第51話「夜、同じ屋根の下で」
# 第51話「夜、同じ屋根の下で」
夕方の光は、窓の木枠を斜めに切り取っていた。
畑の向こう、低い丘に沈みかける太陽が橙に滲み、家の中にまで温度を運んでくる。
蒼真は庭先に立ったまま、袖口をつまむ指先を見下ろしていた。
引っ張るほどの力はない。
ただ、そこに置かれているだけ。
――逃げないで。
言葉にされない合図は、言葉よりも強いことがある。
蒼真は何も言わず、袖をつままれている事実だけを受け取った。
背後から、父の声。
「フレイア、もう遅い。今日は泊まっていけ」
当然のような口調で。
押しつけがましくない。
けれど、家庭の決定は時に、学園の規則より強い。
フレイアは一瞬だけ肩を跳ねさせ、それから、わざとらしく明るい声を出した。
「うん、もちろん!」
次に、蒼真へ視線が飛ぶ。
挑発でも、命令でもない。
ただ、問い。
蒼真は、息を吸う。
泊まる。
言葉にした瞬間、距離が一段変わる。
事件現場に踏み込むのとは違う。
生活に触れる。
それは推理より慎重でなければならない。
けれど。
今日一日、ここにいて。
この家の音を聞いて。
この家の匂いを嗅いで。
フレイアの笑い方を、学園とは別の角度から見て。
蒼真は、嫌だと思わなかった。
「……分かりました。お世話になります」
父が、ほっとしたように笑う。
「よし。そう言ってもらえると助かる」
助かる。
その言い方が、蒼真の心の中の警戒線を少しだけ柔らかくした。
泊まらせてもらう。
それは“迷惑をかける”ではなく、“受け入れられる”という意味も含んでいる。
フレイアの指先が、袖から離れた。
代わりに、彼女は小さく息を吐いて、ほとんど聞こえない声で言った。
「……ありがと」
蒼真は返事をしない。
返事をすると、何かを確定させてしまいそうだった。
◇
家の中に戻ると、子どもたちがすでに騒がしい。
「おふろ! おふろ!」
「いちばんはぼく!」
「順番!」
父の声が飛び、子どもたちは「はーい!」と返事だけ大きくして走っていく。
フレイアはそれを見送りながら、肩をすくめた。
「……ほんと、止まらないの」
「止める気がない顔だな」
「だって、元気なのっていいでしょ?」
言い方が、少しだけ誇らしげだ。
蒼真は、その誇らしさの裏にある疲れを数えようとしてやめた。
数えたところで、本人の物語を奪う。
蒼真は奪わない。
フレイアが居間に戻り、棚から布を出す。
「蒼真、着替え……」
言いかけて止まる。
「……あ、そっか。学園の私服しか持ってないよね」
「持ってない」
「うーん……」
フレイアは少し考え、父に声をかける。
「お父さん、蒼真に貸せる服ある?」
「あるにはあるが……」
父が蒼真を見て、目を細める。
「……少し、ぶかぶかだぞ」
「ぶかぶかでいい」
蒼真は即答した。
フレイアは「そっか」と頷き、どこか安心したように笑った。
その笑いが、昼間の勝ち誇った笑いと違う。
小さくて、柔らかい。
蒼真はそれを直視すると危険だと思い、視線を机へ落とした。
◇
風呂場からは、湯気と騒ぎ声が漏れてくる。
「肩までつかって!」
「のぼせるー!」
父の声が混じり、子どもたちの笑いが天井を揺らす。
蒼真は居間の隅で借りた服を受け取り、控えめに頷いた。
父の服は確かに大きい。
袖が少し余り、肩も落ちる。
だが、妙に落ち着く。
制服でも、私服でもない。
この家の“余り”を纏っているような感じがした。
着替えを済ませ、居間に戻ると、フレイアがそこにいた。
