第40話 責められる場所
# 第40話 責められる場所
乾いた破裂音の余韻が、まだ教室の空気に残っていた。
粉塵がゆっくりと沈み、光の筋がそれを照らす。床には細かなガラス片が散り、机の上に積まれていた紙束は風に煽られたように崩れていた。誰もが立ち尽くし、何が起きたのかを理解する前に、状況だけが先に進んでいく。
「――保健委員!」
クラリス先生の声が、教室を切り裂いた。
「医務室へ。フレイアとルミエール、二人ともです!」
はっと我に返った生徒たちが動き出す。椅子が擦れる音、誰かの短い悲鳴。割れたフラスコの残骸を避けるように、人の流れができた。
フレイアは、その中心で立ち尽くしていた。赤髪に小さなガラス片が絡み、腕に細い血の筋が走っている。けれど、痛みを訴える様子はない。ただ、目だけが大きく見開かれていた。
そのすぐ近くで、ルミエールもまた腕を押さえていた。袖の端が切れ、血がにじんでいる。それでも彼女は周囲に向かって無理に笑い、
「だ、大丈夫よ……」
と繰り返している。
保健委員の腕章をつけた女子生徒が、弾かれたように前へ出た。 その生徒が周囲を制しながら、安全な足場を指さして通路を作る。
「ルミエール様、こちらへ。ゆっくりで大丈夫です」
その声に重なるように、アリシアが駆け寄った。彼女は腕章をつけていない。保健委員会の人間ではない――ただ、ルミエールのそばにいることが当たり前になっている側近として、身体が先に動いた。
「ルミエール様……!」
アリシアはルミエールの肩にそっと手を添え、傷口に視線を走らせる。血を見て顔色を変えかけ、すぐに必死に落ち着こうと息を飲み込んだ。
ルミエールは小さく頷いた。
フレイアにも同じように声がかかるが、彼女は一瞬遅れて反応した。
「……はい」
その声は、教室の喧騒の中でひどく小さかった。
蒼井蒼真は、数歩離れた場所でその様子を見ていた。足が動かないわけではない。ただ、今は近づくべきではないと、頭が判断していた。
「……いったい、なにが……」
蒼真は喉の奥でそう呟き、粉塵の向こうを見た。破裂の衝撃は一瞬だったのに、教室の時間はまだそこで引っかかっている。誰かが咳き込み、誰かが涙目で袖を口に当てる。
クラリス先生は教卓の前に立ち、鋭い視線で全員を見回した。
「動く者は、足元を見なさい。ガラス片で二次被害を出さないこと。――蒼井くん、窓を。換気を」
指名された蒼真は頷き、急いで窓を開けた。冷たい空気が入り、粉塵がゆっくり流れていく。
蒼真の胸の内に浮かんだのは、恐怖よりも、不可解さだった。密封されたフラスコの中で起きた現象が、どうして“外へ向かう破壊”に変わる。
答えはまだ出せない。だから、口を閉じた。
断定に近い言い方だった。
蒼真は、何も言い返さなかった。言い返す材料も、言葉にする確信も、まだ持っていない。
だからこそ、その一言が、教室の空気にすっと染み込んでいくのを、黙って見ているしかなかった。
フレイアとルミエールは、保健委員の腕章をつけた生徒に伴われて教室を出ていく。アリシアは最後までルミエールの傍を離れず、周囲の生徒も自然とその後ろに続いた。
フレイアの背中には、誰も声をかけなかった。
教室に残された蒼真たちは、しばらく沈黙の中にいた。
扉の向こうの足音が完全に遠ざかった頃、セレナが小さく吐息を落とした。誰に聞かせるでもなく、しかしはっきりした声で言う。
「……フレイア、調子に乗るからよ。きっと、魔力を込めすぎたんだわ」
断定に近い言い方だった。
蒼真は、何も言い返さなかった。言い返す材料も、言葉にする確信も、まだ持っていない。
だからこそ、その一言が、教室の空気にすっと染み込んでいくのを、黙って見ているしかなかった。
やがて、クラリス先生が短く告げる。
「授業は中止します。危険物の回収と、教室の片付けを」
それだけだった。
事故の原因についての説明も、誰が悪いのかという話もない。ただ、淡々と“処理”が始まる。
机を元に戻す者。床の破片を避けながら雑巾を取りに行く者。誰もが動いているのに、誰もがどこか浮ついていた。
「……フレイア、前に出てたから……」
「でも、ルミエールも近くにいたよね」
「先生が“安全”って言ってたのに……」
言いかけては止める。視線を交わしては逸らす。
責める言葉は、口に出した瞬間に“責めた自分”も傷つける。だから皆、ぎりぎりのところで黙る。けれど黙り方にも種類があって、そのうちの一つは、誰かを孤立させる。
蒼真は箒を動かしながら、その空気の変化を肌で感じていた。
蒼真は、床に散らばったガラス片を箒で集めながら、頭の中を整理しようとしていた。
だが、うまくいかない。
目に焼き付いた光景が、何度もよみがえる。
赤い炎。
その中心にあった、異質な色。
――考えるな。
