第37話 夕食は、浮かれて選ぶもの
# 第37話 夕食は、浮かれて選ぶもの
広場を離れると、空気の質が一段変わった。
さっきまで張りつめていた緊張は、石畳の上にそのまま置き去りにされたようだ。祭りの通りへ一本戻っただけで、人の声は軽くなり、笑いは明るくなる。屋台から漂ってくる香辛料と焼き菓子の甘い匂いが混ざり合い、足元の石畳さえ、ほんのりと温かく感じられた。
蒼真は、ようやく肩の力を抜くタイミングを探していた。
――終わった。
理屈ではそう分かっているのに、体がそれを認めるのに少し時間がかかる。
それが、蒼真の癖だった。
だが、隣を歩くセレナの様子は違う。
背筋は相変わらず真っ直ぐで、歩幅も乱れていない。けれど、その足取りは明らかに軽く、人混みを縫う動きに、どこか弾むようなリズムがあった。
前を向いたままの彼女の口元が、ほんの少しだけ緩んでいる。
――笑っている。
その事実に、蒼真は小さな驚きを覚えた。
セレナは、感情を剣の鞘に収める人だ。
必要なときだけ抜き、役目が終わればすぐに納める。
なのに今は、その鞘が、少しだけ開いたままになっている。
「……ふふ」
気づかないうちに漏れたような、小さな声。
蒼真は確かめるように、横顔を見る。
「……機嫌、いいですね」
セレナの肩が、ぴくりと跳ねた。
「そ、そんなこと……ありませんわ」
即答だった。
だが、声がほんの一拍だけ高い。
蒼真は、心の中で静かに頷いた。
――隠す気はある。
――でも、隠しきれていない。
それが、剣士としてではなく、一人の少女としての反応であることが、なぜかはっきりと分かる。
セレナは歩きながら、何度も自分の手を小さく握っては、ほどいている。
拳を作って、ほどく。
まるで、勝負の余熱がまだ掌に残っているかを、確かめているみたいだった。
祭りの灯りが、彼女の銀髪を淡く照らす。どこかで鳴る笛の音が、夕方から夜へ移り変わる合図のように響いた。
蒼真は、ふと自分の左脇腹に残る鈍い熱を思い出す。
痛みは、確かにある。
だが今の空気は、それを武勇伝にも、事件にも変えない。
ただの、休日の夕方だ。
セレナが急に立ち止まり、くるりと振り返った。
それだけで、距離が一気に縮まる。
彼女の目が、期待を含んで蒼真を捉えた。
「蒼真、何食べたい?」
あまりに自然な問いかけだった。
蒼真は、一瞬だけ言葉を失う。
セレナは普段、こういう聞き方をしない。
命令か、確認か、必要事項の共有。
それが彼女の“通常”だ。
なのに今のは、完全に“相談”だった。
しかも、少し浮かれた声音で。
「え、えっと……」
蒼真は、真面目に考えようとして、少し困った。
この世界の食文化は、基本的に西洋寄りだ。パン、肉、スープ、香草。祭りの日だけ、揚げ物と甘味が異様に増える。
自分の胃がどちらを求めているのか、正直まだ分からない。
だが――
セレナの目が、“正解”を期待している。
それが、なぜか分かってしまう。
彼女は今、勝利の余韻を一緒に味わってくれる相手を探している。
つまり、ここで「何でもいい」は、たぶん駄目だ。
「……落ち着いた店がいいです。静かで、ちゃんと座れるところ」
蒼真がそう答えると、セレナは少し眉を上げた。
「ふむ……」
真剣に考える顔。
それから、すぐに小さく頷く。
「分かりましたわ」
その返事が、どこか嬉しそうなのが、蒼真には分かった。
セレナは歩き出し、店の看板を一つ一つ確認していく。
やけに真面目だ。
なのに足取りは軽い。
蒼真は、そのちぐはぐさに、思わず笑いそうになり、咳払いで誤魔化した。
