第26話 眠りの正体
第26話 眠りの正体
◇
ベッドの布が、わずかに擦れた。
侵入者の指が扉の縁に触れたまま止まる。
深夜の寮は、音という音を拒んでいた。遠くの時計塔の針が進む音さえ、壁と壁の間で削られて、もはや時間の気配としてしか残っていない。その静けさの中で、指先に伝わる木の感触だけが、やけに生々しかった。指先にかすかな汗がにじみ、冷えた木の感触が掌に張り付いた。
寝返り――そう片付けられる音だった。
けれど、この場にいる人間は二人しかいない。
そして、どちらも今までの“いつも通り”を知っている。
いつも通りなら、ここで音はしない。
いつも通りなら、ここで起きない。
だからこそ、音がした。
次の瞬間、暗闇の中で人の輪郭が変わった。
布団が持ち上がり、膝が立ち、背が起きる。月光が窓から細い刃のように差し込み、ベッドの上の影を縁取った。
長い髪が、さらりと揺れた。
侵入者は一瞬、息を呑む。
――起きた。
それは、最悪の事態だ。
だが同時に、侵入者の脳裏には別の安堵が過ぎった。
顔は見えない。
横向きだった身体が、こちらへ向き直ったわけではない。
まだ、見られていない。
まだ、言い訳ができる。
まだ――逃げられる。
その油断を、影は見逃さなかった。
◇
ベッドの上の人影が、ゆっくりと顔を上げる。
月光が髪を照らし、艶を作る。
……いや。
その艶は、どこか不自然だった。
髪の一本一本が揃いすぎている。自然な寝癖がない。寝汗に濡れた重みもない。
侵入者の目が、その違和感を捉えた瞬間――。
人影は、指先で髪をひょいとつまみ、軽く持ち上げた。
そして、ぺり、と。
紙を剥がすような気軽さで、それを外した。
長い髪。
いや、ウィッグ。
床に落ちたそれが、月光の中で黒い蛇のようにとぐろを巻く。
同時に、ベッドの上に現れたのは――少女ではない。
短い黒髪。
すっと通った鼻筋。
冷えたように静かな目。
蒼井蒼真だった。
侵入者の顔から血の気が引く。
なぜ、ここに。
なぜ、彼が。
なぜ――リリアの部屋で。
蒼真は、ベッドの上で腰を起こしたまま、侵入者の手元を見た。
ブラジャー。
犯人の指に握られている。
それだけで十分だった。
蒼真は、淡々と口を開く。
声を張る必要はない。この距離、この状況、この夜――相手はもう理解している。理解しているからこそ、言葉は短くていい。
「おっと。盗んだもの、返してもらおうか」
言葉は軽い。だが、逃げ道を塞ぐ重さがあった。
◇
侵入者は一歩、後ずさる。
その動きは、本能的だった。扉、廊下、階段――頭の中で逃走経路が組み立てられる。これまで何度も成功してきた手順が、反射のように浮かび上がる。だが同時に、その経路の先にある“異物”の存在が、計算を狂わせていた。
扉。
廊下。
逃げ道。
だが、蒼真の視線がそこを外さない。
侵入者は、反射的に振り向いた。
月明かりが、ようやく顔を照らした。
学園の制服――ではない。夜間の寮内で動きやすいように、上着は脱いでいる。だが、その立ち姿、癖のある肩の傾き、整えられた髪。
蒼真の記憶と一致する。
図書室で、何度も見た背中。
図書委員たちをまとめ、淡々と指示を出していた男。
図書委員長。
アルベルト・クロイツ。
侵入者――アルベルトは、必死に表情を整えた。
薄く笑う。いつものように、理知的に。
「蒼井くん……だったかな」
名前を確認するように、わざとらしく。
「こんな時間に、なぜここにいるんだい? ……いや、それより。リリアくんの部屋で、何をしているのかな」
問いを返す。
自分が責められる前に、相手を責める。
