第41話 緑の名を伏せたまま(2)
フレイアが、きょとんとした。
「……知ってるって……」
「毎日、放課後。夜遅くまで」
蒼真は淡々と言う。
「手が火傷するくらい、炎を触ってた」
フレイアの頬が、泣き腫らした赤とは別の色で、ほんの少しだけ染まった。
「……なに、それ。見てたの?」
声に、恥と怒りと、少しの甘さが混ざる。
蒼真は一拍だけ置いた。
「……廊下を通ると、光って見えるんだ。炎って」
蒼真は言いながら、ふと、彼女が一人で練習していた場所を思い出す。
実技棟の端。
人の少ない時間。
ガラス越しに揺れる赤い光。
誰かに見せるためじゃなく、自分が納得するために、何度も何度も形を整えていた。
派手さは、結果でしかない。
その前に、途方もない反復がある。
フレイアがそれをしてきたことを、蒼真は知っている。
だからこそ、今日の一瞬の破裂を「調子に乗った」の一言で片づけてほしくなかった。
嘘ではない。見たのは事実だ。ただ、見え方の核心は伏せる。
フレイアは、鼻を啜りながら、目を伏せた。
「……変なの。覗きじゃないでしょうね」
「覗きじゃない」
蒼真が即答すると、フレイアはふっと笑いそうになって、笑いきれずにまた涙が落ちた。
「……マナブルーム祭、成功させたかったの」
フレイアは視線を落とし、声を細くする。
「ねえ、蒼真……あなたは、分かんないかもしれないけど」
自嘲するような言い方。
「私は、ここで“強い”って見せないと、すぐに置いてかれるの。炎の家系だとか、火が得意だとか、周りは勝手に期待して……期待した分だけ、失敗したら“がっかり”する」
言葉が震える。
「私は、がっかりされたくない。……怖いの」
蒼真は答えない。
答えようとした瞬間、言葉が薄くなるのが分かる。
怖い、という感情に、他人の言葉は基本的に届かない。
届くのは、同じ場所にいるという事実だけだ。
フレイアは膝を抱え直し、声を細くする。
「派手に、綺麗に……“見せる”って決めてたの」
「見せる?」
「私、炎しかないから」
言い方が、子どもみたいに直球だった。
「炎が綺麗なら、私がここにいていいって……そう思えるでしょ」
蒼真は、胸の奥が少しだけ痛んだ。
努力は、時にその人の居場所そのものになる。だからこそ、崩れたときに“自分が崩れる”。
「……でも、このままじゃ無理かも」
フレイアが呟く。
「みんなの目が……」
蒼真は、ゆっくり首を振った。
「大丈夫」
断言は、時に軽い。
それでも今は、軽さが必要だった。
「きっと成功させよう」
フレイアが目を見開く。
「……ほんとに?」
「協力する」
蒼真は、言葉に責任を持たせるように、少しだけ強く言った。
彼の協力は、魔法ではない。
考えること。
見落とされるものを拾うこと。
そして、誰かのせいにされそうな空気に、ブレーキをかけること。
蒼真は言い切った。
ただし、続けて、言葉の刃を自分の側へ向ける。
「けど……まずは、この“事故”だ」
フレイアは息を呑んだ。
「事故……」
その言い方に、蒼真が何かを含ませたことだけは、彼女にも分かった。
「……先生に、言うの?」
「言う」
蒼真は短く答えた。
「ただし、決めつけない。確認するだけだ」
フレイアは、しばらく唇を噛んでいたが、やがて小さく頷いた。
「……わかった」
立ち上がるとき、フレイアの膝が少し震えた。
蒼真は手を差し出さない。差し出せば支配になる。彼女の足で立たせる。
その代わり、歩く速度を合わせた。
階段を上がり、廊下を抜け、職員室へ向かう。
歩き出したフレイアは、最初は少し速かった。逃げたいのか、急いで終わらせたいのか分からない。
蒼真は一歩遅れてついていく。
