第30話 白と黒の休日
# 第30話 白と黒の休日
休日の朝は、学園の空気まで柔らかかった。
授業の鐘が鳴らないだけで、城塞のように巨大なノクティス魔法学園は、まるで別の建物みたいに静かになる。廊下の足音は少なく、窓から差し込む光はゆっくりと床を滑り、遠くの中庭では噴水の水音だけが、一定のリズムで響いていた。
蒼井蒼真は、その噴水広場へ向かう途中、自分が少しだけ落ち着かないことに気づいていた。
事件もない。
呼び出しもない。
目的は、ただの「休日の外出」――それだけのはずなのに。
(……これ、デートって言うんだよな)
内心で確認して、すぐ打ち消す。
言葉にすると余計に意識してしまう。だから、いつも通り。淡々と。必要なことだけ。
そう結論づけて正門へ出ると、噴水広場の縁に立つ一人の少女が目に入った。
白を基調に、黒で引き締めた清楚な装い。派手ではないのに、丁寧に選ばれたことが一目でわかる。襟元はすっきりしていて、袖口や裾のラインが上品で、腰の位置を綺麗に見せる仕立てだった。胸元は露骨ではないが、自然なラインがきれいに出ていて、姿勢よく立つたびに存在感がはっきりする。
九条リリア。
いつもの制服姿と違うだけで、こうも印象が変わるのかと、蒼真は言葉を探してしまった。
リリアは蒼真に気づくと、ほっとしたように表情を緩めた。
「……おはよう、蒼真」
「おはよう。早いな」
「う、うん。待たせるのは嫌だったから」
言いながら、無意識に服の裾を整える。その仕草がどこか落ち着かず、蒼真は一瞬、視線の置き場に困った。
上から下へ眺めるのは失礼だ。
かといって、目を合わせ続けるのも落ち着かない。
蒼真が「噴水を見る」という第三の選択肢へ逃げた瞬間、リリアが小さく首を傾げた。
「……なにか変?」
「……いや」
「ほんとに?」
二回目。
蒼真は諦めた。
「服、似合ってる」
「え?」
「今日の。普段と……雰囲気違う」
言った途端、リリアの耳まで赤くなる。
「そ、そう? ……変じゃない?」
「変じゃない」
「……本当に?」
三回目。
蒼真は小さく息を吐いた。
「本当に。だから落ち着け」
「……う、うん」
リリアは胸元に手を当てて小さく深呼吸する。その動きに合わせて、柔らかなラインが自然に強調され、蒼真は一瞬だけ視線を逸らした。
(……落ち着けるのは、俺の方か)
歩き出すと、リリアが隣に並ぶ。距離は近いが、触れない。触れないはずなのに、歩調が合うだけで意識してしまう。
「行き先、どうする?」
「……俺の希望は、ある」
「なに?」
「この世界を、ちゃんと知りたい。観光じゃなくて、生活の方」
リリアは少し驚いたあと、嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、街を歩きながらにしよ。案内、任せて」
「頼む」
「ふふ……任されるの、嫌いじゃない」
リリアはそう言って、自然に胸を張った。
――その仕草が、やけに大人っぽい。
学園から街へ向かう道は、石畳が続いていた。休日のせいか人通りは穏やかで、露店の呼び込みの声もどこかのんびりしている。
「ここね、学園の外周をぐるっと囲むように街が広がってるの。学園関係者の店が多いけど、平民街に繋がる通りもある」
「学園の外に街があるって、合理的だな」
「蒼真、そういうところ、やっぱり変」
「どこが」
「普通は『きれい』とか『すごい』って言うの」
「……きれいで、すごい」
蒼真が淡々と言い直すと、リリアが吹き出した。
「そういう言い方じゃない!」
笑うと、リリアは少しだけ顔を近づける。近い。
蒼真は視線を正面に固定した。
(……今日は視線を外すタイミングが難しい)
最初に立ち寄ったのは魔法道具屋だった。
