第46話「夜の寮前で」
# 第46話「夜の寮前で」
夜のノクティス魔法学園は、昼間とは別の顔をしていた。
石畳の通路は月光を淡く跳ね返し、昼に飾られたリボンや小旗が、風に揺れて小さく擦れる音だけが残る。遠くの校舎からは、片付けを終えた生徒たちの笑い声が、角を曲がるたび薄まっていった。
昼の賑わいが「祭りの前触れ」だとすれば、今は「祭りの手前の静けさ」だ。高揚が消えたわけではない。むしろ、明日を待つ気配が、石壁の隙間や寮の窓の灯りの奥に、薄く溜まっている。
蒼井蒼真は、その静けさの中を歩いていた。
隣を歩くのはフレイア・バルディッシュ。昼間までの勢いの良さが嘘みたいに、歩幅が控えめで、足音も小さい。小柄な体つきでありながら、無駄のない線を描くようなスタイルをしていて、歩くたびに重心の低さと鍛えられた身体のしなやかさが分かる。制服の上からでも分かるほど胸元は豊かで、走ったり怒鳴ったりする彼女の印象とは違って、静かに並ぶと妙に目を引いた。右腕には白い包帯が巻かれている。痛みがないわけではないだろうに、顔にはそれを見せない。
蒼真は、あえて何も言わなかった。
ここ数日の彼女は、火のように燃え上がっては、燃えた分だけ自分に返ってきて、また立ち上がる――そんな忙しさの中にいた。今は、ようやく火が静まって、炭のぬくもりだけが残っている。
その余韻を壊したくなかった。
……とはいえ、黙って歩くのも、蒼真の得意技ではない。
得意というより、癖だ。
相手が話したくなるまで待つ。待っている間に、相手の歩幅や呼吸や、視線の揺れを観察する。沈黙を埋めようとしない。
それが、今夜は妙に「逃げ」に見えた。
「……静かだね」
ふいにフレイアが言った。
「昼間は、あれだけ騒がしかったのに」
「祭りの前って、だいたいこんな感じだ」
蒼真が答えると、フレイアは口を尖らせた。
「なにそれ。知ったような顔」
「知ってるわけじゃない。ただ、準備が終わったら静かになる。どこも同じだろ」
「……そういうところ。ほんとに、つまんない男子」
文句を言う声音は、昼間の突っかかるものではなく、どこか甘えが混じっていた。
蒼真は肩をすくめる。
「つまんないなら、戻るか?」
「戻らない!」
即答だった。
フレイアは、自分で言い切ってから、少し慌てたように咳払いをした。
「……えっと。そういう意味じゃなくて。ほら、今日は、その……」
「今日は?」
「今日は……」
言葉が続かない。
蒼真は、足を止めずに歩き続ける。止まってしまえば、彼女は余計に言えなくなる気がした。
寮の灯りが見えてきた。石造りの壁に沿って並ぶ小さな魔灯が、黄色く揺れている。入口には、祭りの飾り付けの名残がひとつだけ残っていて、風に触れるたびに、控えめに鳴った。
その音が、間を埋める。
フレイアは、しばらく黙って歩いていた。
蒼真は、彼女の視線が何度か自分に向くのを感じた。
視線が来て、逃げて、また来て、逃げる。
火の魔法より扱いにくい。
「……蒼真」
やっと、彼女が名を呼んだ。
「なに」
「……その、さ」
フレイアは指先で包帯の端をいじった。癖のように、何かを確かめる仕草。
その指先が、何度か宙を彷徨って――蒼真の袖のあたりに寄っては、引っ込む。
手を伸ばしたいのに伸ばせない、みたいな挙動だった。
蒼真は気づかないふりをした。気づいたと告げた瞬間、彼女の炎は逆向きに噴き出してしまう。
「ほんと……ありがとうね」
言い方が、いつものフレイアではない。
「ありがとな!」と肩を叩いて終わりにするような勢いがない。
蒼真は、相槌を打つように「うん」とだけ返した。
「……うん、じゃない」
「じゃあ、なんだ」
「もっとこう……ほら。『任せろ』とか」
「言わない」
「……つまんない!」
すかさず二回目。
蒼真は内心で数えた。
つまんない、二回。
明日の教室で三回目が来ると、たぶん何かが起こる。
根拠はない。
ただの経験則だ。
フレイアはそこで終わらなかった。
「蒼真がいなかったら、私……」
言葉が止まる。
続きが出ないのではなく、出さない。
蒼真はその「止め方」を見た。
自分でブレーキを踏んでいる。
彼女の中で、何かがちゃんと変わっている。
だから、蒼真は短く言った。
「気にするな」
「……それだけ?」
「それだけで十分だろ」
「……ちぇ」
フレイアは頬を膨らませた。
その顔が、妙に子どもっぽくて、蒼真は一瞬だけ笑いそうになる。
「なに。笑った?」
「笑ってない」
「笑ったでしょ。目が笑ってた!」
「目が笑うって、どういう理屈だ」
「理屈の話じゃないの! そういうのは雰囲気!」
「雰囲気で言い負かすな」
「言い負かされるほうが悪い!」
