表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
その事件、魔法ではありません。~魔力ゼロ転移者と美少女の学園生活~  作者: にめ
1学年前期:リリアの相談

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

27/31

第26話 眠りの正体

第26話 眠りの正体



 ベッドの布が、わずかに擦れた。


 侵入者の指が扉の縁に触れたまま止まる。


 深夜の寮は、音という音を拒んでいた。遠くの時計塔の針が進む音さえ、壁と壁の間で削られて、もはや時間の気配としてしか残っていない。その静けさの中で、指先に伝わる木の感触だけが、やけに生々しかった。指先にかすかな汗がにじみ、冷えた木の感触が掌に張り付いた。


 寝返り――そう片付けられる音だった。


 けれど、この場にいる人間は二人しかいない。


 そして、どちらも今までの“いつも通り”を知っている。


 いつも通りなら、ここで音はしない。


 いつも通りなら、ここで起きない。


 だからこそ、音がした。


 次の瞬間、暗闇の中で人の輪郭が変わった。


 布団が持ち上がり、膝が立ち、背が起きる。月光が窓から細い刃のように差し込み、ベッドの上の影を縁取った。


 長い髪が、さらりと揺れた。


 侵入者は一瞬、息を呑む。


 ――起きた。


 それは、最悪の事態だ。


 だが同時に、侵入者の脳裏には別の安堵が過ぎった。


 顔は見えない。


 横向きだった身体が、こちらへ向き直ったわけではない。


 まだ、見られていない。


 まだ、言い訳ができる。


 まだ――逃げられる。


 その油断を、影は見逃さなかった。



 ベッドの上の人影が、ゆっくりと顔を上げる。


 月光が髪を照らし、艶を作る。


 ……いや。


 その艶は、どこか不自然だった。


 髪の一本一本が揃いすぎている。自然な寝癖がない。寝汗に濡れた重みもない。


 侵入者の目が、その違和感を捉えた瞬間――。


 人影は、指先で髪をひょいとつまみ、軽く持ち上げた。


 そして、ぺり、と。


 紙を剥がすような気軽さで、それを外した。


 長い髪。


 いや、ウィッグ。


 床に落ちたそれが、月光の中で黒い蛇のようにとぐろを巻く。


 同時に、ベッドの上に現れたのは――少女ではない。


 短い黒髪。


 すっと通った鼻筋。


 冷えたように静かな目。


 蒼井蒼真だった。


 侵入者の顔から血の気が引く。


 なぜ、ここに。


 なぜ、彼が。


 なぜ――リリアの部屋で。


 蒼真は、ベッドの上で腰を起こしたまま、侵入者の手元を見た。


 ブラジャー。


 犯人の指に握られている。


 それだけで十分だった。


 蒼真は、淡々と口を開く。


 声を張る必要はない。この距離、この状況、この夜――相手はもう理解している。理解しているからこそ、言葉は短くていい。


「おっと。盗んだもの、返してもらおうか」


 言葉は軽い。だが、逃げ道を塞ぐ重さがあった。



 侵入者は一歩、後ずさる。


 その動きは、本能的だった。扉、廊下、階段――頭の中で逃走経路が組み立てられる。これまで何度も成功してきた手順が、反射のように浮かび上がる。だが同時に、その経路の先にある“異物”の存在が、計算を狂わせていた。