その癖も、蒼真には見えていた。
蒼真はベッドから降りる。
床に足をつけた瞬間、木床がかすかに鳴った。
その音は、寮の静寂の中でやけに響く。
蒼真は一歩、二歩と近づき、距離を詰める。
「それはこっちの台詞ですよ」
蒼真の目が、アルベルトの手元へ落ちる。
「……それ、何ですか」
アルベルトの指が、わずかに強く布を握った。
「下着? ……何のことかな」
平然を装う声。
だが、喉が乾いている。
蒼真は、少しだけ首を傾けた。
「ちなみにそれ、リリアのものじゃない」
アルベルトの笑みが、凍りついた。
視線が一瞬だけ落ちる。
――確認した。
蒼真はそれを見逃さない。
「残念でしたね」
淡々とした言葉が、刃になる。
◇
アルベルトの背中が、扉の方へ寄る。
空気が張り詰める。リリアの部屋という私的な空間が、一瞬で公開の場へと変質していく感覚。秘密が露出し、逃げ場が削られていく圧迫感が、アルベルトの呼吸を浅くした。
逃げる。
そう決めたような動き。
だが、その瞬間――。
扉の外、廊下のランプの光が、揺れた。
誰かが走ってくる足音。
息を切らした気配。
扉が開く。
そこに立っていたのは、黒髪に眼鏡をかけた少女。
九条リリア。
彼女は、扉の隙間から室内を見て、言葉を失った。
蒼真。
委員長。
そして――委員長の手に握られた、布。
リリアの顔から血の気が引く。
指先が震え、眼鏡の縁を押さえる。
けれど、彼女の瞳は逸らさなかった。
逃げるでもなく、泣き叫ぶでもなく。
ただ、冷たいほどの静けさで、口を開く。
「……委員長」
アルベルトが、息を吸った。
そして、慌てたように言う。
「リリアくん、違うんだ」
その言葉が、火種になる。
リリアの視線が、さらに冷える。
「なにがちがうんです?」
ひとつひとつの音が、はっきりと区切られる。
アルベルトの喉が鳴った。
「僕は……君を愛しているんだ」
空気が、凍る。
その瞬間、リリアの表情が歪んだ。
嫌悪。
恐怖。
そして、怒り。
「やめてください!」
声が震える。
「……そんな言葉、聴きたくないです!」
その叫びが、廊下へ溢れた。
◇
廊下の向こうで、扉が開く音が連鎖する。
眠っていた寮生たちが顔を出す。
「なに……?」
「今の声、リリアじゃ……」
「委員長……?」
ざわざわ。
人の気配が増える。
ランプの光が揺れ、影が伸びる。
逃げ道は狭まっていく。
蒼真は一歩、リリアの前に出た。
庇うように。
けれど、それは優しさというよりも、単なる配置だ。
危険が来る方向を計算し、先に立つ。
探偵の癖。
「もう、逃げられませんよ」
蒼真の声は低い。
アルベルトの顔が歪む。
理知的な仮面が、ひび割れる。
視線が、蒼真へ刺さった。
「……蒼井……」
唇が震える。
「君のせいだ……!」
吐き出すように。
「君が現れてからというもの……僕のリリアが、君に夢中なのがいけない……!」
その言い方が、全てを語っていた。
愛ではない。
独占だ。
所有だ。
相手の意思を無視した、名前だけの感情。
アルベルトは杖を抜いた。
月光が杖の先端を照らし、白く光る。
寮生たちのざわめきが、一段下がる。
恐怖が、空気に混じる。
「くらえ……!」
アルベルトが叫ぶ。
「《エア・スラッシュ》!」
空気が裂けた。
見えない刃が、風の音を引き連れて蒼真へ走る。
◇
蒼真は動かなかった。
避ける必要がないからだ。魔法の理屈を知っている者ほど、この状況が異常だと理解できる。発動されたはずの術式が、結果として成立していない。その事実だけが、静かに積み上がっていく。
避けない。
防御の魔法もない。
ただ、視線をまっすぐに向ける。
