第27話 鍵は、最初から奪われていた
第27話 鍵は、最初から奪われていた
◇
――少し、時間を戻そう。
事件が起こる前日の夜。
場所は、九条リリアの部屋だった。
部屋の明かりは落とされ、スタンドライトだけが机の上を淡く照らしている。昼間なら本の山に埋もれているであろう空間も、今は異様なほど静かで、壁際の時計の音だけが規則正しく響いていた。
その音が、リリアの神経を逆なでする。
彼女はベッドの縁に腰掛け、両手を強く握りしめていた。
「……私は、どうすればいいの?」
声は小さく、今にも消えそうだった。
向かいに立つ蒼井蒼真は、しばらく黙っていた。慰めの言葉を探しているわけではない。感情を整理しているわけでもない。
――順番を決めている。
何から話すべきか。何を最初に伝えれば、彼女が一番混乱しないか。
「まず……犯人の話だ」
蒼真は静かに切り出した。
「おそらく、犯人は――図書委員長のアルベルトだ」
「……そんな……」
リリアの目が見開かれる。
「委員長が……? あの人が、そんなこと……」
信頼していた相手の名前が出た瞬間、声が震えた。怒りよりも、裏切られたという感覚の方が強い。
蒼真は頷いた。
「だからこそ、だ」
蒼真は机の上に置かれていた鍵を指差す。
「リリア。君は、自分の部屋の鍵を“無くした”と言っていたね」
「ええ……でも、ほんの数分よ。すぐに見つかったし……」
「その数分で十分なんだ」
蒼真は淡々と告げる。
「鍵は、開けるだけのものじゃない。複製できる」
リリアが息を呑む。
「柔らかい素材――粘土みたいなものに、鍵をぎゅっと押し付ければいい。型が取れる。その型を使えば、時間をかけて同じ形の鍵を作れる」
「……そんな……」
「だから、リリアの部屋はもう“密室”じゃない」
蒼真の言葉は、事実だけを切り出していた。だが、それは刃のように鋭かった。
「……嘘……怖い……」
リリアの肩が震える。
蒼真は一歩近づいた。
「大丈夫だ。俺が、リリアを守る」
短い言葉だったが、不思議と迷いはなかった。
◇
「それから、ドアガードだ」
蒼真は扉の前に立ち、内側から掛けられている簡易のドアガードを指差した。
「鍵が開けられるなら、次に疑うのはこれだ。――輪ゴム一つで外せる」
「……え?」
「見せる」
蒼真は机の引き出しから、細めの輪ゴムを一本取り出した。特別なものではない。文房具としてどこにでもある、ごく普通の輪ゴムだ。
「まず、廊下側で一度ドアを少し開ける。完全に開ける必要はない」
蒼真は“仮定”としての手順を示す。実際に外へ出ることはせず、動作だけをゆっくりと再現した。
「次に、ドアガード――このU字の金具の片側に、輪ゴムを通して結ぶ」
指で形を描きながら説明する。
「結び目は、この先端。ガードが引っかかっている“爪”の部分に移動させる」
蒼真は、輪ゴムが先端に掛かった状態を空中で作ってみせた。
「ここからが肝だ。輪ゴムをぴんと伸ばして、室内側のドアの――対角線上になる位置に、引っかける」
蒼真は扉の内側、下方の取っ手付近を指す。
「この状態で、ドアを静かに閉める」
蒼真は、閉まる動作を手でなぞった。
「ドアが閉まる力で、輪ゴムが引っ張られる。すると、ガードの先端が引き上げられて……」
彼は、親指を使って“外れる瞬間”を示す。
「――ガードが、開く」
言葉の最後に、蒼真は小さく付け足した。
「音は、ほとんど出ない」
リリアの顔から、すっと血の気が引いた。
「……やだ……」
喉から絞り出すような声。
「鍵が複製されているなら、この方法で十分だ。道具も特別な力もいらない。だから――今まで気づかなかった」
蒼真は一拍置いてから、続けた。
「もう一つ、確認したいことがある。図書委員の仕事が終わった後、アルベルトから食べ物か、飲み物をもらってないか?」
「……うん。第六日の本の整理の後は、いつも。お疲れ様って」
「やっぱりな」
蒼真は小さく息を吐いた。
「おそらく、睡眠薬が入ってる。だから君は、第六日の夜だけ、ちょっとの物音じゃ起きない」
「……どうしたら……」
泣きそうな声。
「明日は、飲むふりをするだけでいい。絶対に飲まない」
リリアは何度も頷いた。
「……でも……明日の夜、この部屋にいたくない……」
「もちろんだ」
蒼真は即答する。
「今夜と明日の夜は、俺とユリウスの部屋に泊まればいい」
「……え? 本当に?」
「ああ。そして、明日の夜は――俺がここで寝る」
リリアは息を呑んだ。
「大丈夫……?」
「任せろ」
その一言で、作戦は決まった。
◇
――第五日の夜。
蒼真とユリウスの部屋。
「ユリウス。今夜、リリアを泊めるけど、いいか」
「うん。どうしたの?」
「ちょっと、匿う必要が出てきた」
「わかったよ」
扉の前で、リリアが頭を下げる。
「九条リリアです。よろしくお願いします」
ユリウスは満面の笑みで応じた。