フレイアの声が少しだけいつもの調子に戻る。
蒼真はその変化に、胸の奥が軽くなるのを感じた。
事件が終わった。
制度に渡した。
それだけで十分だと思っていたが、こうして本人が前を向いて歩く姿を見ると、別の意味で「終わった」と思えた。
――なのに。
自分の頬の筋肉が、勝手に緩みそうになるのは、どういう現象だ。
「……でもさ」
フレイアがまた声を落とす。
「蒼真って、ほんとに変だよね」
「突然悪口か」
「違うって。悪口じゃなくて……」
彼女は少し考える。
「英雄っぽいことしたのに、英雄っぽくない」
「英雄じゃない」
「それそれ! すぐ否定する!」
フレイアは指を突きつけてくる。
「普通さ、もっと『俺が守った』とか言いそうじゃない?」
「言わない」
「言いそうなのに!」
「言わない」
「……つまんない!」
三回目。
蒼真は、やはり、とだけ思った。
この手の経験則は、当たる。
ただ、今度の「つまんない」は、拗ねた砂糖の味がした。
「できることをやっただけだ」
蒼真が淡々と返すと、フレイアは一瞬、唇を結んだ。
そして、少しだけ笑う。
「……そういうところが、ずるい」
「ずるい?」
「ずるい。だって、特別じゃない顔して、特別なことするんだもん」
蒼真は言葉を探した。
特別なことをしたつもりはない。
ただ、止めなければならないと思った。
その場にいて、見えてしまった。
見えたものを、見なかったことにできなかった。
それだけだ。
「特別じゃない。見えたから止めただけだ」
「……それが特別って言うの!」
フレイアはふっと息を吐いて、夜空を見上げた。
雲が薄く流れて、月がはっきりと見える。
彼女の吐息が白く滲んだ。
「ねえ、マナブルーム祭の花火って、見たことある?」
「ない」
「だよね。あれ、すっごい派手なんだよ」
彼女は両手を広げて、見えない花火の形を作る。
「こう……ドーンって上がって、火の花がパァーって広がって、音が胸に来て――」
「説明が全部擬音だな」
「擬音で伝わるでしょ!」
「伝わらない」
「伝わってよ!」
怒るふりをして、すぐに笑う。
その笑い方に、蒼真は昼間の教室を思い出した。
派手で、強くて、前へ出る。
それが彼女の「役割」だった。
だが、今日のフレイアは、役割の外に立っている。
……立とうとしている。
「私、派手なのが好きでさ」
フレイアが言った。
「目立つのって……得意な役目だと思ってた。私が前に出れば、みんなが安心するって」
その声は、夜の空気に溶けるほど静かだった。
「でも今回、気づいた」
彼女は、包帯を巻いた腕をちらりと見る。
「目立つって、危ない。主役って、責任がある。派手なだけじゃ……足りないんだって」
蒼真は頷いた。
ここで「偉い」とか「成長した」とか、そういう言葉は不要だ。
言葉にすれば、彼女の努力が軽くなる。
それより――。
「足りないって思えたなら、もう足りない側じゃない」
蒼真がそう言うと、フレイアは一瞬だけ目を丸くした。
「……なにそれ。今の、ちょっとカッコいい」
「気のせいだ」
「気のせいじゃない! 言ったよね!? 言ったよね今!」
「言った」
「ほら! 認めた!」
勝った、とでも言いたげに、フレイアは胸を張った。
そして、すぐに咳払いをして、視線を逸らす。
張り切りすぎると恥ずかしくなるらしい。
「派手なのは悪くない」
蒼真は言う。
「ただ、派手なものほど、土台が必要だ」
フレイアは目を瞬かせた。
「……土台」
「立ってる場所が揺れたら、派手に見えるものから崩れる。だから、支えるものがいる」
「……それって」
フレイアは言いかけて、口を閉じた。
言おうとしたのは、たぶん「エリナのこと」だろう。
蒼真は、そこに触れない。
事件の話に戻したくない。
今夜は、ただの夜にしたかった。
フレイアは小さく笑った。
「……蒼真、ほんと、言い方がずるい」
「またそれか」
「だってさ、褒めてるのに褒めてない顔するじゃん」
「褒めてない」
「褒めてるよ!」
「褒めてない」
「……もー!」
フレイアは拳を握って、蒼真の肩を軽く叩いた。
痛くない。
ただ、近い。
蒼真は一歩だけ距離を取ろうとして、やめた。
距離を取れば、彼女はまた余計なことを考える。
今の彼女が必要としているのは、守られる距離ではなく、隣にいる距離だ。
……と、理屈では分かる。
分かるが、袖に何かが当たる感触があって、蒼真は反射的に視線を落とした。
フレイアの指先が、蒼真の袖を摘んでいる。
つまむというより、引っかける。
離れないようにする、みたいな。
蒼真は口を開きかけて、閉じた。
指摘するのは、野暮だ。
フレイアは、摘んでいることを自覚した瞬間、慌てて手を引っ込めた。