蒼真は、自分にそう言い聞かせる。今は、結論を出す時間ではない。
教室の掃除が一段落した頃、扉が静かに開いた。
戻ってきたのは、フレイアとルミエールだった。
二人とも簡単な処置を受けただけのようで、大きな包帯はない。それでも、教室に入った瞬間、空気がはっきりと分かれた。
「ルミエール、大丈夫!?」
「血、出てたけど……」
複数の声が一斉にルミエールへ向かう。心配する視線、駆け寄る足音。彼女は戸惑いながらも、
「本当に、大したことないわ」
と笑顔を作った。
一方で、フレイアの周囲には、ぽっかりと空間ができていた。
誰も近づかない。
誰も声をかけない。
それは露骨な拒絶ではない。ただの距離だ。だが、その距離は、言葉よりもはっきりと責任の所在を示していた。
視線は刺さるというより、避けられる。
――“触れたくないもの”を見る目。
フレイアは、俯いたまま立っていた。唇を強く噛みしめ、拳を作り、ほどけなくなった指先を隠すようにスカートの端を握る。何かを言おうとして、喉の奥で言葉が潰れる。結局、何も言えずにいる。
その沈黙を破ったのは、セレナだった。
「調子に乗るから、こういう結果になるのよ」
教室が静まり返る。
フレイアは顔を上げない。肩が、わずかに震えた。
「セレナ……」
ルミエールが慌てて口を挟む。
「大丈夫だから。ちょっと切っただけよ」
セレナはルミエールに視線を向け、静かに言った。
「今回は授業だったからよかったものの、マナブルーム祭だったら、大惨事でしたわ」
正論だった。
否定できる者はいない。
だからこそ、その言葉は、フレイアを追い詰めた。
フレイアは一歩下がり、次の瞬間、踵を返した。
そして――走り出した。
教室を飛び出す背中に、誰も声をかけなかった。止める者もいない。ただ、視線だけがその後を追う。
蒼真は、気づけば足を踏み出していた。
「……セレナ、ちょっと言い過ぎだ」
振り返ったセレナの目は、驚きと戸惑いを含んでいる。
「まだ、フレイアが全面的に悪いと決まったわけじゃない」
それだけ言って、蒼真は廊下へ駆け出した。
フレイアを見つけたのは、校舎の階段下だった。
人通りの少ない場所。石の壁に背を預けるように、フレイアは座り込んでいた。肩を抱き、顔を伏せ、声を殺して泣いている。
蒼真は、数歩手前で立ち止まった。
「……フレイア」
呼びかけると、嗚咽の合間に、掠れた声が返ってくる。
「来ないで……」
拒絶だった。
蒼真は、無理に近づかなかった。階段の一段下に腰を下ろし、同じ目線になる。
「……ひとりにさせる気はない」
それだけを、静かに告げる。
フレイアは何も言わない。ただ、泣き声が少し大きくなった。
「今は、それでいい」
蒼真は続けた。
「何も話さなくていい」
理由も、原因も、誰が悪いのかも。
今はまだ、そこへ踏み込むべきではない。
蒼真は、ただ隣に座り続けた。
フレイアの泣き声は、最初は勢いがあった。堪えていた分が一気に溢れたように。だが、時間が経つにつれて、それは途切れ途切れの呼吸に変わっていく。
蒼真は、何かを言いたい衝動を何度も飲み込んだ。慰めの言葉は簡単だ。けれど、簡単な言葉ほど、相手の痛みの上に薄い布を被せるだけになりがちだった。
ここで必要なのは、布ではない。
“いる”という事実だ。
石段の上から、遠くで誰かが笑う声が聞こえた。祭りの準備の声だろう。学園の日常は、事故ひとつで止まらない。
その当たり前が、今のフレイアには残酷だ。
蒼真は視線を階段の踊り場へ向けたまま、低い声で言った。
「……痛いか」
返事はない。けれど、フレイアの肩がわずかに揺れた。
蒼真はそれ以上聞かない。痛みを言語化する余裕がないとき、人は“答えなきゃいけない”質問に追い詰められる。
しばらくして、フレイアがほんの少しだけ顔を上げた。泣き腫らした目で、蒼真を見るでもなく、ただ空気の中を見つめている。
唇が震え、かすれた声が漏れた。
「……みんな……私のこと……」
言葉が続かない。
蒼真は、頷く。
「見てた」
それだけで、フレイアはまた涙を落とした。責められる視線を“見られていた”ことが、救いにもなるし、恥にもなる。
蒼真は、恥の方を増やさないように、顔を向けない。
「今は、泣いていい」
それもまた、答えではない。許可だ。
フレイアは小さく、何度か呼吸を整えるように息を吸って、吐いた。泣くことに集中し始めた、と蒼真は思った。
そうして、時間がほんの少しだけ“前へ”進む。
誰かを責める言葉は、いつも、答えよりも先に用意されている。
だが、責められる場所で、ひとりで立たされる必要はない。
誰かを責める言葉は、いつも、答えよりも先に用意されている。
だが、責められる場所で、ひとりで立たされる必要はない。
階段の下で、時間だけが静かに流れていった。