追い越さない。並ばない。彼女の速度が彼女のものだと、身体で伝える。
廊下の窓からは、中庭の装飾が見えた。花の紋章を模した布が張られ、魔法灯の列が仮設されている。Mana Bloom――名前の通り、魔力が咲く祭り。
笑い声が弾けるほど、フレイアの足取りは重くなる。
同じ学園の日常が、同じ速度で進んでいる。
その当たり前が、今は彼女を置き去りにしていく。
途中、祭りの準備で忙しく動く生徒たちとすれ違った。
「お疲れさま!」
明るい声。
言った本人は、ただの挨拶のつもりだったのだろう。けれど、その声はフレイアの背中にぶつかって、跳ね返った。
誰かがフレイアに声をかけかけて、途中で止めた。
止めた理由は優しさかもしれない。
しかし、優しさの沈黙は、ときどき最も鋭い。
誰かがフレイアに声をかけかけて、途中で止めた。
フレイアは小さく肩をすくめ、何も返さない。
蒼真は、視線だけでその生徒を制した。制したというより、“今は触れるな”という空気を作った。
職員室の扉の前で、蒼真は一度だけ深呼吸した。
教師たちは忙しい。
祭り前で、学園全体がいつも以上に慌ただしい。
“事故”をわざわざ“問題”として持ち込めば、嫌われる。
だが、嫌われることより、放置されることの方が致命的だ。
問題は、放置されると次はもっと大きくなる。
蒼真はそれを、いくつも見てきた。
この世界でも、同じだ。
ここから先は、感情ではなく手順だ。
ノック。
「失礼します」
扉を開けると、紙とインクと、魔法灯の微かな熱の匂いが混ざった空気が流れ出てきた。
机が並び、教師たちがそれぞれの仕事をしている。視線がいくつかこちらへ向く。
紙束の山。
インク瓶。
魔法灯の青白い光。
どの教師も、手は動かしながらも目だけは鋭い。職員室は、教室とは違う緊張がある。ここでは、言葉がそのまま“処理”に変わる。
フレイアは、その空気に肩を強張らせた。
蒼真は迷わず、クラリス先生の机へ向かった。
クラリス先生は書類から顔を上げ、蒼真とフレイアを見て、眉をわずかに動かした。
「……フレイア。傷はどうだ」
「大丈夫です」
フレイアは背筋を伸ばして答える。泣いた痕は残っているのに、声は努めて真っ直ぐだ。
クラリス先生は頷いた。
「気にするな。授業中の事故だ」
クラリス先生の声は落ち着いていて、慰めの形をしている。
同時に、それは“ここで終わらせる”ための言葉でもある。
終わらせることは、たいてい正しい。
だが、正しい終わらせ方と、都合のいい終わらせ方は似ている。
蒼真は、その境界を見誤らないように、心の中で線を引いた。
その言葉は、優しさの形をしている。
けれど蒼真は知っている。
“事故”という言葉は、現場を終わらせるための言葉だ。
クラリス先生は机の脇を指さした。
そこには、小さな木箱が置かれていた。蓋は外され、
中には布が敷かれている。破片で指を切らないための配慮だろう。
破裂の残骸は、教室の床で見たときより“物”になっていた。物になれば、怖さは少し薄まる。
しかし、物になった瞬間に、別の怖さが生まれる。
――誰かがこれを触り、運び、ここへ置いた。
その手順の中に、何が混ざったか。
蒼真は、そう考える自分の癖を、いったん棚に上げる。ここではまだ言わない。言えば、話が早く終わってしまう。
・破片になったフラスコの残骸
・掃除で集められたガラス片
・そして――同型の、まだ割れていないフラスコ
が並んでいる。
蒼真は、割れていないフラスコへ目を向けた。
透明。
見た目には、ただのガラス容器だ。
クラリス先生は続ける。
「今後、密封容器の扱いはさらに厳格にする。祭りの前に、いい教訓になったと思え」
“教訓”。
それは誰に向けた言葉なのか。
