第47話「翌朝の教室で」(1)
# 第47話「翌朝の教室で」
朝のノクティス魔法学園は、昨日までの騒がしさをそのまま引きずっていた。
マナブルーム祭当日。
石造りの回廊には、夜のうちに増えた飾りがいくつもぶら下がり、薄い霧の中で色だけが浮いて見える。屋台の準備をする職員の声が遠くから響き、いつもなら眠そうに歩く生徒たちも、心なしか足取りが軽い。
蒼井蒼真は、その空気を「騒がしい」と判断しながら歩いていた。
祭りというものが好きか嫌いかで言えば、嫌いではない。
ただ――。
昨夜の出来事が、思考の棚に収まっていない。
頬に残った温度。唐突な接触。逃げるように消えた背中。
いくつも断片が積み上がっているのに、結論がない。
蒼真はそれを、いつもの癖で「未処理案件」として脇に置いていた。
脇に置いたはずなのに、歩くたびに「置いた位置」が目に入ってしまう。
だから、今朝の蒼真は少しだけ、普段よりも無口だった。
教室棟へ向かう階段の前で、数人の女子生徒がひそひそと話している。
「ねえ、昨日のフレイア……」
「うん。なんか……」
「え、まさか……」
蒼真は聞こえなかったふりをした。
聞こえないふりをしても、こういう噂は耳の端を掠める。
掠めるたびに、なぜか頬が熱くなる。
蒼真は自分の頬に手が伸びそうになるのを、強引に止めた。
そのまま教室の扉を開ける。
――瞬間。
空気が、ほんの少し固まった。
数名の視線がこちらへ向き、そして慌てて逸れる。
話し声が一拍遅れて再開する。
蒼真は、その「一拍」を見逃さない。
だが、理由が分からない。
(俺、何かしたか)
昨夜の件を除けば、何も。
除けば。
蒼真はそれ以上考えるのをやめ、いつもの席へ向かった。
窓際の中ほど。隣は空席。
今朝は、フレイアが来るのが少し遅いのかもしれない。
蒼真が鞄を置き、椅子に腰を下ろした瞬間。
扉が勢いよく開いた。
「おはよう!!」
教室の空気が一気に明るくなる。
フレイア・バルディッシュが立っていた。
小柄な体に似合わないほどよく通る声。赤髪が揺れて、昨日の包帯がきちんと巻き直されている。制服のリボンも正しく結ばれていて、いつもより少しだけ「整っている」。
いつも通り元気――のはずが。
蒼真の方へ視線が向いた瞬間、フレイアの動きが一瞬止まった。
それは、本人だけが気づく程度の一瞬。
けれど、蒼真には見えた。
そして、フレイアはすぐに視線を逸らし、何事もなかったように歩き出した。
(……やっぱり、気にしてるのか)
蒼真は内心でため息をついた。
昨夜の出来事を「なかったこと」にできないのは、自分だけではない。
フレイアは教室中央を歩きながら、いつもより余計に声を出す。
「なにその顔、みんな! 祭り当日だぞ! テンション上げてこー!」
「おー……」
返事はまばらだった。
それが逆に、妙に現実味を増した。
蒼真が感じていた「視線の多さ」は、気のせいではない。
フレイアが自分に視線を向け、逸らした。
それを見ていた者がいる。
さらに、それを見ていた者がいる。
蒼真は学園という場所が、推理以前に「観測の集合体」だということを改めて思い知った。
そんな中で、最初に動いたのはセレナだった。
銀髪をきっちりとまとめ、背筋の伸びた姿勢で席を立つ。
教室のざわめきが一段落したところで、セレナはフレイアの前に立った。
「フレイア」
「ん?」
フレイアはいつもの調子で首を傾げた。
セレナは一拍置き、深く頭を下げた。
「先日は……言いすぎましたわ。申し訳ありません」
教室が静まる。
セレナが誰かに謝るのは、珍しい。
しかも、こうして皆の前で。
「私は感情的でした。秩序を口にしておきながら、自分の秩序を崩しました」
言葉が硬い。
だが、それがセレナの誠実さでもあった。
フレイアは目を丸くし、次の瞬間、慌てたように両手を振った。
