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その事件、魔法ではありません。~魔力ゼロ転移者の魔法学園生活~  作者: にめ
1学年前期:ルミエールの相談

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第23話 恋人ごっこの、そのあとで

第23話 恋人ごっこの、そのあとで



 校長室の扉が閉まった瞬間、空気が変わった。


 厚い木の扉の向こうに残されたのは、静かな笑みと、言葉にしない決定事項。廊下に戻っただけで、胸の中に詰まっていたものが少し軽くなる。


 それでも、完全に日常へ戻れるわけではない。


 石造りの廊下を歩く靴音が、やけに大きく響く。遠くでは授業の鐘の余韻が鳴り、学園は「いつもの一日」を再開しようとしていた。


 並んで歩くルミエールは、いつものように背筋を伸ばしている。だが、その歩幅は少しだけ速い。


 解放された――そう口にしたい気持ちを、体が先に表しているのだろう。


「これでやっと、自由だわー」


 明るい声。


 ルミエールは両手を軽く上げ、空気を払うように笑った。


「蒼真、恋人ごっこもこれで終わりね」


 それを聞いて、蒼真は一歩遅れて頷いた。


「そうか……そうだな」


 返事は淡い。


 終わりと言われれば終わりだ。最初から、そういう“構造”だった。役割としての彼氏。周囲の目を逸らし、相手の手が伸びるのを止めるための仮の関係。


 ――それが終わった。


 頭では分かる。


 なのに、胸の奥に残るものがある。


「なによ、嬉しそうじゃない。失礼しちゃうわ」


 ルミエールは歩きながら、横目で蒼真を見た。


「いや、そういうことでは……」


「じゃあ、なによ」


 問いは軽く見せかけて、距離が近い。


 蒼真は視線を前に向けたまま、言葉を選んだ。


「ルミエールさんの彼氏は……俺では荷が重いというか」


 ルミエールの足がぴたりと止まる。


「重かったの?」


 覗き込むように顔を寄せてくる。金色の髪が光を受け、蒼真の視界の端で揺れた。


「……いえ、重くありません」


 反射的に否定すると、ルミエールは満足そうに頷いた。


「よろしい」


 そして、少しだけ表情を柔らかくする。


「私にとって、蒼真は理想の彼氏だったよ。ありがとう」


 言い終える前に、ルミエールは距離を詰めた。


 抱きつく感触。香り。温度。


 蒼真は反応する暇もなく、唇に軽い圧が触れた。


 ――キス。


 ほんの一瞬。


 だが、思考が止まるには十分だった。


 ルミエールは離れると、何事もなかったように微笑んだ。


「また教室でね」


 くるりと踵を返し、颯爽と去っていく。背中はいつも通り美しく、迷いがない。


 蒼真は取り残された。


 廊下の真ん中で、ぽかんと口を開けたまま、動けない。


(……恋人ごっこ、終わったんだよな?)


 自分に言い聞かせるが、唇の感覚が否定してくる。


 遠ざかる足音の先で、ルミエールは一度だけ振り返った。目が合う。


 そして――いたずらっぽく、ほんの少しだけ口角を上げる。


 蒼真は慌てて視線を逸らした。


(……何をやってるんだ、俺は)


 結局、答えは出ないまま、蒼真は教室へ向かった。



 それから数日。


 学園の空気は、確かに落ち着きを取り戻していた。


 噂話は残っている。だが、それはいつも通りの“刺激”として消費され、日常の会話の隙間に埋もれていく。


 教室の朝は賑やかだった。


 机を引く音、紙の擦れる音、笑い声。窓の外では中庭の噴水が静かに水を落としている。


 蒼真は自席に座り、肘を机についた。


 眠い。


 夜更かしをしたわけではない。だが、頭のどこかが休んでいない感じがする。


 校長の笑い方。ルミエールのキス。医務室の封鎖。新任の教師の噂。


 考えるべきことは多い。


 なのに、表面上は「普段」が続く。


(……こういうのが、制度なんだろうな)


