第25話 第六日の夜、扉の向こう
第25話 第六日の夜、扉の向こう
◇
夜の寮は、昼間の賑やかさが嘘みたいに静かだった。
この学園の寮は、女子寮と男子寮が別棟になっているわけではない。同じ建物の中で、階層ごとに区画が分かれているだけだ。上の階は女子、下の階は男子――そんな単純な区分ではなく、いくつかのフロアがそれぞれに割り当てられ、境界には特別な結界などはなく、夜になれば人の気配が減るだけだ。
だからこそ、深夜の廊下に響く足音は“女子寮側のもの”とも“男子寮側のもの”とも断定できない。ただ一つ確かなのは、この建物のどこかに、起きている人間がいるという事実だけだった。
消灯の鐘はとっくに鳴り終え、廊下のランプは最小限の明かりだけを残している。壁に沿って等間隔に並ぶ光は、床の木目に淡い線を引き、扉の取っ手だけを鈍く浮かび上がらせる。
外では風が木々を揺らしていた。葉の擦れる音が遠くから波のように届く。けれど、それはあまりに一定で、寝息のように弱い。
この時間帯に寮が発する音は、ほとんどない。
だから――。
その音だけが、ひどく目立った。
とん。
とん。
とん。
柔らかいはずの木床に、靴底が吸い付くように触れて、すぐ離れる。足音は控えめで、慎重に抑えられている。それでも、静寂に慣れた空気の中では、微かな振動が耳の奥に届く。
この時間に、誰かが歩いている。
しかも――迷いなく。
◇
階段の踊り場に、影が落ちた。
寮の階段は古い石造りで、手すりには細い彫刻が施されている。昼間は上品に見えるそれも、夜になると不気味な縁取りに変わる。
上階へ続く踊り場の先には、フロア境界を示す小さな標章が埋め込まれている。そこを越えれば女子区画――そう分かっていても、夜の薄闇は境界を曖昧にし、建物そのものが巨大な迷路に見えた。
影は、静かに一段、また一段と降りてくる。
足運びは軽い。
眠気に負けてふらつくような歩き方ではない。寝巻きで水を飲みに行く生徒のものとも違う。
何度も、何度も。
同じことを繰り返してきた者の歩き方だった。
影はフードのようなものを被っているのか、顔は見えない。ランプの光が当たっても、目元に影が落ちている。
ただ、その手元だけが、かすかに光った。
金属。
その手は空いている。ただ、動きには迷いがない。
鍵がある。
それは、この寮の中で“最も当たり前”で、“最も危険”なものだ。
鍵は、守るためにある。
だが、持つ者が変われば――侵入するためにも使える。
◇
影が歩く先に、扉があった。
扉の前で、足音が止まる。
呼吸が、ひとつ。
周囲をうかがう気配。
廊下の奥には、別の扉が連なっている。どれも閉じ、どれも沈黙している。誰も起きていない。起きていても、気づかないほどの静けさ。
影の手が、鍵を取り出した。
金属が月光を受け、冷たい線を描く。
鍵穴に差し込む。
その動きに、躊躇がない。
合鍵を無理やり押し込むようなぎこちなさも、盗んだ鍵を初めて試すような恐る恐るの気配もない。
鍵は、当然のように回った。
かちり。
小さな音。
それだけで、扉の“外側”の抵抗は消える。
だが、この寮の扉は、それだけでは終わらない。
夜間、この寮の各部屋では防犯のために内側から簡易のドアガードがかけられる。金具を引っ掛ける物理的な仕組みで、魔法でこじ開けられないようにも工夫されている。
本来なら、外側から解除できない。
外側から解除できないはず、だった。
◇
影は扉に手をかけた。
引く。
扉は、開かない。
そこで、影の動きがほんの一瞬止まった。
次に、手が扉の上部――内側に向けて伸びた。
届くはずのない場所。
触れられるはずのない金具。
けれど、影の指先は、そこに“慣れたように”触れている。
何かを押す。
何かを滑らせる。
そして――。
からん。
ごく小さな金属音がして、扉の抵抗が消えた。
外から。
内側のガードが外れた。
あり得ない。
あり得ないのに、起きている。
その異常が、この寮の静けさの中で、ひどく薄気味悪く感じられた。
◇
扉が、ゆっくりと開く。
蝶番は鳴かない。油が差されているのか、それとも夜の冷気が音を吸っているのか。いずれにせよ、侵入者にとっては都合がいい。
影は室内に滑り込んだ。
扉は閉めない。
完全に閉めてしまうと、戻るときに音が出るからだ。
ほんの少しだけ開けたまま。逃げ道を確保する。
部屋の中は暗い。
それでも、窓から差し込む月光が、家具の輪郭を薄く浮かべている。
