第38話 冗談では済まされませんわ
# 第38話 冗談では済まされませんわ
店の灯りは、外の祭りの喧騒をやわらかく切り取っていた。
分厚い木のテーブル。少し低めの天井。ゆらゆらと揺れるランプの光が、壁に影を落とす。外ではまだ人の声や音楽が続いているはずなのに、この店の中だけは、時間が一拍遅れて流れているようだった。
煮込み料理の湯気はほとんど消え、代わりに甘い菓子と香草茶の香りが、二人の間を満たしている。
蒼真は、食後の余韻を静かに堪能していた。
――こういう時間は、いい。
事件もない。推理もいらない。剣を構える必要も、相手の嘘を疑う必要もない。ただ、同じ卓を囲んで、同じ料理を食べて、呼吸を合わせるだけ。
それだけで、世界が一度きれいに整う。
向かいに座るセレナは、さっきから落ち着きがなかった。
視線が泳ぎ、指先がコップの縁を何度もなぞる。口を開きかけては閉じ、また少し間を置いて深呼吸をする。
言いたいことがある。
けれど、どう切り出せばいいのか分からない。
剣の構えなら迷わない人が、言葉では迷っている。その姿が、蒼真には少し眩しく、そして愛おしく見えた。
セレナは、背筋を正した。いつもより、ほんの少しだけ固い。
まるで、試合前の礼をするかのように。
「……ねえ、蒼真」
呼ばれて、蒼真は顔を上げる。
「はい」
短く、素直な返事。
セレナは一度、唇を噛みしめた。そして、逃げない目で蒼真を見据える。
「さっき……」
そこで一瞬、言葉が止まる。
それから、覚悟を決めたように続けた。
「わたくしの彼氏って……おっしゃってましたわよね?」
蒼真の動きが、ぴたりと止まった。
心臓が、一拍遅れて鳴る。
「……っ」
飲んでいた水が喉に入り、思わず咳き込んだ。
「ごほ……っ、す、すみません」
咳をしながら頭を下げる。
セレナの頬が、みるみるうちに赤くなった。その赤さが、蒼真の思考をさらに白く塗りつぶす。
「……覚えてましたか」
蒼真は、観念したように正直に言う。
「すみません。ああ言うしかなくて……」
一瞬言葉を選び、それから続けた。
「……迷惑でしたよね」
言い訳よりも先に、相手の気持ちを確認する。
それが、蒼真という人間だった。
セレナは慌てて首を振る。
「い、いえ……迷惑なんて……!」
声が、少し裏返っている。
剣の稽古では、絶対に聞いたことのない響きだ。
彼女は一度咳払いをし、なんとか平静を装おうとするが、赤みは消えない。
「その……」
視線を逸らし、皿の縁を指でなぞりながら、ぽつりと言った。
「わたくし……そんなふうに言われたこと、ありませんし……」
蒼真は、思わず瞬きをする。
「……え」
セレナの声は、さらに小さくなった。
「どなたとも……お付き合いしたことも、ありませんわ」
蒼真は、完全に言葉を失った。
目の前にいるのは、完璧な剣士で、規律の象徴で、学園でも一目置かれる存在だ。その彼女が、こんなふうに恋愛経験のなさを打ち明けている。
その事実が、妙に胸に響いた。
そして――
口が、勝手に動いた。
「え……こんなに美しいのに?」
言った瞬間、蒼真は内心で頭を抱えた。
軽い。
軽すぎる。
だが、言葉はもう戻らない。
セレナの顔が、耳まで一気に赤く染まる。
「な、なな……っ!」
声にならない音。
蒼真は慌てて両手を振った。
「ち、違います! 軽い意味じゃなくて……その、事実として……!」
説明しようとすればするほど、墓穴を掘っていく。
セレナは両手で頬を押さえ、しばらく俯いたまま動かなくなった。
「……蒼真は、本当に……」
その先の言葉が、出てこない。
蒼真は、居心地の悪さと同時に、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じていた。
セレナが、ちゃんと人間らしく照れている。
それだけで、今日ここに来た意味があった気がした。
やがてセレナは、ゆっくりと顔を上げた。少しだけ真面目な表情に戻っているが、目はまだ揺れている。
「わたくし……剣術しかできませんし……」
ぽつりとした声。
「ルミエールみたいに、女性らしく可愛らしくもありませんし……」
その言葉に、蒼真ははっとした。
セレナが、誰かと比べて自分を下げる。
そんな姿は、今まで一度も見たことがなかった。
セレナは続ける。
「それに……」
視線が、自分の手に落ちる。
指の関節。掌の硬さ。剣を握り続けてきた証。
「……わたくしの家系は、代々剣士の家系ですの」
声が、少し遠くなる。
「剣を握ることが当然で……それ以外を考えたこともありませんでした」
蒼真は、何も言わずに聞いた。
彼女が自分から過去を語ること自体、ほとんどない。
「でも、ある日……わたくしには魔法の才もあると分かったの」
セレナは、ほんの少しだけ誇らしげに笑った。
「だから、魔法学園を選びましたのよ」
逃げではない。
選択だ。
その言い方が、ひどくセレナらしかった。
「剣では……勝てない相手も、いると思いますわ」
蒼真は、その現実の重さを感じ取る。
「けど……」
セレナは、もう一度自分の手を見る。
「剣術ばかりの、こんなごつごつな手……」