店の扉を開けた瞬間、香草と金属の混じった匂いがする。棚には、触れると微かに光る石、魔力で自動で温まる湯たんぽ、風を溜めて放つ小瓶、虫除けの結界札――生活の中で使う「魔法」が当たり前に並んでいた。
「これは、火を起こす石。魔力を少し流すと……ほら」
リリアが指先で触れると、石の表面がぽっと赤くなる。
「危なくないのか」
「普通は危なくないように刻印が入ってる。家庭用は火力が制限されてるの」
説明が始まると、リリアは途端に早口になった。
楽しいのが伝わってくる。
蒼真は頷きながら質問する。
「じゃあ、刻印を改造したら火力が上がる?」
「上がるけど……それ、犯罪者の発想!」
「構造の確認だ」
「言い訳っぽい!」
笑いながら突っ込むリリアの肩が、蒼真の腕に軽く当たった。
リリアがはっとして一歩下がる。
「……近かった?」
「今さらだろ」
そう返すと、リリアは一瞬固まり、すぐに視線を逸らした。
「……今さら、って……」
小声で何か言ったが、蒼真には聞こえないふりをした。
次に入ったのは衣料品店。
休日の服だけでなく、学園の実技用ローブ、魔力を通しやすい布、温度調整の繊維――いわゆる「機能服」が並ぶ。
「これ、魔力を少し流すと、体温を一定に保つの」
「便利だな」
「寒い地方の人には必需品。……あと、汗をかきたくない貴族にも人気」
「なるほど、見栄のための科学」
「科学じゃないし!」
リリアが笑いながら袖を引っ張った。
「こっち。蒼真に似合いそうなコートがある」
「俺?」
「うん。……その、ほら。黒系」
彼女が選んだのは、シンプルだが上質そうな黒の外套だった。試着を促され、蒼真が肩にかける。
鏡の前で、リリアが真剣な顔で頷いた。
「……うん。いい」
「何が」
「蒼真、こういうの着ると……ちゃんと“この世界の人”に見える」
その言い方が、妙に胸に残った。
蒼真は、それを深く考えないようにした。
雑貨屋では、店員に笑顔で声をかけられた。
「お二人でお揃いにしますか?」
「違います!」
二人同時の否定。
だがその直後、同じ色合いの小さなチャームを手に取ってしまい、二人は顔を見合わせた。
「……偶然」
「偶然」
同時に言って、また同時に笑う。
リリアはチャームを指先で弄びながら、ふと真面目な声になった。
「……ねえ、蒼真」
「ん」
「こういうの、楽しい?」
「悪くない」
短い返事。
それでもリリアは嬉しそうに頷いた。
「よかった。……私、こういう普通の休日、好き」
「普通、な」
「うん。普通。事件がなくて、怖いことがなくて……」
そこまで言って、リリアは口をつぐむ。
蒼真は何も言わなかった。
言葉にしなくても、彼女の震えが消えたことはわかったから。
昼前、街の外れにある魔法動物園へ向かった。
門をくぐると、甘い草の匂いと、どこか薬草のような香りが混ざっている。檻というよりは、結界で区切った広い展示が多く、生き物たちはのびのびしていた。
「ここはね、危険な魔法生物もいるけど、基本は保護施設みたいなもの」
「動物園ってより、研究所に近いな」
「蒼真、言い方が理系すぎる!」
リリアが笑い、次の瞬間、小さな生き物を見つけて足を止めた。
光る毛並みの小動物が、木の陰から顔を出している。耳が長く、目が大きい。触れると指先が少しだけ温かくなるらしい。
「かわいい……!」
リリアが屈み、目線を合わせて話しかける。
「こんにちは。怖くないよ」
その声が、普段より柔らかい。
小動物が近づき、リリアの指先をくんくんと嗅いだ。
リリアの表情が、完全に「素」になる。
蒼真は、その横顔に目を奪われ、すぐに目を逸らした。
(……やっぱり、今日は危険だ)
人混みの中で子どもが走ってきて、リリアにぶつかりそうになった。
蒼真は反射的にリリアの肩を引き、少しだけ自分の側へ寄せる。
