第42話 同じ教室にいた風(1)
# 第42話 同じ教室にいた風
放課後の教室は、昼間とは別の顔をしていた。
授業の終わりを告げる鐘が鳴ってから、しばらく経っている。だが、この教室だけは「解散」の気配が薄い。机の間を行き来する足音が残っているし、黒板の端には消し忘れた術式の図形が薄く白く残り、誰かがそれを見ては小さく首を傾げていた。
午前の爆ぜた音は、きれいに片づけられたはずなのに、空気の奥にまだ残っている。粉塵の匂い。乾いた破片の手触り。机の脚に残った細かな傷――目に入ってしまえば、もう“なかったこと”にはできない。
そして何より、同じ教室にいる全員が、同じものを見たのに、見たものの意味が一致していない。
そのズレが、薄い膜になって漂っていた。
日が傾き、窓の外の空が橙色から群青へ移り変わっていく。光は斜めに差し込み、机の脚や椅子の背の影を長く引き延ばす。朝の賑やかさはもうない。代わりに、祭りの準備に追われる小さな足音と、紙を擦る音と、木箱の蓋を押さえる音が、間欠的に響いていた。
Mana Bloom――マナブルーム祭。
学園の空気は、確かにそれへ向かって咲こうとしている。だが咲きかけの花は、触れられた途端に傷つく。今日の“事故”は、その傷の形を残した。
教室の机の配置は少し乱れていた。装飾の布を広げるために机を寄せたらしく、通路がいつもより狭い。黒板の脇には、当番表の紙が貼られ、誰かが炭筆で担当を追記している。
蒼井蒼真とフレイア・バルディッシュが教室へ戻ってきたのは、職員室からの帰り道だった。
廊下を歩く間、蒼真は意図して雑談を挟まなかった。何か言えば、フレイアはそれを「慰めの言葉」に変換してしまう。慰めは、今は危うい。慰めは人を支える一方で、事実を曇らせることがある。
フレイアもまた、口数が少なかった。普段の彼女なら、歩幅も大きく、先に前へ出ていく。だが今日は、蒼真の半歩後ろを歩いていた。自分の影を踏まないように、慎重に。
その慎重さが、彼女の心の傷の形を示していた。
扉を開けた瞬間、いくつかの視線が二人へ向いた。
視線の種類は一つではない。
心配。
好奇。
同情。
そして、距離を取るための警戒。
同じクラスの仲間であっても、事故の直後というのは“扱い方”が分からなくなる。声をかけるのが正解なのか、触れないのが正解なのか。その迷いが、視線の濃淡になって現れる。
フレイアは、その濃淡をまともに受け止めてしまうタイプだった。
すぐに逸れる視線。
声をかけようとして、引っ込めた唇。
踏み込めない空気が、教室の中に薄い膜のように張っていた。
フレイアは、何も言わなかった。傷口を覆う包帯の端を、無意識に指でなぞっている。その仕草が、彼女の中の不安の位置を教えていた。
包帯の白は、普段の彼女には似合わない。
彼女は赤だ。炎だ。熱だ。
白は、鎮火の色に見える。
――鎮火させられた、と。
そんなふうに自分で自分を見てしまう。
フレイアは強い。だからこそ、弱った自分を許せない。
蒼真はその心理を、言葉ではなく表情の硬さで読み取った。
蒼真は、教室の空気を眺める。
責める声はない。
だが、責めない沈黙はある。
沈黙は便利だ。誰も悪者にならない。けれど、便利なものほど誰かを一人にする。
蒼真は、席へ向かうふりをして、フレイアと一緒に教室の中央まで歩いた。
窓際へ行けば、ルミエールとセレナがいる。いつもならその二人が、状況を整理してくれるだろう。
だが今日は、違う。
ルミエールは怪我をした。本人は軽いと言っても、周囲は過剰に気を遣う。
セレナは正しさで切る。今のフレイアには、それが刃になる。
だから蒼真は、あえて中途半端な位置――誰とも距離が近すぎない場所に立った。
ここは、教室の中心。
中心に立つと、矢印が自分へ集まる。
その矢印を蒼真が受けることで、フレイアの矢印を少しでも減らせる。
そこで、フレイアがぽつりと呟いた。
「……みんな、私のこと、見てる」
フレイアは声を出した瞬間、すぐ後悔したように肩をすくめた。言葉にしたら、もっと視線が集まる。集まったら、また息ができなくなる。
それが分かっているのに、言ってしまう。
言ってしまうくらい、苦しい。
声は小さい。怒りではなく、怯えに近い。
蒼真は頷いた。
「見てる。……けど、今はまだ、言葉になってない」
「言葉になったら……もっと、ひどくなるの?」
フレイアは笑おうとして、笑えなかった。
蒼真は答えを急がない。
「言葉になる前に、やることがある」
蒼真はそう言いながら、教室の端に置かれた小さな木箱をちらりと見た。午前中、破片を集めて入れていた箱だ。蓋はされているが、角に“ガラス”と注意書きがある。
誰かがそれを見て、目を逸らした。
事故は、記憶の中に残っている。
残ったまま、次へ進もうとしている。
進むためには、残ったものに名前をつけなければならない。
「やること……」
フレイアが繰り返す。
蒼真は、職員室で聞いた名前を心の中で転がした。
エリナ・フェルム。
この教室のどこかに、確かに存在する名前。
蒼真は、教室の後方の席を思い浮かべる。誰がどこに座っているかを、彼は意識して記憶していたわけではない。だが“事件のあと”は、配置が意味を持つ。
午前中、エリナは――どこにいた?