……いた。
さっきまでの服装とは違う。
髪を下ろしている。
濡れた髪が肩に落ち、湯気の匂いが一緒に付いてくる。
部屋着は白を基調にした柔らかい布で、赤い紐が胸元を結んでいる。
その結び目が、必要以上に視線を呼ぶ。
小柄な身体。
それなのに、布の張りが輪郭を誤魔化さない。
――昼の赤と白の私服より、隠しているはずなのに、近い。
蒼真は、そこで初めて「視線を逸らす」という行為が遅れる感覚を知った。
「……なに」
フレイアの声。
「見すぎ」
「見てない」
「見てた!」
即断。
蒼真は、今日二度目の“断言”に遭遇し、内心で舌打ちした。
「……確認しただけだ」
「なにを?」
「……無事か」
フレイアが一瞬固まり、次の瞬間、頬が赤くなる。
「なにそれ!」
言いながら、彼女は髪を拭くタオルで蒼真の肩を叩いた。
軽い。
軽いのに、距離が近い。
蒼真は、叩かれた場所より、タオル越しに伝わった体温の方が気になってしまう。
(平穏が遠い)
◇
夜は早かった。
子どもたちは風呂上がりにさらに走り回り、父に捕まって布団へ追い込まれた。
「おやすみ!」
「おやすみー!」
最後の一人が部屋に消えた頃、家の中の音量がすとんと落ちる。
静けさ。
その静けさの中で、火の匂いがほんの少しだけ漂っていた。
竈の残り火。
昼間の食卓の余韻。
蒼真が居間の隅で座っていると、父が湯呑みを二つ置いた。
「茶でも飲むか」
「ありがとうございます」
湯気の立つ茶は、少し苦い。
それが、妙に落ち着く。
フレイアは向かいに座り、足を揃えて膝を抱えた。
いつもの彼女なら、もっと雑に座る。
けれど今は違う。
“良い子”の座り方だ。
父がそれを見て小さく笑い、言った。
「じゃあ、二人はフレイアの部屋で寝るといい。客間はないからな」
「――」
蒼真は湯呑みを持ったまま固まった。
フレイアも、瞬きが止まる。
「……お父さん」
「何だ」
「それ、さらっと言うの」
「さらっと言わないと決まらんだろう」
父は平然としている。
家庭の決定は、時に残酷だ。
蒼真は即座に立ち上がり、言った。
「俺は床でいいです」
父が眉を上げる。
「床?」
「はい。毛布があれば」
フレイアが、すぐに割り込んだ。
「だめ」
即断。
蒼真は、三度目の断言に遭遇した。
「……なぜ」
「怪しまれるでしょ」
「誰に」
「子どもたちに」
フレイアは真顔だった。
「婚約者って言ったのに、別々に寝てたら、絶対、明日から質問増える」
蒼真は、その未来が容易に想像できた。
そして、その未来があまりに現実的であることに気づいた。
「フレイアは賢い」
「賢くない! 普通!」
フレイアは顔を赤くして叫ぶ。
蒼真は、目を逸らした。
普通。
普通の言葉なのに、普通の夜じゃない。
◇
フレイアの部屋は、小さかった。
学園の寮室より狭い。
机と椅子と、棚。
壁には本が数冊。
そして、ベッドが一つ。
それだけ。
蒼真は入った瞬間に「逃げ場がない」と理解した。
フレイアは戸口で振り返り、わざと明るい声を出す。
「……で、床で寝るって言うの?」
「床で寝たい」
「だめ」
四度目の断言。
蒼真はため息を吐いた。
「……分かった」
分かったと言ってしまった瞬間、負けた気がした。
フレイアが満足そうに頷く。
「よし」
よし、じゃない。
蒼真はベッドの端に腰を下ろし、天井を見た。
天井は低い。
近い。
世界が狭い。
フレイアはベッドの反対側に座り、指先で布団の端をいじる。
そして、小さく言った。
「……今日は、ありがとね」