通りには、飲食店が並んでいる。
小さな酒場、家族向けの食堂、大会帰りの客で賑わう店。
セレナはその中で、少し奥まった場所にある店の前で足を止めた。
木製の扉に、柔らかな灯りが漏れている。
外の喧騒が、自然と遠ざかる場所。
「ここ……どうかしら」
控えめな問いかけ。
普段の彼女なら、「入りますわよ」で終わるはずなのに。
蒼真は、その変化を、はっきりと感じ取る。
「いいですね。じゃあ、ここにしましょう」
セレナは、ほんの一瞬だけ口元を緩めた。
「ええ」
そう言って、扉を押し開ける。
店内は、外より少し暗く、落ち着いた空気だった。木の匂いと、煮込み料理の香りが鼻をくすぐる。
客層は静かで、剣術大会の話題も、ここでは小声だ。
蒼真は、内心で安堵する。
――ここなら、セレナも落ち着ける。
案内されたのは、窓際の小さなテーブル。
セレナは椅子に腰掛けると、背筋を伸ばしたまま、深く息を吐いた。
「……やっと、落ち着きました」
蒼真は小さく頷く。
「さっきは……大丈夫でしたか?」
セレナは一瞬だけ真面目な顔になり、すぐに視線を逸らした。
「大丈夫ですわ」
短い返事。
だが、その奥に別の言葉が隠れているのを、蒼真は感じ取る。
“あなたがいたから”。
それでも、言葉にはしない。
それが、セレナという人だ。
店員が水とメニューを置いていく。
セレナは、迷うことなく注文した。
「肉の煮込みと、パン。それと……甘いものも少し」
蒼真は、思わず眉を上げる。
「甘いもの、好きなんですか?」
「嫌いではありませんわ」
即答だが、どこか不服そう。
好きを認めるのが、負けだと思っているような顔だった。
蒼真は、思わず笑ってしまう。
「じゃあ、僕も同じのにします」
セレナが、ほんのわずかに目を丸くした。
「……同じ?」
「はい。合わせた方が、楽ですし」
合理的な理由だ。
だがセレナは、なぜか満足そうに頷いた。
「そう……」
料理を待つ間、店の灯りが二人を包む。
外の祭りの音は、もう遠い。
蒼真は、ようやく完全に肩の力を抜いた。
セレナは、コップの縁を指でなぞりながら、静かに言う。
「……正直に言いますわね」
蒼真は顔を上げる。
セレナの目は、真剣だった。
「最初は……止めるべきだと思っていました」
蒼真は否定しない。
「はい」
「でも……途中から」
言葉を探す沈黙。
剣なら迷わない人が、言葉では迷っている。
「止めたら、いけないと……思いました」
蒼真は、少しだけ驚いた。
「あなたは……怖がっていないように見えましたの」
蒼真は首を傾げる。
「怖かったですよ」
それは本心だ。
「でも、怖さが……手順になっていました」
セレナの言葉に、蒼真は静かに息を吐く。
――見られていた。
自分の癖を。
「……それで、勝ちました」
蒼真は淡々と続ける。
「剣術なら、彼の方がずっと上でした」
事実だ。
「僕は、たまたま勝ち筋を見つけただけです」
自己評価は、いつも低い。
セレナはフォークを置いた。
小さな音が、テーブルに響く。
彼女の表情は、剣士のそれではなかった。
「……それでも」
まっすぐな視線。
「私は、蒼真が一番“強い”と思いました」
蒼真は、言葉を失う。
その“強さ”が、剣を指していないことは明白だった。
「……私は、そういう強さを……知らなかった」
蒼真は、ゆっくりと頷いた。
「……ありがとうございます」
店の灯りが、二人の間に静かな温度を作る。
料理の湯気が、ゆっくりと立ち上る。
その向こうで、セレナの目が少しだけ潤んでいるのを、蒼真は見た。
それが、夕食の味よりも、胸に残った。




