が絡むと、リリアは鋭い観察力と膨大な知識で蒼真を助けてくれた。
そのリリアが、わざわざ研究部に呼ぶ。
単なる雑談ではないだろう。
「分かった」
蒼真が頷くと、リリアは少しだけ安心したように息を吐いた。
「こっち」
そう言って歩き出す。
蒼真はその後についていった。
研究棟は、本校舎の東側にある。
授業用の教室が並ぶ本校舎とは違い、研究棟には専門的な部屋が多い。魔法薬学の調合室、魔道具の試作室、術式解析室、精霊観察室、記録保管室。扉の前にはそれぞれ用途を示す金属札があり、部屋によっては簡易結界が張られている。
廊下の空気も少し違っていた。
本校舎より静かで、紙とインク、魔石粉、古い本の匂いが混ざっている。時折、どこかの部屋から小さな爆発音や、誰かの悲鳴に近い声が聞こえた。
「……今のは大丈夫なのか?」
「多分、魔道具開発班」
「多分で済むのか」
「日常よ」
リリアは平然と言った。
蒼真は、この学園に来てから何度も思ったことをまた思った。
魔法学園の日常は、現代日本の高校とはかなり違う。
リリアは廊下の奥、少し古びた木製の扉の前で立ち止まった。扉には、魔法研究部と刻まれた札がかかっている。その下には、小さな字で「無断持ち出し禁止」「実験中は入室注意」「爆発物は窓際へ置かないこと」と書かれていた。
最後の注意書きだけ、妙に具体的だった。
リリアが扉を開ける。
「入って」
蒼真は一歩、室内へ入った。
そして、思わず足を止めた。
「……なんか、すごいな」
部屋の中は、予想以上だった。
まず、本が多い。
壁一面に本棚がある。だが、その本棚には本がきれいに収まっているわけではない。斜めに差し込まれた魔導書、横倒しに積まれた研究書、何かの拍子に崩れかけている資料束。棚に入りきらなかった本が床にも積まれ、机の上にも積まれ、窓際にも積まれている。
次に、紙が多い。
羊皮紙、魔紙、普通の紙、薄い金属板の記録媒体。大小さまざまな資料が、机の上に山を作っていた。赤い紐で束ねられているものもあれば、開かれたまま放置されているものもある。いくつかの紙には魔法陣が描かれ、別の紙には細かい文字がぎっしり書き込まれていた。
さらに、用途の分からない道具もある。
透明な球体。
淡く光る石。
小さな秤。
細い針のついた測定器。
鳥かごのような形をした魔道具。
何かの液体が入った瓶。
部屋の中央には大きな机があるが、その上もほとんど資料で埋まっている。椅子は何脚かあるものの、半分は本置き場になっていた。




