第39話 緑に染まる炎
# 第39話 緑に染まる炎
朝の光が、ノクティス魔法学園の高い窓から斜めに差し込み、教室の床に細い帯を落としていた。城塞のような石造りの校舎は、外の世界の気配を遠ざける。そのはずなのに――今日は、廊下の向こうからやけに賑やかな声と、普段よりも甘い香りが流れ込んでくる。
机の間を縫うように、生徒たちが忙しなく動いていた。小さな布束を抱えている者、木箱を運んでいる者、魔法灯の部品らしき金具をいじっている者。机の上に置かれた紙束には、色とりどりの文字で「準備」「担当」「当日スケジュール」などと書かれている。
蒼井蒼真は、窓際の席で頬杖をつきながら、その光景を眺めていた。
異世界の学園生活にも、少しずつ慣れてきたはずだ。けれど、こうして皆が一つの行事に向けて浮き足立つ空気は、どこか別の国のもののように感じる。楽しそうだ。だが、楽しさの下に「評価」という見えない刃が隠れていることを、蒼真は見逃さない。
人は、祝祭の場でこそ、平常ではしないことをする。
隣の席では、ルミエール・ド・アルセリアが机の上に肘をつき、ペンをくるくる回しながら窓の外を見ていた。金色の髪が朝日に透け、細い光の糸のように揺れる。彼女の周囲だけ、空気が明るく感じるのは、光属性のせいではなく性格のせいだろう。
蒼真は、少しだけ首を傾げた。
「なあ、ルミエール」
「なに?」
ルミエールは振り向き、当然のように笑った。
「……この学園、今日はやけに騒がしいけど。何かあるのか」
蒼真がそう言うと、ルミエールは「ああ」と軽く頷いた。
「Mana Bloom――マナブルーム祭よ。知らないの?」
「名前は聞いた。けど、内容までは」
ルミエールは、指先で机をとんとんと叩きながら、簡潔に言う。
「新入生が魔法をお披露目するお祭り。先輩や先生に“できること”を見せる場ね。歓迎でもあり、試験みたいなものでもあるわ」
歓迎、と試験。その二つの単語が同居することに、蒼真は心の中で小さく頷いた。どこの世界でも、制度は優しさの顔をして、選別をする。
「なるほど。そんな大きな行事があるのか」
「あるのよ。だから皆ピリピリしてるの。装飾係も、出し物係も、宣伝係も」
言いながらルミエールは、廊下を指差す。そこには、教室の扉の外で、何人かの上級生が紙の束を抱え、下級生に指示を飛ばしている姿が見えた。
蒼真が視線を戻した、そのときだった。
教室の入口側が、ふっと静かになった。
誰かが入ってきたわけではない。ただ、空気が一瞬だけ整えられたように感じる。規律が歩いてくるときの匂い――そう形容するなら、蒼真の隣に自然と現れた少女が、まさにそれだった。
セレナ・ヴァイスリヒト。
銀色の髪をきっちりまとめ、背筋を伸ばしたまま席へ向かう。彼女は迷いなく、蒼真の隣の空いている椅子に腰掛けた。まるで最初からそこが定位置であるかのように。
「おはようございます、蒼真」
落ち着いた声。けれど、その奥に微かな照れが潜んでいるのを、蒼真は見抜いていた。
「おはよう、セレナ」
蒼真が返すと、セレナの耳がほんの少し赤くなる。そこを見ないふりをするのが、この数日の蒼真の流儀だった。
ルミエールは、露骨に目を細めた。
「……二人、なんか距離、近くありません?」
それは問いというより、指摘だった。周囲の生徒たちも、ちらりとこちらを見る。噂が噂を呼ぶ速度は、どの世界でも変わらない。
セレナは顎を上げて、涼しい顔で言った。
「そうですの? 別に、普通ですわ」
「普通って、隣に座るのが?」
「早い者勝ちですわ、ルミエール」
即答。
ルミエールの頬が、わずかに膨らむ。
「……なにそれ」
蒼真は、二人のやり取りを見て、内心でため息をついた。
距離が近くなった自覚はある。ただ、それは恋愛の駆け引きではなく、セレナが“信頼”を形にするのが不器用だからだ。言葉で伝えきれない分、行動がまっすぐになる。
そして彼女は、そのまっすぐさを「規律」という衣で包む。
蒼真は話題を戻す。
「マナブルーム祭、セレナは詳しいのか」
セレナはわずかに誇らしげに微笑んだ。