「い、今のは違うから!」
「何が」
「……その、ほら。袖、ずれてたから!」
「ずれてない」
「ずれてたの!」
「俺の袖が?」
「……うるさい!」
フレイアはぷい、と顔を背けた。
蒼真は肩を揺らした。
「笑った!」
「笑ってない」
「笑ってる! 今、絶対笑ってた!」
言い合いながら、寮の入口が近づく。
正面扉の前には、帰寮の名残で数人の生徒が立っていた。
女子寮フロアへ上がる階段の方からは、誰かがひそひそ話をしている気配がしたが、こちらに気づくと、露骨に話題を変えて去っていった。
蒼真は、見なかったことにした。
今夜は、ただの夜にする。
残ったのは、蒼真とフレイアだけ。
フレイアは扉の前で立ち止まった。
蒼真も、つられて止まる。
「……じゃあ」
蒼真が言うと、フレイアは首を振った。
「待って」
「なに」
「……ねえ、蒼真」
フレイアは、ほんの少しだけ視線を落とした。
普段、誰よりも前を見て走る女が、今だけは、靴先を見ている。
蒼真は黙って待った。
フレイアは、息を吸って、吐いて――。
「……ほんとに、ありがとう」
昼間より、さっきより、もう一段だけ素直な声。
「私は、派手に見えるところだけで戦ってた。見えるところで勝てばいいって思ってた。でも……それじゃダメだった」
言い切ると、彼女は急に顔を上げた。
目が合う。
距離が近い。
蒼真が「うん」と言おうとした、その瞬間。
フレイアが一歩踏み込んだ。
迷いが一瞬だけ見えて、すぐに消える。
次の瞬間、頬に柔らかいものが触れた。
温度だけが残る。
「……じゃ、また明日!」
フレイアは言い捨てるように叫んで、寮の中へ駆け込んだ。
扉が閉まる。
蒼真は、その場に立ち尽くした。
頬に手を当てる。
熱い。
何が起きたのか、理解が追いつかない。
「……え?」
声が漏れた。
夜風が吹く。
飾りのリボンが揺れ、かすかに擦れる音がした。
蒼真は、しばらくその音を聞いていた。
そして、ようやく歩き出そうとした。
――が。
「……あ」
寮の影から、ひょいと顔が出た。
黒髪に眼鏡。月明かりでも分かる落ち着いた輪郭。
九条リリアだった。
蒼真は反射的に「いつからいた」と言いそうになって、言葉を飲み込んだ。
リリアは淡々とした顔のまま、ゆっくり拍手をした。
「おめでとうございます」
「……何がだ」
「理解が遅いところも含めて、蒼真は蒼真ですね」
「違う。今のは……」
「今のは、頬への接触でした」
「表現が冷たい」
リリアは眼鏡を押し上げる。
「私は、たまたま寮の扉を閉めに来ただけです。偶然、目撃しただけです」
「偶然にしては拍手が的確だ」
「拍手は、反射です」
淡々としたまま、少しだけ口角が上がる。
その瞬間、蒼真は嫌な予感がした。
「……明日、教室で何か起こる気がする」
「起こりますね」
リリアは即答した。
「あなたが気づいていないだけで、すでに始まっています」
「……何が」
「祭りです」
リリアは涼しい顔でそう言い、くるりと踵を返して寮へ入っていった。
……と思いきや、扉の前で一度だけ振り返る。
「蒼真」
「なに」
「頬、赤いです」
「……赤くない」
「赤いです」
「鏡がない」
「私が鏡です」
言い切って、リリアは今度こそ中へ入った。
扉が閉まる。
蒼真は、再び一人になった。
頬の熱はまだ残っている。
夜の空気は冷たい。
遠くから、祭りの準備をする金具の音が、微かに聞こえた。
蒼真は息を吐き、空を見上げた。
月が、さっきより少しだけ明るく見えた。
――翌朝。
教室で何が起きるのか。
蒼真は、その「予感」だけを胸に、静かに自分の寮へ向かった。
◇
一方、寮の奥。
フレイアは部屋の扉を閉めた瞬間、背中を預けてずるずると床に座り込んだ。
顔が熱い。
耳まで熱い。
「……勢い、やりすぎた……?」
呟いて、両手で顔を覆う。
ベッドの上に飛び込みたいのに、脚に力が入らない。
胸の奥が、やけにうるさい。
だが、そのうるささが嫌ではなかった。
フレイアは、覆っていた手の隙間から天井を見上げる。
そして、小さく笑った。
「……後悔は……してない」
声は、布の向こうで少しだけ震えた。
今夜の自分は、派手だっただろうか。
派手、というより――。
怖かった。
言葉より先に身体が動いた。
逃げるみたいに走った。
なのに、頬に触れた瞬間の蒼真の顔が、やけに真剣で、やけに間抜けで、思い出すだけで胸がうるさくなる。
「……明日、どうしよ」
呟いて、枕に顔をうずめる。
そのまま、もごもごと声だけが漏れた。
「……でも……明日、楽しみかも」
夜はまだ続く。
けれど、明日が来るのが、少しだけ楽しみだった。