「ユリウス・フィオレです。蒼真の愛人です」
「お、おい……!」
「……かわいい……え、愛人!?」
「冗談だよ。……半分は」
「誤解を招く言い方をするな!」
リリアは一瞬むすっとしたが、すぐに小さく笑った。
その笑顔を見て、蒼真は胸の奥で静かに息を吐いた。
――守らなければならない。
◇
――事件当日。
夕暮れの光が、図書室の高窓から斜めに差し込んでいた。
本棚の影が長く伸び、床の上で重なり合う。昼間の喧騒が嘘のように、図書室には静かな疲労だけが残っていた。
「これで、今日の整理は終わりだな」
アルベルトの声が、室内に響く。
「お疲れ様でした……」
図書委員たちが、それぞれ肩を回したり、深く息を吐いたりしながら返事をする。
リリアも、無意識に肩をさすっていた。
確かに疲れている。頭も、少しぼんやりする。
――だからこそ、注意しなければならない。
リリアは、蒼真の言葉を思い出していた。
『飲むふりをするだけでいい。絶対に飲まない』
アルベルトは、慣れた手つきで箱を開けた。
中には、小瓶と包み菓子が整然と並んでいる。
「皆、今日もよく頑張った。ほら、いつものだ」
一人ずつに手渡される飲み物。
リリアの番が来る。
「お疲れ、リリアくん」
いつもと変わらない声音。
いつもと変わらない笑顔。
――でも、今日は違う。
リリアは受け取ると、軽く微笑んで見せた。
「ありがとうございます」
そして、唇に触れる寸前で止める。
香りだけを吸い込み、喉を動かしたふりをする。
飲み込んだ“演技”。
心臓が、どくんと強く脈打った。
アルベルトの視線が、一瞬だけ鋭くなる。
だが、それはすぐに柔らかなものへ戻った。
「今日は、いつもの彼はいないね」
何気ない雑談のように。
けれど、その問いは探るようでもあった。
「ええ。なんでも、部活に入ったみたいです」
リリアは、事前に打ち合わせた通りの答えを返す。
「そうか。それは残念だな」
アルベルトは笑った。
その笑みの奥に、何があるのか――今のリリアには、はっきり分かる。
「では……お先に失礼します」
それ以上、話を広げない。
リリアは本を抱え直し、足早に図書室を出た。
背中に、視線を感じる。
振り返らない。
振り返ってはいけない。
扉が閉まり、足音が遠ざかる。
その背中を、アルベルトは無言で見つめていた。
◇
夜。
寮の廊下は、昼間とは別の顔をしていた。人の気配はほとんどなく、ランプの光が一定の間隔で床を照らしているだけだ。その光の円を踏み越えるたびに、靴音がやけに大きく響く気がする。
「さてと……行ってくる」
蒼真は、できるだけ普段と変わらない調子で言った。
ユリウスはベッドに腰掛けたまま、少し不安そうに眉を下げる。
「……本当に、大丈夫なんだよね?」
「大丈夫だよ。危なくなったら、すぐ引く」
それは半分本当で、半分は約束だった。
部屋の奥で、リリアが小さく手を握っている。
「……気をつけてね」
声が、かすかに震えている。
「お願い……」
蒼真は振り返り、短く頷いた。
「おう」
それ以上、言葉はいらなかった。
蒼真は机の上に置いてあったウィッグを手に取る。黒髪で、長さも質感も、できる限りリリアに近いものだ。ルミエールが、理由も聞かずに用意してくれた。
そして、もう一つ。
封を切っていない新品の下着。
これもまた、罠の一部だ。
蒼真はそれらをまとめて抱え、静かに扉を開けた。
廊下の空気が、ひんやりと肌を撫でる。
――すべては、ここからだ。
◇
――そして、現在。
事件後のリリアの部屋。
部屋の中は、まだ完全には落ち着いていなかった。ベッドのシーツは乱れ、床にはウィッグが落ちたままになっている。さきほどまでの緊張が、形として残っているようだった。
「……終わったのかな」
リリアの声は、かすれていた。強がろうとしても、震えは隠せない。
蒼真は、少しだけ間を置いてから答える。
「ああ。終わった」
断定だった。
それが、今のリリアに必要な言葉だと分かっていたから。
リリアは、ゆっくりと息を吐いた。
「……よかった……」
そのまま、力が抜けたようにベッドの縁に腰を下ろす。
蒼真は無言で近くの椅子を引き、彼女の正面に座った。
「怖かったな」
短い言葉。
リリアは、小さく頷く。
「……うん。でも……」
視線を上げ、蒼真を見る。
「蒼井くんが、ちゃんと説明してくれたから……耐えられた」
蒼真は、その言葉を否定しなかった。
「説明できることは、全部説明した。それだけだ」
リリアは、かすかに笑う。
「それが……すごいことだと思います」
部屋に、静かな間が落ちた。
月光がカーテンの隙間から差し込み、床に細い線を引く。
蒼真は、その光を見つめながら思う。
鍵。
ドアガード。
飲み物。
そして、人の油断。
ばらばらだった点は、すべて一本につながった。
事件は、終わった。
少なくとも――今夜は。
蒼真は、静かにそう結論づけた。