「もちろんですわ。マナブルームは、新入生が魔法を先輩や先生にお披露目するお祭りですの。新入生が自信をアピールする場でもありますし、先輩や先生が新入生を歓迎する祭りでもありますわ」
説明は正確で、聞き取りやすい。そこに余計な装飾はない。
「なるほど。ありがとう、セレナ」
蒼真が素直に礼を言うと、セレナは一瞬だけ視線を泳がせ、すぐに前を向いた。
「……どういたしまして」
ルミエールは、まだ不満そうな顔をしていたが、話題が行事に向いたことでひとまず矛先を収めたようだった。
蒼真はふと、教室の後ろの方を見た。
赤髪の少女――フレイア・バルディッシュが、椅子の背にもたれながら、何かの設計図のような紙を眺めている。ペンをくわえ、眉を寄せ、唇を尖らせる。その姿は、悩んでいるというより、燃えている。
火属性の彼女は、こういうときほど分かりやすい。
「うちのクラスも、祭りに向けて何かやるのか?」
蒼真が聞くと、ルミエールが肩をすくめた。
「もちろん。フレイア主導で花火を披露しますわ」
「花火?」
蒼真が意外そうに言うと、フレイアが後ろから顔を上げた。
「なに、驚いてるの? 派手じゃないと意味ないでしょ! 新入生が目立つんだから、こっちも目立つの!」
フレイアは勢いよく立ち上がり、両手を広げる。
「炎で、空に――バーンって!」
言いながら、彼女は小さな火花を指先に灯してみせた。周囲の生徒が「おお」と声を上げる。
蒼真は、その熱量に苦笑した。
「それは楽しみだな」
ルミエールがにやりと笑って、蒼真の肩を指で突いた。
「なに言ってるの。蒼真も手伝うのよ」
「え。俺は何もできないと思うぞ……魔力ないし」
蒼真が正直に言うと、ルミエールは呆れたように息を吐いた。
「そういうことじゃないでしょ。魔力がなくてもできること、やることはいっぱいあるわよ。準備、運搬、順番の管理、道具のチェック。裏方がいないと、魔法だって成功しないの」
セレナも小さく頷いた。
「その通りですわ。祭りは“規律”で成り立ちますの。誰かが整えていなければ、どれほど優れた魔法もただの事故になりますわ」
蒼真は一瞬、セレナの言葉に引っかかる。
事故。
それは今、まだ起きていない。
しかし、事故はいつも、起きる前に同じ顔をしている。
「裏方、か。それなら俺にもできる。わかった」
蒼真がそう答えると、ルミエールは満足そうに胸を張った。
「よし。逃げないって約束ね」
「逃げない」
蒼真は短く言った。
そのとき、教室の扉が開いた。
入ってきたのは担任――クラリス先生だった。年上の女性教師で、淡い紫の髪をきちんとまとめ、視線が鋭い。教室に入った瞬間、騒がしさが潮を引くように静まる。
「着席。――祭りの話に夢中なのは結構ですが、授業も忘れないように」
クラリス先生の声は落ち着いていて、しかし有無を言わせない。
生徒たちは一斉に席へ戻った。
先生は教卓の上に、細長い木箱を置いた。蓋を開けると、中には透明なフラスコが並んでいる。どれも掌に収まる程度の大きさだが、口には金属の封が施され、細い刻印が走っている。
「今日は魔力制御の授業をします」
クラリス先生はフラスコを一つ取り上げ、光にかざした。
「この密封されたフラスコの中で、各々の魔法を展開し、凝縮し、安定させてください。出力を誇示する授業ではありません。――評価するのは制御です」
生徒たちが頷く。
蒼真は、フラスコを見つめた。
透明だ。少なくとも、見た目には。
けれど、“透明”というのは、見えないという意味ではない。見えているのに、気づかないだけだ。
先生がフラスコを配る。蒼真の机にも、一つ置かれた。
蒼真は触れない。自分の魔力は生成できないからだ。だが、触れたところで危険ではない。先生もそれを知っている。
「順番に前へ。フラスコの中で展開し、安定させる。失敗しても外へ漏れない。……だからこそ、油断が生まれる。油断は失敗を呼ぶ」
クラリス先生の言葉は、祭りの話にふわついていた空気を引き締めた。
その瞬間、フレイアが勢いよく手を上げた。
「はいはーい! じゃあ私からやります!」
先生は少しだけ眉を上げたが、許可した。
「フレイア、前へ。出力ではなく制御。分かっていますね」
「分かってますって!」