 蒼真がぼんやりと思っていると、教室の前方でざわめきが少し強くなった。


 中心にいるのは、ルミエールだ。


 いつも通り気品のある姿勢で、数人の女子生徒に囲まれている。


「ねえ、ルミエール」


 平民の女子生徒――マルグリットが、妙に慎重な声で切り出した。


「蒼井くんと付き合ってたのって、嘘だったって本当?」


 その瞬間、教室の空気が一段だけ静まった。


 直接聞こえないふりをしていた会話が、ぴたりと止まる。視線が、さりげなくそちらへ集まる。


 ルミエールは動じない。


 むしろ、用意していた答えを取り出すように、穏やかに微笑んだ。


「ええ。ちょっと訳があって、付き合っている“ふり”をしてもらっただけよ」


「えっ!?」


 大きく声を上げたのは、赤髪のフレイアだった。


「そうなの!? てっきり本気だと思ってたんだけど!」


 火属性らしく反応が早い。悪意がないからこそ、容赦がない。


「だってさ、蒼井ってば事件のとき、めちゃくちゃ必死だったじゃん」


「……聞こえてるぞ」


 蒼真は机に突っ伏したまま、小さく呟いた。


 フレイアは振り向き、けろっとした顔で言う。


「聞こえてていいんだよ。事実だもん」


 それは、褒め言葉なのか、からかいなのか。


 蒼真は返事をしなかった。


 視線だけが重くなる。


 そこへ、腕を組んだ銀髪のセレナが、淡々と口を挟む。


「偽装交際だったとしても、結果的に貴族令嬢の安全確保に成功したのなら、合理的な判断ね」


 言い切ってから、少しだけ眉を寄せる。


「……感情的でなければ、だけど」


 蒼真は顔を上げず、短く息を吐いた。


 フレイアが首を傾げる。


「感情的じゃなかったの?」


「見れば分かるでしょう」


 セレナの視線が、一瞬だけ蒼真の方へ向く。


 蒼真は眠そうに目を細めたまま、視線を合わせない。


 そこへ、控えめな声が混ざった。


「でも……」


 アリシアだった。


 いつもルミエールの傍にいる彼女は、今日は少しだけ表情が柔らかい。まだ完全に回復したわけではないはずなのに、言葉を選びながらも、前へ出ようとしている。


「蒼井さんがいなかったら……私も、ルミエール様も……」


 言葉が詰まり、アリシアは視線を落とした。


「……“ふり”だったとしても、私にとっては……本当に救われた時間でした」


 教室の空気が、もう一段静まる。


 誰もが、あの日の“重さ”を思い出したのだろう。


 ルミエールはアリシアの肩に手を置き、柔らかく言った。


「ありがとう、アリシア」


 そして、少しだけ声の調子を変える。


「でもね。だからこそ……もう、“ふり”のままではいられないの」


 フレイアが目を丸くする。


「え? どういうこと?」


 ルミエールは答えない。


 ただ、蒼真の方を見る。


 蒼真は机に肘をついたまま、半分眠ったような目で彼女を見返した。


 口は開かない。


 だが、視線だけで、何かが伝わる。


(……また、俺の知らないところで話が進んでるな)


 蒼真はそう感じながらも、あえて何も言わなかった。


 そのとき、教室の扉が開く。


「着席しなさい。授業を始める」


 教員の声が響き、会話は強制的に中断される。


 ルミエールは、委員長の顔に戻った。


「さあ、皆さん。授業が始まりますわよ」


 言いながら、もう一度だけ蒼真を見る。


 言葉はない。


 それでも、視線だけで『続きは後で』と言われた気がした。


 蒼真は、小さく頷いた。



 放課後。


 学園の廊下から生徒の気配が引いていく時間帯。部活動の掛け声が遠くから響き、窓の外の空が少しずつ茜色に染まっていく。


 蒼真は、いつものように図書室へ向かった。


 ここは、唯一と言っていいほど、余計な噂が薄まる場所だ。静けさの中では、言葉は嘘をつきにくい。


 図書室の扉を押すと、紙とインクの匂いがする。


 机に座り、ノートを開く。


 ――数分。


 集中が途切れたのは、奥の棚から聞こえた声のせいだった。


「九条、上の段を頼む。今日中に戻しておきたい」


 図書委員長らしい、男子の淡々とした指示。


「はい」


 返事は、澄んだ声。


 蒼真が顔を上げると、黒髪に眼鏡の少女が、踏み台を動かしているところだった。


 九条リリア。


 普段は本の影に溶けるように存在しているのに、こうして動くと目を引く。整った所作。長い髪。眼鏡の奥の冷静な瞳。


 そして――その体のラインが、制服の下でも隠しきれない。


(……あれで図書委員か。大変そうだな)


