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その事件、魔法ではありません。~魔力ゼロ転移者の魔法学園生活~  作者: にめ
1学年前期:リリアの相談

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第25話 第六日の夜、扉の向こう

第25話 第六日の夜、扉の向こう



 夜の寮は、昼間の賑やかさが嘘みたいに静かだった。


 この学園の寮は、女子寮と男子寮が別棟になっているわけではない。同じ建物の中で、階層ごとに区画が分かれているだけだ。上の階は女子、下の階は男子――そんな単純な区分ではなく、いくつかのフロアがそれぞれに割り当てられ、境界には特別な結界などはなく、夜になれば人の気配が減るだけだ。


 だからこそ、深夜の廊下に響く足音は“女子寮側のもの”とも“男子寮側のもの”とも断定できない。ただ一つ確かなのは、この建物のどこかに、起きている人間がいるという事実だけだった。


 消灯の鐘はとっくに鳴り終え、廊下のランプは最小限の明かりだけを残している。壁に沿って等間隔に並ぶ光は、床の木目に淡い線を引き、扉の取っ手だけを鈍く浮かび上がらせる。


 外では風が木々を揺らしていた。葉の擦れる音が遠くから波のように届く。けれど、それはあまりに一定で、寝息のように弱い。


 この時間帯に寮が発する音は、ほとんどない。


 だから――。


 その音だけが、ひどく目立った。


 とん。


 とん。


 とん。


 柔らかいはずの木床に、靴底が吸い付くように触れて、すぐ離れる。足音は控えめで、慎重に抑えられている。それでも、静寂に慣れた空気の中では、微かな振動が耳の奥に届く。


 この時間に、誰かが歩いている。


 しかも――迷いなく。



 階段の踊り場に、影が落ちた。


 寮の階段は古い石造りで、手すりには細い彫刻が施されている。昼間は上品に見えるそれも、夜になると不気味な縁取りに変わる。


 上階へ続く踊り場の先には、フロア境界を示す小さな標章が埋め込まれている。そこを越えれば女子区画――そう分かっていても、夜の薄闇は境界を曖昧にし、建物そのものが巨大な迷路に見えた。


