第55話 召喚直前(2)
第55話 召喚直前
蒼真は自分で続きを言った。
「ああ」
声が震えた。
「俺は……召喚されなかったら、死んでいたかもしれない」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥に重いものが落ちた。
死。
それは、事件現場で何度も考えた概念だった。
誰かが傷つく。
誰かが壊れる。
取り返しのつかない結果になる。
だが、自分自身に向けられた死の可能性を、蒼真は今まで正面から見ていなかった。
自分は異世界に来た。
帰れるかもしれない。
帰りたいかもしれない。
そう考えていた。
けれど、帰るということは、あの瞬間に戻ることかもしれない。
崩れた階段。
宙に投げ出された体。
下にある暗い空間。
掴むもののない指先。
あの続きへ。
「戻ったところで……」
蒼真は唇を噛んだ。
「死ぬかもしれない」
声が、思ったより弱かった。
そのことに自分で驚く。
次の瞬間、視界が滲んだ。
涙が出ていた。
蒼真は反射的に顔を逸らそうとした。
だが、間に合わなかった。
頬を、一筋の涙が伝う。
「蒼真」
リリアの声が柔らかくなる。
蒼真は手で顔を覆った。
「悪い」
「謝らないで」
「いや、別に……泣くつもりは」
「泣いていいわ」
その言葉は、静かだった。
リリアは椅子を動かし、蒼真の隣へ来た。
そして、そっと彼の肩に手を置く。
「怖かったんでしょう」
その一言で、蒼真の胸の奥がさらに揺れた。
怖かった。
そうだ。
怖かったのだ。
落ちる瞬間。
死ぬかもしれないと思った瞬間。
この世界に来てから、ずっと忘れていた。
あるいは、考えないようにしていた。
事件を解くことで。
誰かを助けることで。
この世界に順応することで。
自分が何から来たのか、その瞬間の恐怖を奥へ押し込めていた。
だが、記憶が戻った今、それはもう隠せなかった。
リリアは蒼真の肩に置いた手に、少しだけ力を込めた。
「大丈夫よ、蒼真」
「何が大丈夫なんだ」
「今はここにいる」
リリアははっきりと言った。
「あなたは今、ここにいる。落ちていない。死んでいない。私の目の前にいる」
その言葉は、理論ではなかった。
証明でもない。
ただ、現在を確認する言葉だった。
今、ここにいる。
その事実だけを、リリアは蒼真へ渡した。
蒼真はゆっくりと手を下ろした。
涙はまだ止まりきっていない。
リリアは、迷わず蒼真を抱きしめた。
今度は先ほどのような衝動的な抱擁ではなかった。
優しく、包み込むように。
震える蒼真を支えるように。
リリアの腕が背中へ回る。
蒼真は、しばらく動けなかった。
柔らかな体温。
髪の匂い。
静かな呼吸。
さっきのキスとは違う。
これは、恋愛の熱ではなく、安心させるための抱擁だった。
それでも、胸の奥は苦しいほど温かかった。
「リリア」
「なに」
「少し、このままでいていいか」
「いいわ」
リリアはすぐに答えた。
「いくらでも」
研究室の中に、再び静かな時間が流れた。
外では、夕方の鐘が遠くで鳴っている。
放課後の学園は、少しずつ夜へ向かっていた。
蒼真は、リリアの腕の中で呼吸を整えた。
自分が泣いていること。
震えていること。
それを誰かに見られるのは、恥ずかしかった。
だが、不思議とリリアの前では、完全に隠そうとは思えなかった。
彼女は、こちらの弱さを暴くために見ているわけではない。
理解するために見ている。
そう分かるからかもしれない。
どれくらいそうしていただろう。
蒼真の呼吸が落ち着いた頃、リリアはゆっくりと腕を解いた。
「少し、落ち着いた?」
「ああ」
蒼真は目元を拭った。
「悪い。取り乱した」
「だから謝らないで」
「……分かった」
リリアは机の上の資料へ視線を戻した。
表情はまだ心配そうだったが、声は少しずつ研究者のものへ戻っていく。
「今の記憶は、とても重要よ」
「ああ」
「でも、結論を急いではだめ」
リリアは一本ずつ指を立てる。