学園の寮の部屋は、無駄がない。
机。
椅子。
クローゼット。
ベッド。
それだけ。
だが、必要なものはすべて揃っている――そして、持ち主の癖が否応なく滲む。
机の端には、細いしおりの挟まった本が何冊も積まれている。背表紙の角は揃っていて、机の面と平行に置かれていた。几帳面さ。整理された思考。
椅子の背には、薄いカーディガンが掛けられている。毛糸の編み目が月光を受け、柔らかく見えた。寒さを嫌う人間の選択。
クローゼットの取っ手には、小さな札が結ばれている。『返却期限』と書かれた紙片だ。習慣。
そしてベッド。
そこだけが、誰にも見せない“無防備”の場所だった。
影が、ゆっくりと室内を見回す。
視線が止まった。
壁にかけられた制服。
昼間の光を浴びると凛として見える学園の制服も、夜の中では人形の皮膚みたいに見えた。
衣服は、持ち主の匂いを抱えている。
それを、影は深く吸い込む。
胸が上下した。
その呼吸が、妙に熱を帯びている。
興奮。
そう呼ぶしかない種類の、歪んだ昂り。
この空間そのものが目的なのだと、部屋の空気が語っている。
◇
影は、ベッドへ向かった。
床を踏む足音は、さらに小さくなる。
まるで、眠っている者を起こしたくないというよりも――起こしてしまったときにどうなるかを、よく知っているみたいだった。
ベッドの上に、細い影が横たわっている。
髪が枕に広がっている。
月光がその上をなぞり、淡く光らせる。
リリアだった。
黒髪の、眼鏡の少女。
昼間は理論を語り、文字の海を泳ぐように本を整理する図書委員。
寝台に広がる髪の艶、肩の線、寝息の癖――どれもが、侵入者の記憶にある彼女そのものだった。
疑う理由はない。
そこにいるのは、間違いなく“彼女”だと、侵入者は思い込んでいる。
その彼女が今は、無防備に眠っている。
顔は見えない。
横向きで、こちらに背を向けている。
寝息は規則正しく、深い。
あまりに穏やかで――。
だからこそ、部屋に入り込んだ異物が、際立つ。
◇
影の手が、ゆっくりと伸びた。
髪へ。
指先が、一本だけを掬う。
さらり。
柔らかな感触。
影はその髪を指に絡め、顔を近づける。
匂いを嗅ぐ。
深く。
まるで、それだけで満たされると信じているみたいに。
リリアは動かない。
眠ったまま。
その無反応が、影にとっては都合がいい。
影はさらに近づいた。
寝息の温度が、頬に触れる距離。
そこで影は、ひとつだけ躊躇した。
いや、躊躇ではない。
“確認”だ。
相手の顔が見えないことを、改めて確認している。
顔さえ見えなければ、罪悪感は薄れる。
顔さえ見えなければ、ただの“物”になる。
そうやって、自分の行動を正当化してきた。
そんな癖が、動きに染みついている。
◇
影は、視線をサイドテーブルへ移した。
本の上に、明日の着替えが整えられている。
分厚い魔法史の本、図書分類表の小冊子、借り出し記録の束――それらが几帳面に重ねられ、その“台座”の上に制服のシャツとスカートが折り目正しく置かれていた。
そして――。
下着。
布の白が、月光に淡く浮く。
影の呼吸が一段、速くなった。
狙いは一つ。
ブラジャー。
毎回、ブラだけ。
ショーツは残す。
それは単なるフェチではない。
欲しいのは“対”ではなく、“重さ”だ。
持ち主の体を支えるもの。
持ち主の形を想像させるもの。
そして、持ち主が気づいたときに最も恥を感じるもの。
影は、迷わず手を伸ばした。
指が布を掴む。
柔らかい。
ひどく軽い。
なのに、胸の奥が熱くなる。
それを握りしめたまま、影は一歩引いた。
成功。
いつも通り。
いつも通りに終わる。
その確信が、影の動きを滑らかにする。
◇
影は扉へ向かった。
来た道を戻る。
足音は無い。
無いはずなのに、床は確かに沈む。
扉の隙間から、廊下のランプの光が差し込んでいる。
外へ出る。
扉を閉めない。
そして鍵をかける。
何事もなかったように。
それが手順。
それが、これまでの成功体験。
影の手が扉の縁に触れた。
その瞬間――。
ベッドの方で、布が擦れる音がした。
かすか。
ほんの一度。
影の動きが止まる。
耳が、音を拾い直す。
寝返りか。
それとも。
次の瞬間、ベッドの上の影が、わずかに――動いた。
暗闇の中で、人の輪郭が変わる。
空気が、変わる。
この部屋にいるのは。
本当に、一人だけだったのか。
問いが、形になったところで――。
物語は、静かに途切れた。




