第52話「朝、誤解は増殖する」(2)
# 第52話「朝、誤解は増殖する」
蒼真は、一度だけ目を閉じた。
「……してない」
フレイアの呼吸が止まる。
「……ほんとに?」
「ほんとに」
フレイアは、布団の中で小さく拳を握った。
「よし……!」
「よし、じゃない」
「いいの!」
その声が、昨日の夜より軽い。
軽いのに、芯がある。
蒼真は、その芯を踏まないように言った。
「……起きろ。第二の地獄が来る」
「え、なにそれ」
「朝食と、質問の続き」
「うわ……」
フレイアは布団の中でうなだれた。
「名探偵、どうにかして」
「どうにもならない」
「そこはどうにかして!」
蒼真は淡々と答えた。
「……状況は、突破するしかない」
フレイアは布団から顔だけ出し、きりっとした。
「よし。作戦会議しよ」
蒼真は、その言葉に少しだけ笑いそうになって、咳払いでごまかした。
「……もう、死にたい」
「死ななくていい」
「死にたい……」
蒼真は、布団の端を少しだけめくり、顔を出したフレイアを見た。
目が合う。
フレイアが、昨日と同じように袖をつまむ。
布団の中で。
引っ張らない。
ただ、置く。
「……嫌じゃない?」
蒼真は、間を置いた。
間を置くのは、逃げるためじゃない。
確定させるために、呼吸を整える。
「……嫌じゃない」
フレイアが息を飲む。
「……ほんと?」
「ほんと」
「……じゃあ、私も嫌じゃない」
そこで笑うのが、彼女らしい。
蒼真は、笑い返さない。
笑い返したら、何かが壊れる。
でも、壊れてもいいものがある気もした。
その矛盾が、朝の布団の中にある。
◇
着替え。
これが、第二の地獄だった。
蒼真は父の服を返し、制服に着替えようとして、気づく。
制服は学園にある。
ここにはない。
つまり、昨日の私服で帰るしかない。
フレイアも同じ。
昨日の白赤の部屋着から着替える。
蒼真は廊下に出ようとした。
「ちょっと、待って!」
フレイアの声。
「何だ」
「廊下に出たら、絶対に子どもたちに捕まるから」
「捕まるな」
「捕まるの!」
断言。
「ねえ、作戦会議」
「……作戦」
「そう。名探偵の出番でしょ?」
フレイアは真面目な顔で言う。
蒼真は、一瞬だけ考えた。
事件ではない。
でも、“突破”が必要な状況だ。
「……まず、こちらが冷静に行動する」
「うん」
「次に、子どもたちの注意を別に逸らす」
「どうやって?」
「朝食だ」
「……なるほど」
フレイアが頷く。
頷きながら、顔が赤い。
「……私たち、今、何の作戦会議してるんだろ」
「婚約者の危機管理」
「やめて!」
声が大きい。
「静かにしろ」
「……はい」
◇
作戦は――半分成功した。
居間に出た瞬間、子どもたちが待ち構えていたからだ。
「おはよー!」
「おはよう」
蒼真が淡々と挨拶すると、子どもたちは一瞬だけ警戒した。
大人の冷静さに、子どもは弱い。
そこへ父が皿を置く。
「朝飯だ」
「わー!」
子どもたちは一斉に席へ走った。
注意が逸れた。
蒼真は息を吐く。
フレイアも、ほっとした顔。
しかし、その顔が可愛いせいで、子どもたちはすぐに気づく。
「お姉ちゃん、ニヤニヤしてる!」
「してない!」
「してる!」
蒼真は、食卓につきながら現実を悟った。
子どもは観察が鋭い。
推理に向いている。
向いているが、使い方が最悪だ。
◇
朝食は、パンとスープ。
昨日の豪華さではない。
けれど、温かい。
蒼真がスープを飲むと、素朴な塩味が胃に落ちる。
「蒼真おにいちゃん、昨日のごはん、おいしかった?」
「うまかった」
蒼真が事実を言うと、フレイアがむせた。
「ごほっ……」
「お姉ちゃん、また赤い!」
「ちがうし!」
「ねえ、チューしたの?」
「してない!」
「じゃあ、いつするの?」
