第28話 夜が終わったあとで
# 第28話 夜が終わったあとで
事件は、すでに終わっていた。
九条リリアの部屋には、静けさだけが残っている。魔導灯は落とされ、カーテン越しの月明かりが、机と本棚の輪郭を淡く縁取っていた。整えられた机、積まれた書物、几帳面に並んだインク瓶――理屈で世界を整えてきた彼女の居場所。
今夜は、その秩序が、かえって心細い。
蒼井蒼真は、部屋の中央に立ったまま、騒がず、急がず、ただ同じ空間にいることを選んでいた。廊下へ戻る気配も、言い訳もない。いる、という事実だけが、確かな重みを持っている。
リリアはベッドの縁に腰を下ろし、指先を重ねた。呼吸は浅く、胸の奥はまだ冷たい。
蒼真はいつもと同じだった。焦らない。騒がない。目の前の現象を、ただ確かめるように見ている。
それが、今夜は――救いだった。
「……これで、解決……だよね」
自分でも驚くほど、幼い声になった。涙が浮かんで視界が滲む。リリアはまばたきを繰り返しながら、蒼真の顔を追いかける。
蒼真は短く頷いた。
「ああ。解決だ」
言い切られると、胸の奥がほどける気がした。
次の瞬間、蒼真の手が、リリアの頭にそっと置かれた。
優しく撫でる。
髪を乱すでもなく、子ども扱いするでもなく、ただ――「ここにいる」と伝える触れ方。
リリアの喉が鳴った。涙が一つ、頬を滑り落ちる。
「……どうして……先輩が……」
言葉が続かない。
リリアは必死に呼吸を整えながら、途切れ途切れに絞り出した。
「尊敬、してたのに……」
図書委員長。
穏やかで、博識で、いつも落ち着いていて。館内の秩序を守る人。魔法理論にも明るく、質問すれば丁寧に答えてくれる。
――だから、信じていた。
信じたから、隙を作った。
リリアは指を握りしめた。
「私、ばかだよ……。図書室の規則とか、鍵の管理とか、記録の整合性とか……そういうのは厳密にしてたのに……肝心なところが……」
蒼真の手が止まった。
リリアは、責められる気がして、身構える。
でも蒼真は責めなかった。
「隙があったのは事実だ」
淡々とした声。
リリアの胸がきゅっと痛む。
けれど蒼真は続ける。
「だからって、犯罪を選んだ理由にはならない。そこは切り分けろ」
リリアは目を見開いた。
「……切り分ける……」
「おまえが“隙を作った”のと、あいつが“やった”のは別だ。混ぜたら、責任の場所がズレる」
蒼真はそう言って、もう一度だけ、リリアの頭を撫でた。
「……リリアは、悪くない」
その言葉は、慰めではなく「結論」だった。
リリアの体から、ふっと力が抜けた。
泣きたいのに泣けない夜に、結論だけが必要なことがある。
リリアは小さく頷き、唇を噛んだ。
「……ありがとう……」
沈黙が落ちる。
部屋の中で、魔導灯の微かな音だけがする。
蒼真は床を見つめ、何かを計算するように眉間にしわを寄せた。
そして、まるで日常の雑談のような口調で言う。
「……今夜、一人で寝られる?」
リリアは息を呑んだ。
蒼真は自分で答えを見つけたように苦笑する。
「……無理だよな」
その苦笑が、なぜか嬉しかった。
――理解されている。
それだけで、世界が少しだけ優しくなる。
「うん……」
リリアは頷き、恐る恐る言った。
「蒼真……一緒にいて……」
呼び捨て。
それは衝動ではなく、リリアが自分で決めた呼び方だった。事件が起きてから、意識して距離を縮めるために、もう「さん」は使わないと決めていた。
蒼真は言い直しを求めなかった。
「わかった。じゃあ、こっちのベッド使わせてもらう」
部屋の奥にはツインベッドが並んでいる。片方は整えられたままの客用。蒼真は迷いなく空いている方へ向かい、シーツに触れて確認した。
その背中を見ているだけで、リリアの胸の痛みが少し薄れる。
――でも。
それでも。
リリアは喉の奥で、言葉が膨らむのを感じた。
今夜だけ。
今夜だけは。
「……わがまま、言ってもいい?」
自分でも驚くほど、弱い声。