その問いが、胸の内で静かに形を取る。
生徒の――エリナ・フェルム。
その名前を、ここでいきなり口に出すのは簡単だ。だが簡単な言葉は簡単に刺さる。刺さった瞬間、相手は防御を始める。
蒼真は、まずフレイアの呼吸を見た。
少し早い。けれど、階段下ほど乱れてはいない。
今なら、聞ける。
「……さっき先生が言ってた」
蒼真は声の高さを落とし、周囲に聞こえないように言う。
「フラスコを用意した生徒のこと。……フレイア、知ってるか」
フレイアの肩が、ほんの少しだけ跳ねた。
それは驚きではない。
名前を知っている者の反応だ。
フレイアは、視線を床へ落とし、唇を噛んだ。
「……エリナ・フェルムですわ」
フレイアが名を告げた瞬間、蒼真の内側で一段、空気が冷える。
遠い犯人像が、近い人影になる。
そして“近い”という事実は、単純に怖い。
近いほど、人は事情を知っている。
近いほど、人はタイミングを選べる。
近いほど、人は――こちらの弱さを知っている。
出てきた名前は、蒼真の中で重さを増した。
同じ学園の誰か。
それだけならまだ遠い。
けれど、フレイアは続けた。
「同じクラスの……」
蒼真は、息を止めそうになるのをこらえた。
同じ教室。
同じ時間。
同じ机の列。
今日の破裂を、同じ空気の中で吸った人間。
“犯人かもしれない誰か”が、いつもと同じ席に座っていた可能性。
それは事件を遠くから近くへ引き寄せる。
フレイアもそれを理解しているのだろう。彼女は、声をさらに小さくした。
「……変な噂とか、悪い話は聞きません。前に出るタイプじゃないし……真面目で、準備も丁寧で……」
フレイアは、言いながら自分を納得させようとしているようだった。
“悪い子じゃない”。
その言葉は、同時に“悪い子であってほしい”という祈りになる。
悪い子なら、自分が傷ついても正当化できる。
悪い子なら、責めてもいい。
でも相手が悪い子じゃないなら――自分は何をどうすればいい?
フレイアの目が、その問いで揺れる。
蒼真は、教室の後ろの方へ目を向けた。
黒板の近くとは違う、薄暗い領域。
背の高い棚が並び、紙束や古い触媒箱が積まれている。教室は城の一部みたいに頑丈で、夕方になると壁が影を深くする。
その影の中に、人が一人いるだけで、気配はよく目立つ。
――今は、まだはっきりとは見えない。
だが、誰かがいる。
そんな予感だけがあった。
いつもなら、あの辺りで紙束を抱えて動き回っている生徒がいるはずだ。
だが今は、人が少ない。
空席が目立つ。
当番でいない者。装飾係で別室に行った者。医務室へ行った者。
そして――「戻りたくない者」。
蒼真は、フレイアの言葉を途切れさせない。
「エリナは、どんな魔法が得意なんだ」
フレイアは一瞬だけ、答えるか迷った。
その迷いは、彼女が“この話題を嫌っている”というより、“自分が悪者になりたくない”という恐れに見えた。
「……風魔法だわ」
フレイアはその言葉を言った瞬間、わずかに唇を引き結んだ。
自分が口にした魔法の属性が、これからの会話をどこへ連れていくか――それを分かっている顔。
蒼真は、頷くだけで先へ進まない。
ここで“可能性”を並べたら、会話は推理ごっこになる。
推理ごっこは、今は早い。
今必要なのは、相手の言葉だ。
事実と感情だ。
その言葉は、軽い。
火のように熱を持たない。
光のように眩しくない。
だからこそ、聞き流されやすい。
けれど蒼真の中で、その軽さが引っかかった。
風。
目に見えない。
触れられない。
でも、確かに存在して、確かに物を動かす。
――だからこそ、誰も疑わない。
蒼真は、表情を変えずに頷く。
「風、か」
フレイアは、さらに言いにくそうに続けた。
「……実は……私」
言葉が止まる。