刃が、蒼真の目前に迫る。
次の瞬間――。
風の刃は、蒼真の身体に触れた途端、形を失った。
霧のように散り、霜のように溶け、ただの空気になる。
衝撃も、痛みも、音もない。
あるのは、魔法が“消えた”という事実だけ。
アルベルトの目が見開かれる。
「……!? なん……なんなんだ……君は……!」
蒼真は肩をすくめもしない。
ただ、静かに返す。
「さあ」
その一言は、嘘ではない。
「俺も、聞きたいですね」
蒼真自身が、まだ自分の正体を理解していない。
だが、今必要なのは説明ではない。
必要なのは、事実を押さえること。
そして――被害を止めること。
◇
アルベルトの足が、もつれた。
逃げたいという衝動と、逃げられないという現実が、身体の中で衝突している。力に縋るしかない人間ほど、力を失った瞬間に脆い。
窓へ。
逃げようとする。
だが、廊下には人が増え、扉も塞がれ、窓から飛び降りれば騒ぎはさらに大きくなる。
それでも、追い詰められた獣のように、アルベルトは動く。
もう一度、杖を上げる。
魔法。
力。
それしかない。
だが、蒼真の目が言っていた。
――無意味だ。
アルベルトの手が震える。
指が痙攣し、杖を落としそうになる。
そこへ、重い足音が走り込んできた。
「何事だ!」
教師の声。
そして、別の教師。
夜間の宿直が駆けつけたのだ。
寮生たちが道を開ける。
教師が室内に飛び込み、状況を一瞬で理解する。
アルベルト。
杖。
手に握られた布。
リリアの顔。
蒼真の立ち位置。
十分だった。
「取り押さえろ!」
教師の号令。
次の瞬間、アルベルトは腕を掴まれた。
「やめろ……! 離せ……!」
抵抗。
だが、教師たちは慣れている。
杖を奪い、腕をねじり、床に押さえつける。
アルベルトの顔が床に押し付けられ、息が荒くなる。
リリアが、目を閉じた。
唇を噛み、肩が震える。
蒼真は、彼女の横に立ったまま、何も言わなかった。
慰めの言葉は、今は刃になることがある。
必要なのは、事実を運ぶこと。
制度が裁ける場所へ。
アルベルトが引き起こされる。
教師たちに囲まれ、廊下へ連行されていく。
その途中、アルベルトが一度だけ振り返った。
蒼真を見る。
怨嗟の目。
だが蒼真は、ただ見返した。
感情ではない。
事実の目。
アルベルトは視線を逸らし、再び引きずられるように去っていった。
◇
騒ぎの中心が遠ざかると、部屋の中に残ったのは、奇妙な静けさだった。
事件の余熱だけが、まだ空気に残っている。さきほどまで確かに存在していた緊張が、嘘のように薄れていく。その落差が、現実感を鈍らせた。
廊下のざわめきも、教師の声も、どこか遠い。
月光だけが、床に細い線を引き続けている。
床の隅に落ちた黒いウィッグ。
それが、今夜の異常を無言で証明していた。
蒼真は、胸の奥で一つだけ息を吐く。
事件は終わった。
少なくとも――現場としては。
蒼真は、リリアの方へ視線を向けた。
彼女はまだ、立っている。
けれど、足元がふらついている。
手が、何かを探すように宙を泳いでいる。
蒼真は一歩近づき、そっと机の端に手を添えさせた。
「……深呼吸」
短い指示。
リリアは小さく頷いた。
そして、やっと息を吸う。
震えた息が、暗闇に溶けた。
蒼真は、心の中で線を引く。
これで、終わりだ。
事件としては。
――だが。
鍵。
ドアガード。
偽の下着。
ウィッグ。
なぜ第六日の夜だったのか。
説明すべきことは、まだ山ほど残っている。
それは次の段階。
今はただ、被害を止めた。
それだけでいい。
蒼真は月光の中で、静かに目を閉じた。