「まず、あなたは落下中に光に包まれた。これは召喚、またはそれに近い世界間移動が起きた可能性を強める」
「そうだな」
「次に、召喚がなければ命の危険があった可能性が高い」
「ああ」
「でも、だからといって召喚者があなたを助けようとしたとは限らない」
蒼真は顔を上げた。
リリアは真剣だった。
「偶然、その瞬間に召喚されたのかもしれない。召喚者があなたの危機を知っていたのかもしれない。あるいは、死にかけたことで世界間の境界が不安定になり、召喚が成立しやすくなった可能性もある」
「境界が不安定に?」
「仮説よ」
リリアはすぐに付け加えた。
「魂や生命活動の危機が、召喚対象の固定に影響するという説はあるわ。ただし、禁書扱いに近い分野だから、確実な資料は少ない」
蒼真は黙って聞いた。
さすがリリアだと思った。
彼女は感情的に抱きしめてくれた。
だが、必要な時にはきちんと線を引く。
分かっていること。
分かっていないこと。
推測できること。
まだ断定できないこと。
それを混ぜない。
蒼真自身が大事にしている思考を、リリアもまた大事にしている。
「そっか……」
蒼真は小さく呟いた。
「じゃあ、召喚してくれた人は俺を助けてくれたのかと思ったけど、それもまだ分からないのか」
「ええ」
リリアは頷く。
「召喚した人物に聞いてみるまでは、断定できない」
「そうだな」
蒼真は深く息を吐いた。
「推測で断言するのはよくない」
「あなたの口癖みたいなものね」
「そうかもな」
「でも、今は混乱して当然よ」
リリアは優しく言った。
「自分が死にかけていたかもしれない記憶を思い出したんだもの。冷静でいろという方が無理だわ」
「ありがとう」
蒼真は素直に言った。
「いろいろ、助かった」
リリアは少しだけ目を逸らした。
「助けられたなら、よかった」
その声は、先ほどより柔らかかった。
重い空気が、少しずつ薄れていく。
まだ問題は何も解決していない。
召喚者は分からない。
帰還方法も分からない。
戻った場合、どの時間へ戻るのかも分からない。
それでも、分かったことはある。
蒼真は、召喚直前に落下していた。
召喚は、彼を死から遠ざけた可能性がある。
そして、誰かがそれを意図したのかどうかは、まだ分からない。
未解決の謎は、さらに深くなった。
蒼真は机の上の羊皮紙を見た。
異世界召喚の魔法陣。
複雑な線の集まり。
そこに、自分の運命を変えた何かが隠れているのかもしれない。
「リリア」
「なに?」
「今日は本当にありがとう。召喚のことも、記憶のことも……一人じゃここまで考えられなかった」
「当然でしょ」
リリアは少しだけ胸を張った。
「私はあなたの参謀役なんだから」
「いつからそうなったんだ」
「かなり前から」
「本人の許可は?」
「必要?」
「必要だろ」
「では、許可して」
蒼真は少しだけ笑った。
「考えておく」
「即答しなさいよ」
いつもの調子が戻ってきた。
そのことに、蒼真は少し安心した。
しかし、リリアはそこでふと、何かを思いついたように首を傾げた。
「ねえ、蒼真」
「なんだ」
「まだ顔色が悪いわ」
「そうか?」
「ええ。かなり」
リリアは真面目な顔で近づいてくる。
蒼真は一瞬、また心配をかけたのかと思った。
だが、次の言葉は予想外だった。
「じゃあ、もう一回キスする?」
蒼真の思考が止まった。
「……は?」
「落ち着くかもしれないわ」
「落ち着かない」
「試してみないと分からないでしょ」
「分かる」
蒼真は即答した。
リリアは頬を膨らませる。
「つまらない」
「つまるとか、つまらないとかの問題じゃない」
「でも、さっきは嫌がらなかった」
「動けなかったんだ」
「つまり、嫌ではなかった?」
「リリア」
「なに?」
「話をすり替えるな」
リリアは、ふふ、と小さく笑った。
さっきまで泣きそうだった少女と同じ人物とは思えないほど、楽しそうな顔だった。
「気持ちよかったでしょ?」
蒼真の顔が熱くなる。
「言うな」
「否定しないのね」