リリアの体温が、一瞬近づく。
「……ありがとう」
小さな声。
「当然だ」
蒼真が答えると、リリアは少し名残惜しそうに離れた。
昼食は園内のカフェに入った。
窓際の席。外の芝生と、遠くの魔法生物の展示が見える。
「ここ、落ち着く」
リリアがメニューを開きながら言った。
「甘いの、好き?」
「甘いのは……嫌いじゃない」
「嫌いじゃない、ってなにそれ」
「好きって言うと負けた気がする」
「誰に?」
「……自分に」
蒼真の真顔に、リリアが笑った。
注文が来るまでの間、リリアが机の上に小さな本を置いた。
「これ、さっき本屋で見つけたの」
「推理小説?」
「うん。魔法が出てこないやつ。……ほら、こういうの」
リリアは嬉しそうにページを開き、好きな箇所をさらりと紹介する。言葉が生き生きとして、目が輝いている。
「好きなんだな」
「好き。……蒼真も、こういうの好きでしょ?」
「嫌いじゃない」
「またそれ!」
リリアが頬を膨らませた。
その膨らませ方が、昨日までの彼女と違う。
蒼真は、ふっと思った。
彼女は今、安心して甘えている。
その事実が、胸の奥を少しだけ熱くした。
食事のあと、街へ戻る。
露店が並ぶ通りは人が増えていた。魔法のランタンが吊るされ、子どもたちが風船のように浮かぶ光球を追いかける。
リリアが人の流れに呑まれそうになり、無意識に蒼真の袖を掴みかける。
だが、恥ずかしいのか指先が止まり、空中で迷って引っ込む。
それを蒼真は――見ないふりをした。
代わりに、露店の奥に面白そうな品を見つけた。
「こっち」
蒼真は無意識にリリアの手首を取って、人の波から引き出した。
はっとして振り返る。
リリアは驚いたまま固まっていた。
頬が赤い。
耳も赤い。
そして――手を離そうとしない。
(……俺がやったのか、今)
蒼真は自分の手を見た。
リリアの細い指。
温かい。
「……嫌なら言え」
「……言わない」
リリアは小さく答え、指先に少し力を込めた。
その力は、拒否じゃない。
むしろ、確かめるように。
蒼真は、無言で歩き出した。
手はそのまま。
離れない。
しばらく歩いて、リリアが小さく囁いた。
「……ねえ、蒼真」
「ん」
「手、……熱い」
「……暑いなら離すか?」
「……離さない」
即答。
蒼真は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
夕暮れ、街の高台へ。
学園の塔が遠くに見え、その周囲に街の灯りがぽつぽつとともり始める。魔法灯は炎ではなく、淡い光を静かに揺らし、石畳を柔らかく照らした。
白と黒の装いは、夕光の中で溶け合うように馴染んでいる。
リリアは隣で立ち、手を繋いだまま空を見上げた。
「……綺麗」
珍しく、素直な言葉。
「そうだな」
蒼真が返すと、リリアは小さく笑って、少しだけ蒼真の方へ体を寄せた。
「……今日は、楽しかった?」
「楽しかった」
蒼真の即答に、リリアは目を丸くした。
「……即答するんだ」
「嘘を言う理由がない」
「それは……そうだけど」
リリアは言葉を探すように唇を開き、閉じて、また開いた。
「……私ね」
言いかけて、止める。
蒼真は促さなかった。
今、言葉にしてしまうと――この景色まで、別の意味になってしまう気がしたから。
代わりに蒼真は、空を見たまま言う。
「……また来るか」
それは質問ではなく、確認のような口調だった。
リリアは一瞬だけ固まり、次の瞬間、満面の笑みになった。
「……うん。絶対」
手が、少しだけ強く握り返される。
事件も謎もない一日。
それでも蒼真にとっては、この世界を歩く確かな一歩だった。
そして――
隣にいる彼女の温度が、もう「ただの被害者」ではないことを、はっきりと教えていた。