「えっ、えっ!? いやいや! なに急に!? こっちも悪かったって!」
「……それでも」
「それでもじゃない! ほら、祭り当日だぞ? 朝から重い空気にしたくないし!」
フレイアはセレナの肩を軽く叩こうとして――包帯の巻かれた腕が動き、痛みを思い出したのか、途中で動きを止めた。
それを、セレナが見逃さない。
「……腕。大丈夫ですの?」
「平気平気。これくらい、火傷ってほどじゃない」
「無理をするのは禁物です」
「……はいはい、母親か」
「母親ではありません」
セレナが真顔で返す。
フレイアが吹き出し、教室が少しだけ笑いに包まれる。
硬さがほどけた。
蒼真はそのやり取りを見て、内心で小さく頷いた。
事件の後始末は制度が担い、感情の後始末は当事者が担う。
今、目の前でそれが起きている。
そこへ、ルミエールが席を立った。
金髪が朝の光を受けて淡く輝き、背筋の伸びた姿勢のまま教壇へ向かう。
クラス委員としての顔。
「皆さん、少しだけ時間をください」
その声は柔らかいのに、教室が自然と静まった。
ルミエールは黒板の前で一度呼吸し、視線を全体に巡らせる。
「昨日の件について、クラリス先生から正式な報告を受けました」
その言葉だけで、教室の空気がまた少し締まる。
「結論から言います。フレイアは、今回の件で“責任を負う立場”ではありません」
フレイアが一瞬だけ目を見開く。
クラスの数名が小さく息を呑む。
ルミエールは続ける。
「誰かが意図して状況を作り、結果として事故のように見えた。……ですが、制度として処理されました。ここで個人の憶測で誰かを責めるのは、正しい行為ではありません」
言葉の選び方が、ルミエールらしい。
蒼真の「裁かない」姿勢とは少し違う。
だが、クラス委員として「クラスの秩序」を守る言い方としては、最適だ。
「ですから、マナブルーム祭への参加に問題はありません。フレイアの名誉は守られます。……それが、正式な判断です」
ルミエールは言い切り、教室を見渡した。
誰も反論しない。
何より、フレイア本人が黙っている。
いつもなら「名誉とかいらねえよ!」と言いそうな彼女が。
その沈黙が、彼女の中の変化を示していた。
ルミエールは最後に小さく頭を下げた。
「以上です。……では、祭りを楽しみましょう」
拍手が起こる。
小さく、しかし確かな拍手。
フレイアが照れたように頭を掻き、セレナが安心したように息を吐く。
ルミエールが席へ戻る。
その途中。
ルミエールは、蒼真の方を見た。
そして、ほんの一瞬だけ――。
ウインクをした。
蒼真は一拍遅れて瞬きをする。
(……何の合図だ)
分からない。
分からないが、胸の奥がざわつく。
フレイアの件の余韻があるのに、ここでルミエールがそういう動きをするのは、問題の匂いしかしない。
蒼真が眉をひそめた瞬間、セレナの椅子が静かに引かれた。
セレナが、いつの間にか蒼真の席の横に立っていた。
無駄のない動き。
その視線は、蒼真の頬を一度だけ確認するように滑った。
「おはようございます」
「おはよう」
「昨夜、何かありましたね」
「……何も」
「“何もない”と答える時点で、何かあります」
セレナは淡々と言う。
蒼真は反論しようとしたが、やめた。
反論は無意味だ。
彼女は既に結論に辿り着いている。
セレナは視線だけでフレイアの方を見る。
フレイアは友人に話しかけられて笑っているが、蒼真の方をちらりと見て、すぐに顔を逸らした。
「なるほど」
セレナが小さく頷く。
「火属性らしいですね」
「何がだ」
「勢いと逃走です」
「……言い方」
「事実です」
セレナは席に戻ろうとして、ふっと足を止めた。
「本日、教室内の気圧は不安定になります」
「気圧?」
「比喩です」
比喩にしては妙に的確だった。