「否定すると話が長くなる気がする」
「正解」
「正解じゃない」
リリアは机に肘をつき、蒼真を見上げた。
眼鏡の奥の瞳が、悪戯っぽく細められている。
「望むなら、もっとすごいこともしてあげるけど?」
「リリア!」
蒼真は思わず声を上げた。
研究室の外に聞こえなかっただろうかと、一瞬不安になる。
リリアは口元を押さえて笑っていた。
「冗談よ」
「冗談に聞こえない」
「少し本気だったからかしら」
「余計悪い」
蒼真は立ち上がった。
このままここにいると、リリアのペースに巻き込まれ続ける。
召喚の話で頭が混乱しているところに、これ以上別の混乱を増やされたらたまらない。
「今日はもう戻る」
「あら、逃げるの?」
「撤退だ」
「同じ意味じゃない?」
「戦略的判断だ」
リリアは楽しそうに笑った。
蒼真は鞄を手に取る。
机の上の資料へもう一度視線を向けた。
「召喚の資料、また見せてくれ」
「もちろん」
「記憶のことも、整理したらもう少し話す」
「ええ。急がなくていいわ」
リリアの声は、今度は真面目だった。
「思い出すのがつらいなら、無理に掘り返さなくていい」
「分かった」
蒼真は頷いた。
「それと……今日はありがとう。いろいろ分かった。礼は今度する」
リリアは即答した。
「今すぐチューでいいわ」
「しない」
「即答」
「即答するしかないだろ」
蒼真は扉へ向かった。
背中に、リリアの視線を感じる。
「蒼真」
呼び止められて振り返る。
リリアは、少しだけ真面目な顔に戻っていた。
「約束、忘れないで」
「何も言わずに消えたりはしない、ってやつか」
「ええ」
「忘れない」
蒼真ははっきり答えた。
リリアは満足そうに頷いた。
「なら、今日は帰してあげる」
「助かる」
「でも、次はもう少し落ち着いて逃げなさい。顔が赤いわ」
「……まったく」
蒼真は視線を逸らし、扉を開けた。
廊下の空気が研究室より少し涼しい。
彼はそのまま足早に部屋を出た。
扉が閉まる。
研究室には、リリアだけが残った。
机の上には、異世界召喚の資料が広がっている。
羊皮紙。
魔法陣。
計算式。
失われた文献の写し。
そのすべては、まだ何も答えていない。
蒼真を呼んだ者が誰なのか。
なぜ彼が選ばれたのか。
帰還は可能なのか。
戻った時、彼は落下の続きを迎えるのか。
謎は残ったままだ。
けれど、リリアの表情は暗くなかった。
彼女は椅子に座り直し、指先で自分の唇にそっと触れた。
先ほどの感触を思い出したのか、頬がゆっくり赤くなる。
「そんなに急がなくてもいいのに」
小さく呟く。
それから、机の上の資料へ視線を落とした。
今度は研究者の顔で。
けれど、口元にはまだ、かすかな笑みが残っていた。
「……絶対に、調べてみせる」
リリアは静かにそう言った。
蒼真がなぜこの世界へ来たのか。
誰が彼を呼んだのか。
それが救いだったのか、別の目的だったのか。
まだ何も分からない。
だからこそ、調べる。
知る。
理解する。
そして、もし蒼真がいつか選ばなければならない時が来るのなら。
帰るのか。
残るのか。
その選択を、何も知らないままさせたくない。
リリアは新しい羊皮紙を一枚取り出した。
そこに、今日聞いたばかりの記憶を書き込んでいく。
現代世界。
犯人を追跡。
取り壊し中の廃ビル。
階段崩落。
落下中に発光。
世界間移動。
召喚と救命の関連性、未確定。
筆が止まる。
リリアは最後に、小さく一文を加えた。
――蒼真は、帰還を望む可能性がある。
その一文を見て、胸が少しだけ痛んだ。
けれど、すぐにその下へさらに書き足す。
――ただし、何も言わずには消えないと約束した。
リリアは、その文字を見つめた。
そして、もう一度だけ唇に触れた。
「約束だからね、蒼真」
窓の外では、夕焼けがゆっくりと夜へ変わり始めていた。
ノクティス魔法学園の長い一日は、終わりへ向かっている。
けれど、蒼真自身をめぐる謎は、ここからようやく動き始めたばかりだった。