 影は、静かに一段、また一段と降りてくる。


 足運びは軽い。


 眠気に負けてふらつくような歩き方ではない。寝巻きで水を飲みに行く生徒のものとも違う。


 何度も、何度も。


 同じことを繰り返してきた者の歩き方だった。


 影はフードのようなものを被っているのか、顔は見えない。ランプの光が当たっても、目元に影が落ちている。


 ただ、その手元だけが、かすかに光った。


 金属。


 その手は空いている。ただ、動きには迷いがない。


 鍵がある。


 それは、この寮の中で“最も当たり前”で、“最も危険”なものだ。


 鍵は、守るためにある。


 だが、持つ者が変われば――侵入するためにも使える。



 影が歩く先に、扉があった。


 扉の前で、足音が止まる。


 呼吸が、ひとつ。


 周囲をうかがう気配。


 廊下の奥には、別の扉が連なっている。どれも閉じ、どれも沈黙している。誰も起きていない。起きていても、気づかないほどの静けさ。


 影の手が、鍵を取り出した。


 金属が月光を受け、冷たい線を描く。


 鍵穴に差し込む。


 その動きに、躊躇がない。


 合鍵を無理やり押し込むようなぎこちなさも、盗んだ鍵を初めて試すような恐る恐るの気配もない。


 鍵は、当然のように回った。


 かちり。


 小さな音。


 それだけで、扉の“外側”の抵抗は消える。


 だが、この寮の扉は、それだけでは終わらない。


 夜間、この寮の各部屋では防犯のために内側から簡易のドアガードがかけられる。金具を引っ掛ける物理的な仕組みで、魔法でこじ開けられないようにも工夫されている。


 本来なら、外側から解除できない。


 外側から解除できないはず、だった。



 影は扉に手をかけた。


 引く。


 扉は、開かない。


 そこで、影の動きがほんの一瞬止まった。


 次に、手が扉の上部――内側に向けて伸びた。


 届くはずのない場所。


 触れられるはずのない金具。


 けれど、影の指先は、そこに“慣れたように”触れている。


 何かを押す。


 何かを滑らせる。


 そして――。


 からん。


 ごく小さな金属音がして、扉の抵抗が消えた。


 外から。


 内側のガードが外れた。


 あり得ない。


 あり得ないのに、起きている。


 その異常が、この寮の静けさの中で、ひどく薄気味悪く感じられた。



 扉が、ゆっくりと開く。


 蝶番は鳴かない。油が差されているのか、それとも夜の冷気が音を吸っているのか。いずれにせよ、侵入者にとっては都合がいい。


 影は室内に滑り込んだ。


 扉は閉めない。


 完全に閉めてしまうと、戻るときに音が出るからだ。


 ほんの少しだけ開けたまま。逃げ道を確保する。


 部屋の中は暗い。


 それでも、窓から差し込む月光が、家具の輪郭を薄く浮かべている。


 学園の寮の部屋は、無駄がない。


 机。


 椅子。


 クローゼット。


 ベッド。


 それだけ。


 だが、必要なものはすべて揃っている――そして、持ち主の癖が否応なく滲む。


 机の端には、細いしおりの挟まった本が何冊も積まれている。背表紙の角は揃っていて、机の面と平行に置かれていた。几帳面さ。整理された思考。


 椅子の背には、薄いカーディガンが掛けられている。毛糸の編み目が月光を受け、柔らかく見えた。寒さを嫌う人間の選択。


 クローゼットの取っ手には、小さな札が結ばれている。『返却期限』と書かれた紙片だ。習慣。


 そしてベッド。


 そこだけが、誰にも見せない“無防備”の場所だった。


 影が、ゆっくりと室内を見回す。


 視線が止まった。


 壁にかけられた制服。


 昼間の光を浴びると凛として見える学園の制服も、夜の中では人形の皮膚みたいに見えた。


 衣服は、持ち主の匂いを抱えている。


 それを、影は深く吸い込む。


 胸が上下した。


 その呼吸が、妙に熱を帯びている。


 興奮。


 そう呼ぶしかない種類の、歪んだ昂り。


 この空間そのものが目的なのだと、部屋の空気が語っている。



 影は、ベッドへ向かった。


 床を踏む足音は、さらに小さくなる。


 まるで、眠っている者を起こしたくないというよりも――起こしてしまったときにどうなるかを、よく知っているみたいだった。


 ベッドの上に、細い影が横たわっている。


 髪が枕に広がっている。


 月光がその上をなぞり、淡く光らせる。


 リリアだった。

 黒髪の、眼鏡の少女。

 昼間は理論を語り、文字の海を泳ぐように本を整理する図書委員。

 寝台に広がる髪の艶、肩の線、寝息の癖――どれもが、侵入者の記憶にある彼女そのものだった。

 疑う理由はない。

 そこにいるのは、間違いなく“彼女”だと、侵入者は思い込んでいる。


 その彼女が今は、無防備に眠っている。


 顔は見えない。


 横向きで、こちらに背を向けている。


 寝息は規則正しく、深い。


 あまりに穏やかで――。


 だからこそ、部屋に入り込んだ異物が、際立つ。



 影の手が、ゆっくりと伸びた。


 髪へ。


 指先が、一本だけを掬う。


 さらり。


 柔らかな感触。


 影はその髪を指に絡め、顔を近づける。


 匂いを嗅ぐ。


 深く。


 まるで、それだけで満たされると信じているみたいに。


 リリアは動かない。


 眠ったまま。


 その無反応が、影にとっては都合がいい。


 影はさらに近づいた。


 寝息の温度が、頬に触れる距離。


 そこで影は、ひとつだけ躊躇した。


 いや、躊躇ではない。


 “確認”だ。


 相手の顔が見えないことを、改めて確認している。


 顔さえ見えなければ、罪悪感は薄れる。


 顔さえ見えなければ、ただの“物”になる。


 そうやって、自分の行動を正当化してきた。


 そんな癖が、動きに染みついている。



 影は、視線をサイドテーブルへ移した。


 本の上に、明日の着替えが整えられている。


 分厚い魔法史の本、図書分類表の小冊子、借り出し記録の束――それらが几帳面に重ねられ、その“台座”の上に制服のシャツとスカートが折り目正しく置かれていた。


 そして――。


 下着。


 布の白が、月光に淡く浮く。


 影の呼吸が一段、速くなった。


 狙いは一つ。


 ブラジャー。


 毎回、ブラだけ。


 ショーツは残す。


 それは単なるフェチではない。


 欲しいのは“対”ではなく、“重さ”だ。


 持ち主の体を支えるもの。


 持ち主の形を想像させるもの。


 そして、持ち主が気づいたときに最も恥を感じるもの。


 影は、迷わず手を伸ばした。


 指が布を掴む。


 柔らかい。


 ひどく軽い。


 なのに、胸の奥が熱くなる。


 それを握りしめたまま、影は一歩引いた。


 成功。


 いつも通り。


 いつも通りに終わる。


 その確信が、影の動きを滑らかにする。



 影は扉へ向かった。


 来た道を戻る。


 足音は無い。


 無いはずなのに、床は確かに沈む。


 扉の隙間から、廊下のランプの光が差し込んでいる。


 外へ出る。


 扉を閉めない。


 そして鍵をかける。


 何事もなかったように。


 それが手順。


 それが、これまでの成功体験。


 影の手が扉の縁に触れた。


 その瞬間――。


 ベッドの方で、布が擦れる音がした。


 かすか。


 ほんの一度。


 影の動きが止まる。


 耳が、音を拾い直す。


 寝返りか。


 それとも。


 次の瞬間、ベッドの上の影が、わずかに――動いた。


 暗闇の中で、人の輪郭が変わる。


 空気が、変わる。


 この部屋にいるのは。


 本当に、一人だけだったのか。


 問いが、形になったところで――。


 物語は、静かに途切れた。


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