第41話 緑の名を伏せたまま(1)
# 第41話 緑の名を伏せたまま
階段の下は、外の喧騒から切り離されたように静かだった。
石段の角度のせいか、ここだけ風の通り方が違う。上階を抜ける空気は乾いているのに、階段下は湿り気を含んでいて、どこか地下室に近い匂いがした。古い石と、掃除用の水と、ほんの少しの鉄――血の匂い。
時間の感覚が鈍る場所だ。
さっきまで教室にあった粉塵の白さと、ガラスの雨の音が、まだ耳の奥に残っている。まばたきをすると、あの破裂の瞬間が薄い残像になって浮かぶ。けれど、ここではそれを語る者がいない。語らないからこそ、残像だけが勝手に育つ。
上階の廊下からは、祭りの準備で運ばれる木箱の音や、誰かが笑い合う声が、遠い水面の波のように薄く届く。けれどここには届かない。届いても、意味を持たない。
石の壁は冷たく、空気はひんやりしていた。制服越しでも、背中にじんわりと冷気が染みてくる。
フレイア・バルディッシュは、膝を抱えてうずくまり、顔を伏せたまま泣いていた。
赤髪は、いつものように跳ねていない。泣き濡れたせいで重く垂れて、頬に張りつき、首筋の汗と混ざっている。両腕の内側には、小さな絆創膏と白い包帯が見えた。医務室で巻かれたばかりの布は、まだ清潔で、だからこそ痛みが生々しい。
彼女は、炎の子だ。
いつもなら、感情が先に燃え上がり、言葉が後から追いつく。
――なのに今は、声が火種にならない。
燃えないという事実が、蒼真にはいちばん怖く見えた。
蒼井蒼真は、彼女の斜め前――一段下の石段に腰を下ろし、視線を踊り場へ向けたまま、ただ同じ場所に“いる”ことを選んでいた。
距離は、近づければいいというものではない。
彼女は今、誰かが近づくこと自体に怯えている。近づく=責める、という回路ができてしまっている。
蒼真はその回路を壊したかった。
言葉で壊すより、まず“壊さない行動”で示す方が早い。
彼女が逃げられる余白を残して、座る。
その配置が、彼にできる最初の手順だった。
泣き声は、さっきより細い。けれど止まらない。止めようともしない。
蒼真は、何度も言葉を飲み込んだ。
心配している、という感情を言葉にするのは簡単だ。だが、相手の痛みを無視した“親切な言葉”は、往々にして暴力になる。
今のフレイアに必要なのは、正解ではない。
「正しい言葉」は、もうたくさん浴びた。
セレナの言葉も、教室の空気も、誰もが“事故”という便利な箱に押し込めようとした視線も。
正しさが積み重なるほど、彼女は息ができなくなる。
慰める言葉はいくらでも浮かぶ。
大丈夫だ、と。
気にするな、と。
誰もお前を嫌ってなんかいない、と。
だが、簡単な言葉は簡単に折れる。折れた破片は、相手の心に刺さる。
だから蒼真は、まず、呼吸をゆっくりにした。
そのうちに、フレイアの肩の上下がわずかに落ち着いてきた。
蒼真は、彼女の泣き声の途切れを待ってから、ゆっくり口を開いた。
いきなり核心を突けば、また閉じてしまう。だから、最初は身体の話から。
「……痛いか」
蒼真が低い声でそう尋ねると、フレイアは小さく首を振った。
「……ちょっと、切れただけ……」
そう言う声には、痛みよりも、悔しさが混ざっていた。
「切れただけ」と言えるように振る舞わなければ、もっと大きなものを失う気がしている。
――評価の空気だ。
祭りの前、学園は特にそれが濃くなる。
声は掠れていた。
蒼真は、それ以上聞かない。痛みの程度を言わせることは、今の彼女にとって“説明”を強いることになる。
しばらくして、フレイアがほんの少しだけ顔を上げた。
目は赤く腫れている。涙で濡れた頬に、髪の先が貼りついていた。
「……みんな……私のこと……」
言葉が途中で途切れる。
蒼真は、頷いた。
「見てた」
蒼真はそれ以上足さない。
同情の言葉は簡単だ。
でも、彼女が欲しいのは同情じゃない。
“自分の中の現実”を、誰かが否定しないこと。
それだけで十分な瞬間が、人にはある。
それだけで、フレイアの目からまた涙が落ちた。
見られていた。
責められていた。
避けられていた。
その全てが、言葉にならないまま胸の中で渦を巻いている。
蒼真は、視線を向けない。見つめることは、時に優しさではなく圧になる。
「今は、泣いていい」
答えではない。
許可だ。
フレイアは、しばらく唇を震わせていたが、やがて小さく息を吸い、吐いた。
「……私、私ね……」
言いたいことがある。けれど言えば壊れる。
蒼真は言葉を待つ。
その沈黙の中で、フレイアはようやく自分の声を拾い上げた。
「……私、調子に乗ってたのかな」
フレイアは、笑おうとしたのかもしれない。
でも笑えなかった。口角が上がる前に、喉が詰まって、空気が漏れた。
調子に乗っていた。
その言葉は便利だ。自分を叩けば、周りが許してくれる気がする。
そして何より――原因が自分なら、対処ができる。
自分を変えればいい。
自分を削ればいい。
そう思える方が、怖くない。
その問いは、答えを求める形をしているのに、答えを聞きたくない形もしていた。
蒼真は、そこで初めて、視線を少しだけ動かした。フレイアの方ではなく、彼女の指先へ。
スカートの端を握りしめて、指が白くなっている。
「……それは、違うと思う」
蒼真は、短く言った。
フレイアが目を瞬く。
「……え」
「さっきの事故」
蒼真は“事故”と口に出し、それを自分で一度噛み砕く。
「……フレイアのせいじゃないと思ってる」
フレイアは、泣いたまま顔を上げた。
疑う目でも、期待する目でもない。信じたいのに信じられない目。
「ほんとう……?」
掠れた声。
蒼真は頷く。
「本当にそう思ってる」
蒼真は、その言葉を軽くしないように、息を整えた。
彼は感情で結論を曲げない。
けれど、感情を無視もしない。
今ここで必要なのは、論理の説明ではなく、彼の“立場”だ。
フレイアの側に立つ。
ただし、誰かを叩くためではなく、事実を拾うために。
そこで蒼真は、言葉を選んだ。
自分が見たものを、そのまま口に出すのは簡単だ。
けれど簡単な言葉は、余計な波紋を呼ぶ。
だから彼は、見たものの“結論”ではなく、“構造”だけを言う。
「あのフラスコ……何か、細工されてた気がする」
フレイアの瞳が揺れた。
「細工……?」
「そうでなければ、フレイアがあんな事故を起こすわけがない」
フレイアは、唇を噛んだ。
自分のせいだと思えば、まだ耐えられる。
自分のせいじゃないとしたら――もっと怖い。
「……私、ちゃんと練習してたのに」
フレイアは、絞り出すように言った。
蒼真は、その言葉に頷く。
「知ってる」




