第52話「朝、誤解は増殖する」(1)
# 第52話「朝、誤解は増殖する」
朝の光は、まだ薄かった。
カーテンの隙間から差し込む白い筋が、部屋の輪郭だけを作っている。
蒼真は目を開けて、最初に理解した。
――近い。
目の前にあるのは、白い布。
その白い布の向こうに、息づかい。
さらに近くで、髪の先が鼻先をくすぐる。
(……状況が理解できない)
蒼真は動こうとして、やめた。
動けば、確実に触れる。
触れれば、目が覚める。
目が覚めれば、何かが起こる。
そして何かが起こると、だいたい取り返しがつかない。
蒼真は、これまでの人生でその規則を学んでいた。
――遅い。
フレイアの腕が、布団の中でさらに締まった。
寝相。
寝相だと理解している。
理解しているのに、背中に伝わる柔らかさと体温が、理解を追い越してくる。
呼吸が、頬に当たった。
熱い。
蒼真は天井に目を向けた。
天井は低い。
逃げ場がない。
(……どうしてこうなる)
昨夜は「ここまでだ」と線を引いた。
線を引いたはずなのに、朝の布団は線を平気で跨いでくる。
蒼真は、音を立てないように息を吐いた。
その時。
ドアが叩かれた。
「フレイアお姉ちゃーん!」
元気すぎる声。
「おはよー!」
蒼真の背筋が凍る。
フレイアが寝ぼけた声で返事をしようとする。
「ん……」
「開けるな」
蒼真が低い声で言うと、フレイアの目がぱちりと開いた。
蒼真の顔。
自分の腕。
布団。
――状況。
理解した瞬間、フレイアの顔が一気に真っ赤になる。
「……っ!」
声にならない声。
しかし、間に合わない。
ノブが回った。
扉が開く。
子どもたちが、勢いよく――
「……あ」
沈黙。
空気が止まる。
蒼真はその間、何も言えなかった。
否定すればするほど怪しい。
黙れば黙るほど確定する。
詰み。
フレイアは布団の中で固まっている。
赤い。
顔も耳も。
子どもたちは、次の瞬間、顔を輝かせた。
「やっぱり一緒に寝てる!」
「婚約者だもんね!」
「こんにゃくしゃー!」
わざと間違えるのが流行っているらしい。
蒼真は、人生で初めて“こんにゃく”に敗北した。
「ちがうから!!」
フレイアがようやく声を出す。
しかし声が大きい。
大きい声は、家全体に届く。
廊下の向こうから、父の声。
「勝手に入るな!」
遅い。
完全に遅い。
父が足音を鳴らしてやってきて、開いた扉の前に立つ。
そして、状況を一度だけ見て。
静かに言った。
「……朝から元気だな」
それだけ。
否定も追及もしない。
ただ、確定させる一言。
子どもたちは一斉に「わーい!」という顔をした。
フレイアは布団の中で呻いた。
「最悪……」
蒼真は天井を見た。
「最悪だな」
◇
その後、子どもたちは父に回収された。
「お姉ちゃんの部屋はノック!」
「はーい!」
返事だけは良い。
父が扉を閉める前に、子どもたちは最後の爆弾を落とす。
「お姉ちゃん、今日もチューするのー?」
「しない!!」
扉が閉まった。
静けさ。
静けさの中で、フレイアが布団にもぐり直す。
……いや、正確には、もぐり直したというより「現実から逃げ込んだ」。
布団を頭まで引き上げ、丸くなっている。
「……もう、死にたい」
「死ななくていい」
「死にたい……」
蒼真は、布団の端を少しだけめくり、顔を出したフレイアを見た。
目が合う。
フレイアは、昨日と同じように袖をつまむ。
布団の中で。
引っ張らない。
ただ、置く。
「……嫌じゃない?」
蒼真は、間を置いた。
間を置くのは、逃げるためじゃない。
確定させるために、呼吸を整える。
「……嫌じゃない」
フレイアが息を飲む。
「……ほんと?」
「ほんと」
「……じゃあ、私も嫌じゃない」
そこで笑うのが、彼女らしい。
蒼真は、笑い返さない。
笑い返したら、何かが壊れる。
でも、壊れてもいいものがある気もした。
その矛盾が、朝の布団の中にある。
フレイアは、布団の縁を指先でいじりながら言った。
「……ねえ、蒼真」
「何だ」
「さっきの、聞こえた?」
「何が」
「『今日もチューするのー?』ってやつ」
「聞こえた」
「……私、あの子たちに『しない!』って言ったけど」
「うん」
「……『しない』って言い方、なんか、変じゃなかった?」
蒼真は、視線を逸らした。
変。
確かに変だった。
否定のはずが、妙に“前提”を含んでいる。
「……今は、しない」
蒼真が淡々と言う。
フレイアの目が大きくなる。
「い、今は……?」
「今は」
「じゃ、じゃあ……いつかは?」
「……未来の話は、簡単にしない」
蒼真の言葉はいつも通りだった。
けれど、フレイアにはそれが“拒絶じゃない”と分かる。
分かってしまうから、頬が赤くなる。
「名探偵って、ずるい」
「何が」
「否定しないで逃げる」
「逃げてない」
「逃げてる」
断言。
そして、布団の中で少しだけ距離を詰める。
蒼真は反射的に身構えた。
フレイアはそれを見て、にやりとする。
「……緊張してる」
「してない」
「してる」
断言返し。
蒼真はため息を吐いた。
「……現場なら、こんなに手強くない」
「私は現場じゃないもん」
「そういう意味じゃない」
「ううん。そういう意味」
フレイアが布団の中で笑う。
笑いながら、急に真面目な声になる。
「……蒼真。昨日のこと、後悔してない?」
昨日。
言葉。
距離。
境界線。




