第24話 第六日の夜に消えるもの
第24話 第六日の夜に消えるもの
◇
図書室の奥、閲覧席としてもあまり使われない小さな空きスペースは、放課後になると驚くほど静かだった。
外では部活動の掛け声や足音がまだ聞こえているが、分厚い壁と本棚に遮られ、この一角だけは時間がゆっくりと流れているように感じられる。
リリアは椅子に腰を下ろし、両手でカップを包み込んでいた。淡い香りを立てる静霊茶の湯気が、彼女の眼鏡を少しだけ曇らせる。
さっきまでの涙は止まっていたが、肩の力はまだ抜け切っていない。
「……もう、大丈夫?」
蒼真が静かに声をかける。
リリアは一瞬だけ視線を彷徨わせ、それから小さく頷いた。
「うん。さっきよりは……」
無理に明るくしようとしていない分、その声は正直だった。
蒼真はそれ以上踏み込まず、机の上に置いた星糖サイダーを一口飲む。泡の中で微かな光が弾け、喉を通る。
沈黙が、数拍続いた。
居心地の悪い沈黙ではない。ただ、言葉を選ぶための間だった。
先に口を開いたのは、リリアだった。
「……ねえ」
「ルミエールさんの事件、解決したでしょう?」
蒼真は顔を上げる。
「ああ」
「恋人の“ふり”……もう、終わったんだよね」
確認するような口調だった。
「そういう話だ」
淡々とした答え。
リリアは少しだけ唇を噛み、それから意を決したように続ける。
「……どう思ってるの?」
「ふりでも、好きだった?」
唐突で、直球の質問だった。
蒼真はすぐに答えなかった。視線を窓の外へ向け、考える。
「……守る必要がある人だった」
「それ以上のことは、今は考えてない」
言葉を選んだつもりだったが、正直すぎたかもしれない。
リリアは一瞬、目を丸くし、それから小さく息を吐いた。
「……そっか」
どこか、安心したようにも聞こえた。
しばらくして、彼女は話題を変えるように、頬を赤く染めながら言った。
「あの……私もね」
「蒼井くんじゃなくて……蒼真って、呼びたいんだけど……いいかな?」
視線は合わない。指先がカップの縁をなぞっている。
「いつの間にか、私のことは……リリアって、呼び捨てだし……」
蒼真は少しだけ目を瞬かせた。
「あ、いや……最初から呼びやすくて……俺のことは好きに呼んでいいよ」
言い訳になっていない。
「……改めて、リリアって呼ばせてもらうよ」
そう言うと、リリアはぱっと顔を上げた。
耳まで赤い。
「……うん」
小さく、嬉しそうに頷く。
その様子を見て、蒼真は自分が思っている以上に、この距離感に慣れてしまっていることに気づいた。
◇
少し空気が和らいだところで、リリアは姿勢を正した。
とはいえ、完全に落ち着いたわけではない。蒼真の前に座っているというだけで、意識してしまう距離感がある。
リリアはカップを持ったまま、ちらりと蒼真を見た。
「……ねえ、蒼真」
「さっきの話だけど……その、呼び方のこと」
蒼真が顔を向けると、リリアは慌てて視線を逸らす。
「嫌だったら、言って。無理に距離を縮めたいわけじゃなくて……」
「でも……名前で呼ばれると、ちょっとだけ……嬉しくて」
声が小さくなる。
蒼真は一瞬だけ黙り込み、それから短く息を吐いた。
「……嫌じゃない」
「呼び方なんて、それぞれが呼びやすいのでいい」
リリアは驚いたように目を瞬かせ、次の瞬間、頬がさらに赤くなった。
「……ずるい」
「そういうところ」
蒼真は返答に困り、星糖サイダーをもう一口飲んだ。
「……それでね」
声の調子が変わる。
「実は、しばらく前から……下着泥棒の被害に遭ってるの」
蒼真の動きが、わずかに止まった。
「……!」
思わず視線が泳ぎ、リリアの胸元へ向かいそうになる。
「ちょっと!」
リリアがすかさず突っ込む。
「今はちゃんと下着つけてます!」
「蒼真のえっち……」
「いや、その……ごめん」
蒼真は即座に謝った。
リリアは一瞬だけ呆れた顔をし、それから小さく笑う。
「素直でよろしいわ」
「……今度、見せてあげようか?」
「な、何を言ってるんだ!」
蒼真が慌てると、リリアは肩をすくめた。
「冗談よ、冗談」
「……冗談はこの辺にして、話を続けるわね」
◇
「私、こう見えて……胸が大きいじゃない?」
そう前置きしてから、リリアはわざと胸を張る。
蒼真の視線が、反射的に逸れた。
「……見ないで」