 蒼真が余計なことを考えている間に、リリアは踏み台に上がり、高い棚へ本を差し込んだ。


 背伸びをして、もう一冊。


 さらにもう一冊。


 手際は良い。


 だが、最後の一冊を押し込んだ瞬間、棚の上の別の本が、わずかに傾いた。


 紙の擦れる小さな音。


 それが、妙に大きく聞こえた。


(……落ちる)


 蒼真は椅子を蹴って立ち上がった。


「危ない!」


 リリアが踏み台から降りようとした瞬間、上から本が滑り落ちてくる。


 蒼真は反射的にリリアの肩を抱き、体ごと引いた。


 次の瞬間、二人は床に倒れ込む。


 どさり、と鈍い音。


 本は別の場所に落ち、紙が舞った。


 蒼真はリリアを覆うような姿勢で止まり、すぐに体を浮かせる。


「大丈夫か」


 リリアは目を瞬かせ、数拍遅れて頷いた。


「うん……蒼井くん、ありがとう」


 ほっと息をついた、その瞬間だった。


 リリアの腕が、蒼真の背中に回った。


 ぎゅっと、抱きしめられる。


 そして、リリアは突然、泣き出した。


 声を抑えようとしているのに、肩が震える。涙が眼鏡の縁に溜まり、頬を伝って落ちていく。


 蒼真は、動けなくなった。


「……どこか、打ったか」


 まず確認すべきことはそれだ。


 リリアは首を振る。


「違うの……」


 声が掠れている。


「最近、怖いことがあって……」


 蒼真は、ゆっくりと体を起こし、リリアの肩に手を置いた。


「怖いこと?」


 リリアは小さく頷き、涙を拭おうとして眼鏡に触れた。指が震えて、うまくいかない。


 蒼真は無言でハンカチを差し出した。


 リリアは受け取り、困ったように笑った。


「……かっこ悪いね。私、こういうの、得意なはずなのに」


「得意なはず、で片付かないこともある」


 蒼真がそう言うと、リリアは少しだけ目を見開いた。


 そして、恥ずかしそうに視線を逸らす。


「……蒼井くん、こういうとき、優しいんだね」


「事実確認のためだ」


「ふふ。そう言い切るの、ずるい」


 泣き顔のまま笑う。


 蒼真は、少しだけ咳払いをした。


「ここだと目立つ。移動しよう」



 人の少ない場所へ移動した。


 図書室の隣にある小さな閲覧スペース。窓際に机が二つ。夕陽が差し込み、埃が金色に舞っている。


 リリアは椅子に座り、深呼吸を繰り返していた。


 蒼真は自販機――ではなく、図書室の端に置かれた小さな魔導販売箱へ向かい、二本の瓶を取り出す。


 片方は、透明な液体の中に微細な光が浮かぶ。


 もう片方は、淡い翠色の茶で、ふわりと落ち着く香りがした。


 蒼真はそれを持って戻り、リリアの前に並べる。


「どっちがいい?」


 リリアが涙の跡の残る顔で覗き込む。


「……なにそれ」


「星糖サイダー。飲むと口の中が少しだけ光る。こっちは静霊茶。落ち着くって書いてある」


 リリアは、少しだけ笑った。


「魔法学園っぽい……」


「選べ」


「じゃあ……静霊茶」


 蒼真は瓶を渡す。


 リリアは両手で受け取り、少しずつ飲んだ。


 肩の震えが、ゆっくりと収まっていく。


 蒼真は向かいの席に座り、星糖サイダーを開けた。確かに、泡の中に小さな光が混ざっている。


「……落ち着いたか」


 リリアは頷いた。


「うん。ごめんね、急に」


「謝る必要はない。さっきのは……危なかった」


「それもそうだけど……」


 リリアは瓶を握ったまま、視線を落とす。


 言葉が喉の奥で引っかかっている。


 蒼真は急かさず、待った。


「怖いことって……この前言ってた相談と関係あるのか?」


 リリアの肩が、わずかに揺れた。


 そして、ゆっくりと顔を上げる。


 眼鏡の奥の瞳は、泣いたあとでも澄んでいた。だが、その澄み方がどこか硬い。


「……うん」


 それだけ。


 その一音に、これから始まるものの重さが、静かに詰まっていた。


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