「しない!」
否定が速い。
速い否定は、逆に怪しい。
蒼真は黙ってパンをちぎった。
フレイアが蒼真の膝を軽く蹴る。
机の下で。
誰にも見えない場所で。
――助けて。
そう言っているように見えた。
蒼真は、ため息を吐き、淡々と言う。
「俺たちは、学園の同級生だ」
「でも婚約者!」
「仮だ」
「仮の婚約者って何!」
子どもたちが笑う。
父は茶を啜りながら、穏やかに言った。
「若いのはいい」
蒼真は心の中で膝をついた。
父が敵に回った。
◇
食後。
蒼真は荷物をまとめ、玄関で靴を履いた。
フレイアも隣で靴紐を結ぶ。
子どもたちは見送りに出てきて、口を揃えて言う。
「また来てねー!」
「蒼真おにいちゃん、次はチューしてから帰ってね!」
「するか」
蒼真が即答すると、子どもたちは「えー!」と不満そう。
フレイアは耳まで赤い。
父は玄関先で頭を下げた。
「昨日今日は、ありがとう。助かったよ」
「いえ」
「蒼真くん」
父が蒼真を呼ぶ。
声は小さく。
子どもたちに聞こえない距離。
「……フレイアのこと、頼む」
蒼真は頷いた。
「見てます」
約束ではない。
保証でもない。
ただの、事実の確認。
フレイアが、その会話に気づいたらしく、頬を膨らませる。
「なに、二人で内緒話?」
「内緒じゃない」
「絶対内緒じゃん」
蒼真は返さず、外へ出る。
◇
帰り道。
電車と馬車を乗り継ぐ。
車内はそれほど混んでいない。
向かいの席。
……のはずが。
フレイアが当然のように蒼真の隣に座った。
「近いな」
「近い方がいい」
「理由は」
「……昨日、嫌じゃないって言ったから」
蒼真は、視線を窓へ逃がした。
窓の外に流れる景色が、やけに鮮明だ。
手が触れそう。
触れたら、どうなる。
蒼真は一度だけ指を動かし、膝の上で握り直した。
フレイアがそれを見て、笑う。
「蒼真、緊張してる?」
「してない」
「してる」
断言。
蒼真は、反論を諦めた。
馬車に乗り換える時、フレイアが小さく言う。
「……学園、戻るね」
「ああ」
学園。
そこには、日常と事件がある。
そして、他の目がある。
フレイアはそれを思い出している。
蒼真も同じ。
だが。
昨日と今日のことは、消えない。
それが嬉しいのか、怖いのか。
蒼真はまだ言葉にできない。
◇
学園の尖塔が見えた。
城塞のような石造りの壁が、朝の光を受けて白く光る。
校門が近づく。
フレイアが足を止めた。
そして、蒼真の袖をつまむ。
昨日と同じ。
引っ張らない。
ただ、置く。
「……ねえ」
「何だ」
「また、遊びに来て」
声は小さく。
けれど、逃げ道を残さない声。
蒼真は少しだけ考え、答えた。
「……ああ」
短い返事。
それだけで、フレイアは満足そうに笑う。
「よし」
「よし、じゃない」
「いいの」
フレイアは校門の中へ駆けていく――かと思った、その瞬間。
不意に、彼女は立ち止まり、くるりと振り返った。
蒼真が反応する前に、距離が詰まる。
背伸び。
ほんの一瞬。
柔らかな感触が、蒼真の頬に触れた。
軽く。
確かめるように。
世界の音が、また一度だけ消える。
フレイアはすぐに離れた。
顔は真っ赤。
それでも目は逸らさない。
「……不意打ち」
小さく、そう言ってから。
「またね、蒼真」
今度こそ、返事を待たずに校門の中へ駆けていく。
赤と白のスカートが、朝の光を受けて揺れた。
蒼真は、その場に取り残される。
頬に残る、わずかな温度。
遅れて、心臓が強く音を立てた。
――これは、事件じゃない。
そう分かっているのに。
この朝の別れは、どんな魔法よりも厄介だった。
それでも。
校門の向こうで、フレイアが一度だけ振り返り、手を振った気がした。
蒼真は、何も言えないまま、その背中を見送った。
◇




