第29話 朝は、何もなかったことにできない
# 第29話 朝は、何もなかったことにできない
朝の光は、思っていたよりも正直だった。
カーテンの隙間から差し込む淡い陽射しが、部屋の輪郭を一つずつ現実へ引き戻していく。机の上の本の山、整えられた書類、壁際に並ぶ本棚。昨夜と同じ景色のはずなのに、どこか違って見えた。
違っているのは――距離だ。
蒼井蒼真は、目を覚ました瞬間、身動きが取れない理由を理解した。
腕が、重い。
正確には、重いというより――抱え込まれている。
視線を下げると、九条リリアがそこにいた。眠ったまま、蒼真の腕にしがみつくように体を寄せ、完全に抱き枕扱いしている。昨夜は背中合わせだったはずなのに、どういう寝返りを打ったのか、今は正面から密着していた。
柔らかな感触が、はっきりと伝わる。
(……状況が悪化しているな)
蒼真は内心で冷静に結論を出した。
リリアの髪が蒼真の首元にかかり、微かな甘い匂いがする。寝息は穏やかで、完全に無防備だ。
問題は距離だけではない。
彼女の体温と、柔らかな重みが、逃げ場のない位置で伝わってくることだった。呼吸のたびに、わずかに体が擦れ、そのたびに蒼真の意識が引き戻される。
(起こすべきか……いや、起こしたら確実に気まずくなる)
起こさなければ、この状況が続く。
起こせば、昨夜の記憶が一気に蘇る。
(詰み手が多すぎる)
蒼真が微動だにせず耐えることを選んだ、その時だった。
「……ん……」
リリアが小さく身じろぎし、さらに蒼真へ体を寄せてくる。無意識に、腕に回された手に力が入り、柔らかな部分が背中や腕に押し当てられる。
蒼真は反射的に息を止めた。
(……これは、事故だ。事故だが……)
心臓が、うるさい。
昨夜は理性で抑えられていた感覚が、朝の無防備さによって一気に前に出てくる。
その直後、リリアのまぶたがゆっくりと開いた。
数秒。
焦点が合うまでの、静かな時間。
目の前にいる蒼真の顔を認識し、状況を理解し――
リリアの顔が、みるみる赤く染まる。
「……おはよう……蒼真」
寝起きの、少し掠れた声。
蒼真は平静を装い、短く返す。
「……おはよう」
その瞬間、二人の脳内で同じ言葉が浮かんだ。
――近い。
――近すぎる。
「っ……!」
リリアは勢いよく身を起こし、布団を引き寄せて距離を取る。
「わ、わすれて……! 今の、今の全部なし!」
必死な声。布団の向こうで、もぞもぞと動く気配がする。
蒼真もすぐに視線を逸らした。
「……ああ。今のは、なかった」
昨夜のことは、消せない。
だが、今朝のこれは――なかったことにするしかない。
そういう暗黙の合意が、静かに成立した。
しばらくして、二人は時間をずらして身支度を整えた。
休日用の軽い服に袖を通すと、不思議と背筋が伸びた。制服ではない分、昨夜の距離感がそのまま残り、かえって意識してしまう。
リリアは鏡の前で髪を整えながら、ちらりと蒼真を見る。
「……昨日は、本当にありがとう」
声は落ち着いているが、耳は赤い。
「怖かったけど……蒼真がいたから、ちゃんと朝になった」
少しだけ、踏み込んだ言い方。
「当然だ」
蒼真は短く答える。それ以上を言えば、また空気が揺れる気がした。
廊下へ出ると、学園は休日らしい静けさに包まれていた。授業の鐘は鳴らず、人影もまばらで、遠くから鳥の声が聞こえる。
二人で並んで歩く。
「蒼真」
呼び捨てにされるのが、もう自然だった。
「どうした」
「……今日が休日でよかった」
「どうして」
「心の整理が……必要だから」
正直な言葉。
蒼真はそれに否定も肯定もしなかった。ただ歩調を合わせる。
その空気を切り裂くように、伝令の声が響いた。
「蒼井蒼真殿、九条リリア殿。校長室へ」
「……やっぱり呼ばれるよね」
「事実を話せばいい」
校長室は朝の光に満ちていた。窓から差し込む光が、重厚な家具を柔らかく照らしている。
「蒼井殿、今回もお疲れ様であった」
「いえ」
校長は穏やかにリリアへ向き直る。
「リリア殿、怖い思いをさせてすまなかった。アルベルトは退学処分とした。部屋の鍵もすでに交換手配をしておる」
「は、はい……ありがとうございます」
緊張しながらも、きちんと頭を下げるリリア。その肩は、まだ少し固い。
校長は蒼真を見て微笑んだ。
「君は、いつも正しい場所に真実を置く」
含みのある言葉。
蒼真は答えず、視線だけで受け取った。
「図書委員長の席が空いた。どうかな」
「冗談でしょう」
「本、好きじゃろ?」
「嫌いではありませんが……一年生です」
「それもそうじゃな」
校長はくつりと笑い、リリアへ視線を移す。
「委員内で話し合ってくれたまえ」
「……はい」
校長室を出た瞬間、リリアは大きく息を吐いた。
「はぁ……寿命縮んだ……」
「大げさだな」
「大げさじゃない! 本当にすごい人なんだから」
二人で顔を見合わせ、くすりと笑う。
廊下の角で、リリアが足を止めた。
「……ねえ、蒼真」
「ん?」
「御礼、ちゃんとしたいの」
少しだけ視線を逸らしながら。
「今度の週末……行きたいところ、ある?」
完全に能動的な誘い。
蒼真は一拍置き、答える。
「……考えとく」
中庭へ向かうと、噴水の水音が心地よく響いていた。休日の学園は、時間そのものが緩んでいるように感じられる。
その途中で、金髪の少女が立ち止まった。
「……大丈夫でしたの?」
ルミエールだった。休日の装いでも、凛とした空気は変わらない。
「ああ。もう終わった」
短い返答。
ルミエールは一瞬だけリリアを見て、何かを悟ったように微笑む。
「……それなら、よかったですわ」
去っていく背中を見送りながら、蒼真は思う。
休日であっても、世界は止まらない。
むしろ――
静かな時間だからこそ、変化ははっきりと残っていた。