クラス全体か。
教師側か。
それとも――フレイア個人か。
フレイアは胸の前で指を握り、視線を落とした。
彼女は、叱られているわけではないのに、叱られたときの顔をしていた。
教訓。
蒼真は、その言葉を否定しない。
否定しないまま、別の角度から切り込む。
「クラリス先生」
「何だ」
「確認したいことがあります」
蒼真は、礼を欠かさない。ここで感情をぶつければ、扉は閉じる。
「このフラスコは……誰が用意したのですか」
クラリス先生の目が、少しだけ鋭くなる。
「……用意した者?」
「はい。器具の手配です。誰の持ち物で、誰が管理していたのか」
クラリス先生は一拍置き、机の引き出しからメモを取り出した。
「……実習用の器具は、まとめて管理している。だが、今回のフラスコは――」
彼女はメモの名前を確認し、言った。
「生徒の……エリナ・フェルムだ」
名前が出た瞬間、フレイアのまばたきが一度止まった。
知っている。
ただ、今ここでそれを言うかどうか迷っている。
蒼真はその迷いを見て、質問を急がない。急かさない。人は追い詰められると、言うべきことまで隠す。
蒼真はその名前を頭に刻む。
フレイアが小さく眉を動かした。
クラリス先生は続ける。
「彼女には、実習用の器具の手配を一部任せていた。繊細で、手順を守るタイプだ。雑なことはしない」
つまり、信用されている。
「……ただ」
クラリス先生が言葉を繋ぐ。
「本来は、ゴム栓をする指示は出していなかった。密封は刻印で十分だ。あの形にしたのは……こちらの確認不足だろう」
蒼真は、頷く。
「なるほど」
指示がない。
それは、余地があるということだ。
蒼真は、割れていないフラスコを見つめながら言う。
「フラスコの中に……何かを詰めた可能性がありますね」
クラリス先生の眉がわずかに寄った。
「詰めた?」
「はい。もし内部に異物があれば、魔法の展開が不安定になる」
蒼真は言い切らない。
“断定”は、教師に最も嫌われる。
フレイアが、恐る恐る口を挟んだ。
「……魔法を活性化させる何か、ですか?」
フレイアの問いは、震えていた。
彼女は“魔法のせい”にしたいのではない。
むしろ逆だ。
魔法のせいにできなければ、自分のせいになる。
だから、魔法のせいにできる可能性を探している。
それは逃げではない。
今の彼女にとっての、生存戦略だ。
その言葉は、読者の思考を一つの方向へ誘導する。
魔法のせい。
魔法が暴れた。
魔法が悪い。
蒼真は、その誘導に乗らない。
だが否定もしない。否定すれば、フレイアの恐怖を増やす。
フレイアは、さらに声を震わせた。
「じゃあ……私が最初に手を挙げなかったら……」
彼女は言葉を飲み込み、続ける。
「被害者は、別の人だったってこと……?」
職員室の空気が一瞬、張る。
クラリス先生も、沈黙した。
蒼真は、その沈黙の中で考えた。
もし本当に無差別なら。
“誰でもよかった”なら。
それは最も怖い。
だが最も便利でもある。
誰でもよかった。
そう言えば、誰も責めなくて済む。
蒼真は、フレイアの不安を否定せずに受け止め、そして静かに言った。
「……ほんとうに、無差別かな」
蒼真は、その言葉を“問い”の形で置いた。
答えを求める問いではない。
空気に穴を開けるための問いだ。
事故だと言い切れば、皆が楽になる。
フレイアも、きっと楽になる。
だが、その楽は次の爆発のための布団になる。
蒼真は、布団の柔らかさより、床の硬さを選ぶ。
現実は硬い。
硬いからこそ、立てる。
フレイアが、はっと息を呑む。
クラリス先生の目が、蒼真を見据えた。
蒼真はそれ以上、何も言わなかった。
言わないことが、次の一手になる。