蒼真はベッドの端に腰を下ろし、こちらを見た。
「おう。今日はいいぞ」
あっさり。
その一言が、リリアの心の堤防を緩めた。
リリアは視線をさまよわせ、指先をもじもじさせる。理論派の自分が、一番苦手な行為だ。
「その……」
言え。
今言わなきゃ、もう言えない。
「……一緒のベッドで……寝たい……」
言った瞬間、顔が熱くなった。
蒼真の目が大きくなる。
「……っ」
蒼真は口を開きかけ、すぐに閉じた。眉が寄る。
「それは……さすがにまずいだろ……」
まともな反応。
わかっている。
わかっているのに。
リリアは頬を伝う涙を指で拭いきれず、俯いた。
「……ごめん……なさい……」
情けない。
わがままを言うって、こんなに怖い。
蒼真は長く息を吐いた。
そして――リリアの泣き顔から目を逸らすように、天井を見上げ、ぼそっと言った。
「……わかった」
リリアは顔を上げる。
「……え」
「泣いてるやつを置いて、寝れない」
照れも飾りもない。
ただの事実として言う。
その言い方が、またずるい。
「……ありがとう……」
リリアは小さく笑いそうになって、泣きそうになった。
――この人は、いつもそうだ。
特別な言葉は言わない。
でも、行動が先に答える。
その後、二人は時間をずらしてシャワーを浴びることにした。
蒼真が「先に入ってこい」と言い、リリアは一度だけ頷いた。
浴室へ向かいながら、リリアは自分の心臓がまた早くなるのを感じた。
――一緒のベッド。
言ってしまった。
でも、蒼真は拒絶しなかった。
リリアは熱いシャワーを浴びながら、何度も顔を洗った。
湯気の向こうで、涙が溶けていく。
そして着替え。
白を基調としたシンプルなパジャマ。胸元は詰まっているが、柔らかな布が体の線をわずかに拾う。濡れた髪をタオルで拭き、いつものきっちりした結い方ではなく、少しだけふわっと下ろす。
鏡の中の自分が、いつもより幼く見えた。
――こんな姿、誰にも見せたことない。
でも。
今夜は。
リリアは部屋へ戻った。
蒼真は机の横に立ち、本の背表紙を眺めていた。あくまで「待っている」姿勢。
「……おかえり」
蒼真がちらりとこちらを見る。
その視線が一瞬、リリアの髪とパジャマに止まる。
リリアの胸が跳ねた。
蒼真はすぐに視線を戻し、何事もなかったように言う。
「……温まったか」
「う、うん」
平静を装う。
でも蒼真の耳が、ほんの少し赤い気がした。
リリアはそれを見逃さなかった。
――見てる。
見てるくせに、見てないふり。
その不器用さが、妙に愛おしい。
今度は蒼真がシャワーへ向かい、リリアはベッドに腰を下ろして待った。
部屋の静けさはまだ残っている。でもさっきほど怖くない。
蒼真がここにいるから。
蒼真が戻ってきたのは、髪を軽く拭いた後だった。制服ではなく、寮の簡素な部屋着。肩の力が抜け、普段よりも少しだけ柔らかく見える。
「蒼真……」
リリアはベッドの端を叩いた。
「隣、座って」
「……どうした」
「ちょっと……話そう」
蒼真は一瞬迷うように見えたが、結局ベッドに腰を下ろした。距離は、拳一つ分。
近い。
近すぎる。
でも、今夜はそれでいい。
「何を話す」
リリアは指先でシーツをなぞりながら、少し照れたように笑った。
「……本の話、してもいい?」
「本?」
「うん。こういう時、私……落ち着くから」
リリアは枕元に置いていた文庫本を手に取った。背表紙は何度も読み返した跡で、角が少し丸くなっている。
「推理ものなんだけど、魔法はほとんど出てこないの。人の勘違いとか、思い込みとか……そういうのを一つずつほどいていく話」
「へえ」
「結末は知ってるのに、何度も読むの。……安心するの」
蒼真はその本に視線を落とし、小さく頷いた。
「おまえらしいな」
蒼真の声はいつも通り。
リリアはその声に背中を押される。
「……私のこと、どう思う?」
言った。
言ってしまった。
蒼真が目を瞬かせる。
「どうって……」