「何の」
「全部」
答えが曖昧で、だから真実味があった。
「話、合わせてくれて」
「合わせてない」
「合わせてたよ」
「……婚約者は、びっくりした」
「ごめん」
即座に謝る。
フレイアの謝り方は、学園で見た謝り方とは違う。
事件の当事者としての謝罪ではない。
ただの、女の子の謝罪。
蒼真は、少しだけ言葉を選んだ。
「驚いた。……でも、嫌じゃない」
言った瞬間。
フレイアの呼吸が止まった。
「……え」
「嫌じゃない」
蒼真は同じ言葉を繰り返した。
繰り返すのは、確定させるため。
フレイアは、布団の端を強く握りしめる。
「……それ、ずるい」
「何が」
「……私だけ、変に意識しちゃう」
声が、弱い。
蒼真は返せなかった。
返せば、さらに一段進んでしまう。
◇
消灯。
部屋は暗くなる。
夜の音が、遠くで鳴る。
子どもたちの寝息。
家がきしむ音。
風。
蒼真は布団の中で仰向けになり、目を開けていた。
隣に、フレイアがいる。
同じ布団。
同じベッド。
距離は、数センチ。
触れていないのに、触れているように感じる距離。
「……蒼真」
暗闇の中で、囁き。
「起きてる?」
「起きてる」
「……そっか」
それだけで、間が生まれる。
フレイアは言葉を探している。
蒼真は、その探し方が怖い。
怖いのに、止めたくない。
「……私さ」
小さな声。
「学園だと、いっつも勢いで喋っちゃうのに……ここだと、変」
「変じゃない」
「変だよ。……心臓、うるさい」
蒼真は、その音を聞きたいと思ってしまった。
思ってしまったことが、すでに危険だった。
次の瞬間。
背中に、柔らかいものが当たった。
フレイアが寝返りを打ったのではない。
意図的に、寄ってきた。
背中越しに、抱きついている。
呼吸が、近い。
胸の重みが、布越しに伝わる。
蒼真の思考が、短くなる。
「……ちょ」
「……だめ?」
フレイアの声が、さらに小さくなる。
蒼真はすぐに否定できなかった。
拒絶したくない。
でも、ここで肯定すると、次の一歩が止まらなくなる。
蒼真は、ゆっくり息を吐いた。
「……今は、ここまでだ」
言葉は静か。
けれど、境界線を引く言葉。
フレイアの腕の力が、少しだけ弱まる。
「……そっか」
寂しそうな声。
だが、怒りはない。
そのことが、蒼真の胸をさらに苦しくした。
「私ね……」
フレイアは、声を震わせる。
「蒼真みたいな人、好き」
直球。
逃げ道がない。
蒼真は、動けなかった。
動けば、何かが壊れる。
動かなければ、何も壊れない。
蒼真は、壊さないほうを選んだ。
拒絶もしない。
肯定もしない。
ただ、そこにいる。
フレイアの腕が、少しだけ戻る。
抱きつくのではなく、触れているだけの距離。
その妥協が、彼女の勇気だ。
蒼真は、その勇気を踏まないように、声を落とした。
「……分かった」
それだけ。
それ以上言えば、彼女を軽くしてしまう。
フレイアは小さく笑い、頬を蒼真の背中に当てた。
「……眠れる?」
「眠れない」
「だよね」
なぜか嬉しそう。
「じゃあ、私も眠れない」
「一緒にするな」
「一緒がいい」
囁くように言い、フレイアの呼吸が少しずつ整っていく。
そのまま、彼女は眠りに落ちた。
蒼真は天井を見たまま、動かない。
眠れるわけがない。
けれど。
背中に残る体温が、嫌じゃない。
嫌じゃないどころか、危険だ。
蒼真は、目を閉じる。
――明日、どんな顔をすればいい。
答えが出ないまま。
夜だけが、静かに進んでいった。
◇