フレイアは軽やかに前へ出た。赤髪が揺れる。
その背中を見ながら、ルミエールが自席から立ち上がりかけた。
「次は私がやりますわ」
クラリス先生は一瞬だけ視線を向け、落ち着いた声で告げた。
「順番は後で決めます。今はフレイアの実技に集中しなさい」
「……はい」
ルミエールは頷き、指示に従って教卓の近くへと移動した。他の数名の生徒と同様、次の実技に備えて前で待機する形だ。
フレイアは教卓の正面に立ち、フラスコを両手で持った。炎属性の生徒にとって、密封容器の中での制御は基本中の基本――そのはずだ。
「じゃあ、先生。いきますわよ。私は炎魔法を展開します」
フレイアが息を吸い、吐く。
次の瞬間、フラスコの中に小さな炎が灯った。
赤い。温かい。揺れているのに安定している。火そのものというより、火の形をした意志のようだった。
教室から「おお……」と小さな感嘆が漏れる。
フレイアは集中している。額に薄く汗が浮かび、瞳が細くなる。
そのときだった。
蒼真の視界の端で、フラスコの中が“変質”した。
赤い炎の中心。そこに、薄い緑が滲んでいる。
最初は錯覚かと思った。光の反射か、ガラスの歪みか。
蒼真は目を瞬き、もう一度見た。
消えない。
緑は、炎の中心で、まるで別の液体が混ざるように濃淡を変えながら存在していた。透明なはずの空間が、薄い霧を孕んだように見える。
蒼真は無意識に、隣へ視線を投げた。
セレナは前を向いている。姿勢は正しい。目は真剣で、授業を見守っている。
蒼真は小声で呼びかけた。
「セレナ」
「はい?」
「フラスコの中……緑色に見えるんだが」
セレナは一瞬、蒼真を見た。ほんの少しだけ、眉が動く。
「……何をおっしゃってますの?」
「中央が緑に濃く見える。透明じゃない」
セレナは、フレイアのフラスコを見て、首を傾げた。
「透明ですわよ。炎は赤ですし……蒼真、疲れているのでは?」
蒼真は目を擦った。
それでも、緑は消えない。
――見えている。
自分にだけ。
蒼真は、息を止めた。
この世界の魔法は、現象だ。力ではなく、結果として現れるもの。
ならば、色もまた“結果”だ。
そして、結果には必ず原因がある。
蒼真が口を開こうとした、その瞬間。
フラスコの中の炎が、唐突に火力を増した。
揺らぎが、波になる。波が、渦になる。
フレイアの瞳が見開かれた。
「え……?」
彼女はすぐに制御しようとした。手首を微細に動かし、呼吸を整え、魔力の流れを締める。
しかし、炎は従わない。
赤の中心で、緑が濃くなる。
まるで、そこに別の“方向”が差し込まれたかのように。
蒼真の背筋が冷えた。
これは、量の問題ではない。
暴走という言葉が頭に浮かぶより早く、蒼真は叫んでいた。
「フレイア! 離れろ!」
蒼真は立ち上がり、反射的に声を張り上げた。同時に視線は、教卓の近くにいたもう一人――ルミエールを捉える。
「ルミエールも! 前から下がれ!」
「え、ちょっ――」
ルミエールが言い終わる前に、教室の前方で、乾いた音がした。
パキン。
小さな亀裂。
フラスコの表面に蜘蛛の巣のような線が走った。
フレイアが息を呑む。
「まっ……!」
次の瞬間。
フラスコは、内側から破裂した。
爆発というより、圧力が一気に解放された破砕。透明なガラスが白く霞み、細かな破片が光を散らしながら教室に飛ぶ。
衝撃波が空気を叩き、机の上の紙が舞い上がった。
悲鳴。
椅子が倒れる音。
蒼真は反射的に身を伏せ、腕で顔を覆った。
――そして、その一瞬の中でも、蒼真の目には“緑”が残像のように焼き付いていた。
赤い炎ではなかった。
緑に染まった炎。
方向を与えられた魔力。
ガラスの破片が床に落ちる音が、雨のように響く。
教室の空気が、しんと凍りついた。
蒼真の胸の奥で、何かが静かに確信へと変わる。
――これは、ただの事故ではない。
だが、その言葉を口に出す前に、視界が白い粉塵で満ちた。
最後に見えたのは、砕け散ったガラスの中で、緑の名残が消えていく瞬間だった。
> 蒼真の目には、
> あの炎が、確かに“緑”に染まって見えていた。
>
> それは、暴走ではない。
> **――何かが、方向を与えていた。**