「いや、見てない」
「見てたわ」
「……不可抗力だ」
リリアは呆れたようにため息をつき、それから少しだけ口元を緩めた。
「ほんと、分かりやすいんだから」
蒼真は、今度こそ吹きそうになった。
「……なによ」
「乙女が真剣に悩んでるのよ」
「……ごめん」
真顔で謝る。
リリアは一度深呼吸してから続けた。
「だから、ブラジャーは特注なの」
「一つ一つがとても高価で……」
「寮の部屋のタンスにしまっておいたはずなのに、気づいたらなくなってるの」
蒼真はすぐに確認に入った。
「部屋の鍵は?」
「一人部屋よ。留守にするときは必ず閉めてる」
「最初から買ってなかった可能性は?」
「ないわ。ショーツと必ずペアで買うもの」
「ブラだけがなくなって、ショーツだけが残ってる」
蒼真は小さく息を吸う。
(……目的性が高い)
「密室からの盗難、か……」
リリアの指先が、膝の上で震えた。
「それに……今までは、不在のときだけだったの」
「でも……」
言葉が途切れ、リリアの目に涙が浮かぶ。
「……大丈夫。ゆっくりでいい」
蒼真は声を低くして言った。
「……ごめんね。怖くて……」
リリアはそう言って、涙をこぼした。
「もしかして……」
蒼真は慎重に言葉を選ぶ。
「部屋にいる間に、なくなった?」
リリアは、ゆっくりと頷いた。
「……正確には、寝てるとき」
「次の日の着替えを、ベッドの横のサイドテーブルに置くの」
「でも……朝起きると、ブラだけがなくなってる」
蒼真の表情が、わずかに変わった。
◇
「時期や曜日に、心当たりはあるか?」
蒼真の声は、完全に探偵のそれだった。
リリアは少し考え、静かに答える。
「……たぶん、いつも同じ夜」
「**第六日の夜**……」
「翌朝、**第七日の朝**になると、気づくの」
蒼真は即座に理解した。
「学園で言う、区切りの前日だな」
「その日は、何か決まった予定があるか?」
「特別なことはないわ」
「ただ……毎週、第六日の放課後に、図書室全体の本の整理があるの」
「それが、とても疲れるの」
「それ以外は?」
「その日は図書委員の仕事があるから、部活にも出てない」
蒼真は、頭の中で要素を並べていく。
◇
「最近、鍵をなくしたことは?」
リリアは一瞬、言葉に詰まった。
「……あるわ」
「でも、すぐ見つかったから……気にしてなかった」
「どこにあった?」
「図書委員長が見つけてくれたの」
「図書室のどこかに、置いてあったみたい」
蒼真は、ゆっくりと頷いた。
「部屋にいるときは、ドアガードもしてるんだな」
「ええ。寮の鍵は、魔法を無効化する特殊鍵よ」
「魔法では、開けられないはず」
蒼真は、短く息を吐いた。
「……話してくれてありがとう」
「必ず、解決する」
その言葉に、リリアは縋るような視線を向ける。
「……ほんとう?」
「蒼真……」
「今日、**第五日**なんだけど……」
蒼真は、間髪入れずに答えた。
「……明日、また盗難が起こるかもしれない」
夕陽が傾き、図書室の影が長く伸びる。
窓の外では、空の色がゆっくりと変わり始めていた。昼と夜の境目。学園全体が、一日の終わりへ向かって動き出す時間帯だ。
リリアはカップを握りしめたまま、小さく呟いた。
「……今日が第五日で、明日が第六日」
リリアは喉の奥で言葉をつかえさせた。
「……だから……明日の夜が、一番怖い」
肩が、ほんの少しだけ震える。
「第六日の夜に起きるって分かってるのに……一日、待たなきゃいけないのが、怖いの」
「眠ろうとしても、考えちゃう。明日の放課後、図書室の整理が終わって……寮に戻って……そのあと」
言葉が、先へ進まない。
蒼真は頷いた。
「理屈は分かった」
「明日の夜、無事なら一つ可能性が消える。もし起きたなら……」
言葉を切り、視線をリリアに向ける。
「必ず、現場で止める」
断定だった。
リリアは一瞬、息を呑み、それから小さく笑った。
「……探偵さんみたい」
「違う」
「被害を、これ以上増やさないだけだ」
リリアはその言葉を噛みしめるように頷く。
そして、少しだけ身体を前に乗り出した。
「……蒼真」
「今日は……一緒に考えてくれる?」
「もちろんだ」
夕暮れの静かな空間に、二人だけの小さな同盟が結ばれた。
その夜、何かが起きることを、二人とも――否定できずにいた。