声が、わずかに震えた。
「ルミエールとは違って……女らしくありませんわよね……」
蒼真は、反射的に身を乗り出していた。
「そんなことはありません!」
声が強かった。
自分でも驚くほど。
その勢いのまま、蒼真の手が動く。
テーブルの上に置かれていたセレナの手に、重なる。
握り返していた。
ぎゅ。
硬い。
けれど、確かに温かい。
蒼真は、握ってから気づいた。
――何をしてるんだ。
だが、もう遅い。
セレナの顔が、みるみるうちに赤くなる。
「……っ!」
息を呑む音。
「な、なにを……急に……!」
剣士としての冷静さが、完全に崩れ落ちる。
蒼真は慌てて手を離そうとした。
「す、すみません。嫌だったなら――」
だが、セレナはほんの一瞬だけ、離さなかった。
その短い沈黙が、二人の呼吸を重ねる。
「……ずるいですわ……」
視線を逸らしたまま、セレナが小さく言う。
「……え?」
「そういうことを……平然と、するから……」
蒼真は、探偵としての言葉を探そうとして、やめた。
代わりに出てきたのは、ただの本心だった。
「……その手で、誰かを守ってきたんでしょう」
ゆっくり、確かめるように言う。
「努力の跡です」
ほんの少しだけ、もう一度手に力を込める。
「……嫌だなんて、思うわけありません」
セレナの肩が、ふるりと揺れた。
それが笑いなのか、涙なのかは分からない。
ただ、頬の赤みが、少しだけやわらいだ。
やがて蒼真は、名残惜しそうに手を離した。
残ったのは、温度だけ。
料理が運ばれてきたのは、その直後だった。
湯気が、二人の間を優しく遮る。
セレナは咳払いをし、平静を装う。
装えていない。
スプーンを持つ手が、まだ少し震えている。
蒼真は煮込みを一口食べ、今度こそしっかり咳き込みそうになった。
美味い。
そして、空気が甘い。
甘すぎる。
――事件より、よほど手強い。
セレナは視線を上げ、少し意地悪そうに言った。
「……それと、蒼真」
蒼真は身構える。
「なぜ、わたくしに敬語で『セレナさん』なの?」
蒼真は固まった。
「……え」
「同じ学園ですし、同じクラスですわ」
赤い頬のまま、しかし目は真っ直ぐ。
「呼び捨てで、いいですわ」
蒼真は真面目に頷いた。
「わかりました……セレナ」
言えた。
と思った直後。
「あ、いえ……すみません」
敬語が、即座に出た。
セレナが一瞬きょとんとし、それから吹き出す。
「ふ、ふふっ……」
蒼真も、つられて笑ってしまった。
「……体に染みついてます」
「まったく……」
セレナは笑いながら、どこか嬉しそうに言う。
「では、練習ですわね」
「練習?」
「ええ。蒼真が呼び捨てに慣れるまで」
蒼真は、苦笑しながら頷いた。
「……はい」
また敬語だ。
二人で顔を見合わせ、もう一度笑った。
食事の時間は、驚くほどあっという間に過ぎた。
店を出ると、夜の空気が頬に触れる。
祭りの灯りはまだ残っているが、空気はひんやりとしていた。
蒼真とセレナは、電車のような乗り物の駅へ向かう。
レールの上を滑るように走る箱型の車両。魔力で動いているが、見た目は蒼真の世界の電車に近い。
蒼真は、ほんの少し懐かしさを覚えた。
車内は混んでいた。
大会帰りの人々、祭り帰りの家族。
空いた席を見つけ、二人は並んで腰を下ろす。
座った途端、セレナの肩から力が抜けた。
そして、自然な動きで蒼真の肩にもたれかかる。
蒼真は一瞬、固まる。
「……セレナ?」
呼び捨てが、自然に出た。
セレナが、うっすらと笑う。
「……聞こえましたわ」
その一言が、やけに嬉しそうだった。
蒼真は、耳が熱くなるのを感じる。
そのとき、セレナの手が、蒼真の手を探った。
指先が触れ、ためらいなく絡む。
握られる。
蒼真は、反射的に握り返した。
ぎゅ。
セレナの体が、ぴくりと跳ねる。
突然だったのだろう。
顔が、また赤くなる。
「……っ」
蒼真は手を離そうとして、やめた。
離したら、もっと変になる。
だから、そのままにした。
セレナは顔を背け、しかし手だけは離さない。
窓の外を流れる夜景が、二人の沈黙を優しく包む。
車内の揺れが、呼吸を自然に合わせていく。
言葉は、いらなかった。
やがて、学園の最寄り駅に着く。
二人は降り、夜道を並んで歩いた。
城塞のような学園の外観が、月明かりに浮かび上がる。
寮の灯りが、いくつも点っている。
休日の終わり。
それが、少し惜しいと感じるのは、蒼真だけではないだろう。
学園前で立ち止まる。
セレナは蒼真の方を向き、しばらく黙っていた。
それから、覚悟を決めたように一歩近づく。
「……今日は、ありがとう」
蒼真は頷いた。
「こちらこそ……」
また敬語になりかける。
セレナは、ふっと笑った。
「ナイト様は、謝らないで」
その言葉に、蒼真の心臓が跳ねる。
セレナは、背伸びをした。
そして――
蒼真の額に、そっとキスを落とす。
触れるだけ。
けれど、魔法より強い。
セレナは顔を真っ赤にしたまま、足早に去っていった。
「今日はありがとう……私のナイト様」
振り返らない。
蒼真は、その場に立ち尽くす。
額に残る温度が、いつまでも消えなかった。