 扉。


 廊下。


 逃げ道。


 だが、蒼真の視線がそこを外さない。


 侵入者は、反射的に振り向いた。


 月明かりが、ようやく顔を照らした。


 学園の制服――ではない。夜間の寮内で動きやすいように、上着は脱いでいる。だが、その立ち姿、癖のある肩の傾き、整えられた髪。


 蒼真の記憶と一致する。


 図書室で、何度も見た背中。


 図書委員たちをまとめ、淡々と指示を出していた男。


 図書委員長。


 アルベルト・クロイツ。


 侵入者――アルベルトは、必死に表情を整えた。


 薄く笑う。いつものように、理知的に。


「蒼井くん……だったかな」


 名前を確認するように、わざとらしく。


「こんな時間に、なぜここにいるんだい? ……いや、それより。リリアくんの部屋で、何をしているのかな」


 問いを返す。


 自分が責められる前に、相手を責める。


 その癖も、蒼真には見えていた。


 蒼真はベッドから降りる。


 床に足をつけた瞬間、木床がかすかに鳴った。


 その音は、寮の静寂の中でやけに響く。


 蒼真は一歩、二歩と近づき、距離を詰める。


「それはこっちの台詞ですよ」


 蒼真の目が、アルベルトの手元へ落ちる。


「……それ、何ですか」


 アルベルトの指が、わずかに強く布を握った。


「下着? ……何のことかな」


 平然を装う声。


 だが、喉が乾いている。


 蒼真は、少しだけ首を傾けた。


「ちなみにそれ、リリアのものじゃない」


 アルベルトの笑みが、凍りついた。


 視線が一瞬だけ落ちる。


 ――確認した。


 蒼真はそれを見逃さない。


「残念でしたね」


 淡々とした言葉が、刃になる。



 アルベルトの背中が、扉の方へ寄る。


 空気が張り詰める。リリアの部屋という私的な空間が、一瞬で公開の場へと変質していく感覚。秘密が露出し、逃げ場が削られていく圧迫感が、アルベルトの呼吸を浅くした。


 逃げる。


 そう決めたような動き。


 だが、その瞬間――。


 扉の外、廊下のランプの光が、揺れた。


 誰かが走ってくる足音。


 息を切らした気配。


 扉が開く。


 そこに立っていたのは、黒髪に眼鏡をかけた少女。


 九条リリア。


 彼女は、扉の隙間から室内を見て、言葉を失った。


 蒼真。


 委員長。


 そして――委員長の手に握られた、布。


 リリアの顔から血の気が引く。


 指先が震え、眼鏡の縁を押さえる。


 けれど、彼女の瞳は逸らさなかった。


 逃げるでもなく、泣き叫ぶでもなく。


 ただ、冷たいほどの静けさで、口を開く。


「……委員長」


 アルベルトが、息を吸った。


 そして、慌てたように言う。


「リリアくん、違うんだ」


 その言葉が、火種になる。


 リリアの視線が、さらに冷える。


「なにがちがうんです?」


 ひとつひとつの音が、はっきりと区切られる。


 アルベルトの喉が鳴った。


「僕は……君を愛しているんだ」


 空気が、凍る。


 その瞬間、リリアの表情が歪んだ。


 嫌悪。


 恐怖。


 そして、怒り。


「やめてください!」


 声が震える。


「……そんな言葉、聴きたくないです!」


 その叫びが、廊下へ溢れた。



 廊下の向こうで、扉が開く音が連鎖する。


 眠っていた寮生たちが顔を出す。


「なに……?」


「今の声、リリアじゃ……」


「委員長……?」


 ざわざわ。


 人の気配が増える。


 ランプの光が揺れ、影が伸びる。


 逃げ道は狭まっていく。


 蒼真は一歩、リリアの前に出た。


 庇うように。


 けれど、それは優しさというよりも、単なる配置だ。


 危険が来る方向を計算し、先に立つ。


 探偵の癖。


「もう、逃げられませんよ」


 蒼真の声は低い。


 アルベルトの顔が歪む。


 理知的な仮面が、ひび割れる。


 視線が、蒼真へ刺さった。


「……蒼井……」


 唇が震える。


「君のせいだ……!」


 吐き出すように。


「君が現れてからというもの……僕のリリアが、君に夢中なのがいけない……!」


 その言い方が、全てを語っていた。


 愛ではない。


 独占だ。


 所有だ。


 相手の意思を無視した、名前だけの感情。


 アルベルトは杖を抜いた。


 月光が杖の先端を照らし、白く光る。


 寮生たちのざわめきが、一段下がる。


 恐怖が、空気に混じる。


「くらえ……!」


 アルベルトが叫ぶ。


「《エア・スラッシュ》!」


 空気が裂けた。


 見えない刃が、風の音を引き連れて蒼真へ走る。



 蒼真は動かなかった。


 避ける必要がないからだ。魔法の理屈を知っている者ほど、この状況が異常だと理解できる。発動されたはずの術式が、結果として成立していない。その事実だけが、静かに積み上がっていく。