言葉に詰まった。
リリアは胸の前で指を絡め、蒼真の顔を見上げる。眼鏡は外している。代わりに視界は少しぼやけて、蒼真の輪郭が柔らかい。
蒼真は頭を掻き、観念したように言った。
「……真面目。頭いい。観察が細かい。……あと、頑固」
「頑固は余計!」
思わずツッコミが出た。
蒼真が小さく笑う。
その笑いが、リリアの胸をきゅっと掴む。
「……でも、嫌いじゃない。ちゃんと筋を通すやつは、信用できる」
リリアは口を開けたまま固まった。
信用。
蒼真の口から、その言葉が出る重さを知っている。
「……それって……」
喉が渇く。
言いたい。
今夜のわがままを、もう一段だけ。
でも、勇気が足りない。
蒼真は続ける。
「それに、理屈だけじゃなくて……怖いって言えるのも、ちゃんと強い」
リリアの目の奥が熱くなる。
「……ありがとう……」
声が震えない。
さっきまでとは違う震え。
――嬉しい震え。
リリアは少しだけ笑った。
そして、意地悪く聞いてみたくなった。
自分でも驚くほど、自然に。
「……じゃあ、ルミエールさんは?」
蒼真が露骨に「ややこしい質問をされた」顔をする。
「どうして、ルミエール?」
「……なんとなく」
なんとなくじゃない。
わかってる。
リリアは胸の奥で、小さな嫉妬をころがした。
蒼真は困ったように視線を逸らし、それでも誠実に答えようとする。
「……ルミエールは、強い。責任感あるし、周りを引っ張る。……助けようとしてるのに、助けられるのが苦手なタイプだな」
褒めている。
すごく。
しかも的確。
リリアはむすっと頬を膨らませた。
「……もういい」
「いや、なんでだよ」
「寝ましょ」
リリアはぷいっと横を向く。
蒼真が困ったように眉を寄せる気配がする。
「……おまえ、今、わざとだろ」
「わざとじゃない」
「絶対わざとだ」
声に笑いが混じっている。
リリアはそれが悔しくて、ベッドに潜り込むように横になった。
「……蒼真、電気……」
「ああ」
魔導灯の光が落ちる。
部屋は暗くなる。
でも真っ暗ではない。月明かりがカーテンの隙間から差し込んで、床に淡い四角を描いている。
蒼真がベッドに入ってくる気配。
リリアは自分の心臓の音が聞こえるのが恥ずかしかった。
二人は、背中合わせになる。
肌越しに、相手の体温が伝わる距離。
リリアは小さく息を吐いた。
「……蒼真と、こうやって寝ることになるなんて……思わなかった」
「俺もだ」
二人で、小さく笑う。
その笑いが、夜の残りを溶かしていく。
リリアは勇気を出して、もう一つだけ聞いた。
「……また、何かあったら、助けてくれる?」
蒼真の返事は、迷いがなかった。
「もちろんだ」
胸が、ぎゅっとなる。
今、言ってしまえば。
今なら、言える気がする。
リリアは唇を開きかけた。
「……私ね……」
――すき。
その二文字が、喉の奥で引っかかる。
出てこない。
代わりに、蒼真の背中に手を伸ばしてしまった。
指先が触れた瞬間、蒼真の体がわずかに硬くなる。
リリアの掌に、温かさが広がった。
「……リリア、さん?」
蒼真が振り返ろうとする。
リリアは慌てて、蒼真の背中に額をつけた。
「こっち、向かないで……」
声が掠れる。
「……しばらく、このままにさせて……」
言って、リリアは蒼真の腰にそっと手を回した。抱きつくというより、確かめるように。
背中越しに伝わる体温に、柔らかな重みがそっと重なる。呼吸のたびに、意識せずとも伝わってくる温もりに、蒼真の背中がわずかに強張った。
それでも、拒まない。
蒼真の背中が、ほんの少しだけ緩む。
「……わかった」
小さな声。
その瞬間、リリアの胸の奥がじんわりと温かくなった。
言えなかった言葉が、代わりに体温になって伝わっていく。
リリアは目を閉じた。
蒼真の背中に、そっと頬を寄せる。
月明かりの四角が、床の上で静かに揺れていた。
夜は、まだ終わらない。
けれど――
恐怖の夜ではなくなっていた。