 避けない。


 防御の魔法もない。


 ただ、視線をまっすぐに向ける。


 刃が、蒼真の目前に迫る。


 次の瞬間――。


 風の刃は、蒼真の身体に触れた途端、形を失った。


 霧のように散り、霜のように溶け、ただの空気になる。


 衝撃も、痛みも、音もない。


 あるのは、魔法が“消えた”という事実だけ。


 アルベルトの目が見開かれる。


「……!? なん……なんなんだ……君は……!」


 蒼真は肩をすくめもしない。


 ただ、静かに返す。


「さあ」


 その一言は、嘘ではない。


「俺も、聞きたいですね」


 蒼真自身が、まだ自分の正体を理解していない。


 だが、今必要なのは説明ではない。


 必要なのは、事実を押さえること。


 そして――被害を止めること。



 アルベルトの足が、もつれた。


 逃げたいという衝動と、逃げられないという現実が、身体の中で衝突している。力に縋るしかない人間ほど、力を失った瞬間に脆い。


 窓へ。


 逃げようとする。


 だが、廊下には人が増え、扉も塞がれ、窓から飛び降りれば騒ぎはさらに大きくなる。


 それでも、追い詰められた獣のように、アルベルトは動く。


 もう一度、杖を上げる。


 魔法。


 力。


 それしかない。


 だが、蒼真の目が言っていた。


 ――無意味だ。


 アルベルトの手が震える。


 指が痙攣し、杖を落としそうになる。


 そこへ、重い足音が走り込んできた。


「何事だ!」


 教師の声。


 そして、別の教師。


 夜間の宿直が駆けつけたのだ。


 寮生たちが道を開ける。


 教師が室内に飛び込み、状況を一瞬で理解する。


 アルベルト。


 杖。


 手に握られた布。


 リリアの顔。


 蒼真の立ち位置。


 十分だった。


「取り押さえろ!」


 教師の号令。


 次の瞬間、アルベルトは腕を掴まれた。


「やめろ……! 離せ……!」


 抵抗。


 だが、教師たちは慣れている。


 杖を奪い、腕をねじり、床に押さえつける。


 アルベルトの顔が床に押し付けられ、息が荒くなる。


 リリアが、目を閉じた。


 唇を噛み、肩が震える。


 蒼真は、彼女の横に立ったまま、何も言わなかった。


 慰めの言葉は、今は刃になることがある。


 必要なのは、事実を運ぶこと。


 制度が裁ける場所へ。


 アルベルトが引き起こされる。


 教師たちに囲まれ、廊下へ連行されていく。


 その途中、アルベルトが一度だけ振り返った。


 蒼真を見る。


 怨嗟の目。


 だが蒼真は、ただ見返した。


 感情ではない。


 事実の目。


 アルベルトは視線を逸らし、再び引きずられるように去っていった。



 騒ぎの中心が遠ざかると、部屋の中に残ったのは、奇妙な静けさだった。


 事件の余熱だけが、まだ空気に残っている。さきほどまで確かに存在していた緊張が、嘘のように薄れていく。その落差が、現実感を鈍らせた。


 廊下のざわめきも、教師の声も、どこか遠い。


 月光だけが、床に細い線を引き続けている。


 床の隅に落ちた黒いウィッグ。


 それが、今夜の異常を無言で証明していた。


 蒼真は、胸の奥で一つだけ息を吐く。


 事件は終わった。


 少なくとも――現場としては。


 蒼真は、リリアの方へ視線を向けた。


 彼女はまだ、立っている。


 けれど、足元がふらついている。


 手が、何かを探すように宙を泳いでいる。


 蒼真は一歩近づき、そっと机の端に手を添えさせた。


「……深呼吸」


 短い指示。


 リリアは小さく頷いた。


 そして、やっと息を吸う。


 震えた息が、暗闇に溶けた。


 蒼真は、心の中で線を引く。


 これで、終わりだ。


 事件としては。


 ――だが。


 鍵。


 ドアガード。


 偽の下着。


 ウィッグ。


 なぜ第六日の夜だったのか。


 説明すべきことは、まだ山ほど残っている。


 それは次の段階。


 今はただ、被害を止めた。


 それだけでいい。


 蒼真は月光の中で、静かに目を閉じた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