第23話 恋人ごっこの、そのあとで
第23話 恋人ごっこの、そのあとで
◇
校長室の扉が閉まった瞬間、空気が変わった。
厚い木の扉の向こうに残されたのは、静かな笑みと、言葉にしない決定事項。廊下に戻っただけで、胸の中に詰まっていたものが少し軽くなる。
それでも、完全に日常へ戻れるわけではない。
石造りの廊下を歩く靴音が、やけに大きく響く。遠くでは授業の鐘の余韻が鳴り、学園は「いつもの一日」を再開しようとしていた。
並んで歩くルミエールは、いつものように背筋を伸ばしている。だが、その歩幅は少しだけ速い。
解放された――そう口にしたい気持ちを、体が先に表しているのだろう。
「これでやっと、自由だわー」
明るい声。
ルミエールは両手を軽く上げ、空気を払うように笑った。
「蒼真、恋人ごっこもこれで終わりね」
それを聞いて、蒼真は一歩遅れて頷いた。
「そうか……そうだな」
返事は淡い。
終わりと言われれば終わりだ。最初から、そういう“構造”だった。役割としての彼氏。周囲の目を逸らし、相手の手が伸びるのを止めるための仮の関係。
――それが終わった。
頭では分かる。
なのに、胸の奥に残るものがある。
「なによ、嬉しそうじゃない。失礼しちゃうわ」
ルミエールは歩きながら、横目で蒼真を見た。
「いや、そういうことでは……」
「じゃあ、なによ」
問いは軽く見せかけて、距離が近い。
蒼真は視線を前に向けたまま、言葉を選んだ。
「ルミエールさんの彼氏は……俺では荷が重いというか」
ルミエールの足がぴたりと止まる。
「重かったの?」
覗き込むように顔を寄せてくる。金色の髪が光を受け、蒼真の視界の端で揺れた。
「……いえ、重くありません」
反射的に否定すると、ルミエールは満足そうに頷いた。
「よろしい」
そして、少しだけ表情を柔らかくする。
「私にとって、蒼真は理想の彼氏だったよ。ありがとう」
言い終える前に、ルミエールは距離を詰めた。
抱きつく感触。香り。温度。
蒼真は反応する暇もなく、唇に軽い圧が触れた。
――キス。
ほんの一瞬。
だが、思考が止まるには十分だった。
ルミエールは離れると、何事もなかったように微笑んだ。
「また教室でね」
くるりと踵を返し、颯爽と去っていく。背中はいつも通り美しく、迷いがない。
蒼真は取り残された。
廊下の真ん中で、ぽかんと口を開けたまま、動けない。
(……恋人ごっこ、終わったんだよな?)
自分に言い聞かせるが、唇の感覚が否定してくる。
遠ざかる足音の先で、ルミエールは一度だけ振り返った。目が合う。
そして――いたずらっぽく、ほんの少しだけ口角を上げる。
蒼真は慌てて視線を逸らした。
(……何をやってるんだ、俺は)
結局、答えは出ないまま、蒼真は教室へ向かった。
◇
それから数日。
学園の空気は、確かに落ち着きを取り戻していた。
噂話は残っている。だが、それはいつも通りの“刺激”として消費され、日常の会話の隙間に埋もれていく。
教室の朝は賑やかだった。
机を引く音、紙の擦れる音、笑い声。窓の外では中庭の噴水が静かに水を落としている。
蒼真は自席に座り、肘を机についた。
眠い。
夜更かしをしたわけではない。だが、頭のどこかが休んでいない感じがする。
校長の笑い方。ルミエールのキス。医務室の封鎖。新任の教師の噂。
考えるべきことは多い。
なのに、表面上は「普段」が続く。
(……こういうのが、制度なんだろうな)
蒼真がぼんやりと思っていると、教室の前方でざわめきが少し強くなった。
中心にいるのは、ルミエールだ。
いつも通り気品のある姿勢で、数人の女子生徒に囲まれている。
「ねえ、ルミエール」
平民の女子生徒――マルグリットが、妙に慎重な声で切り出した。
「蒼井くんと付き合ってたのって、嘘だったって本当?」
その瞬間、教室の空気が一段だけ静まった。
直接聞こえないふりをしていた会話が、ぴたりと止まる。視線が、さりげなくそちらへ集まる。
ルミエールは動じない。
むしろ、用意していた答えを取り出すように、穏やかに微笑んだ。
「ええ。ちょっと訳があって、付き合っている“ふり”をしてもらっただけよ」
「えっ!?」
大きく声を上げたのは、赤髪のフレイアだった。
「そうなの!? てっきり本気だと思ってたんだけど!」
火属性らしく反応が早い。悪意がないからこそ、容赦がない。
「だってさ、蒼井ってば事件のとき、めちゃくちゃ必死だったじゃん」
「……聞こえてるぞ」
蒼真は机に突っ伏したまま、小さく呟いた。
フレイアは振り向き、けろっとした顔で言う。
「聞こえてていいんだよ。事実だもん」
それは、褒め言葉なのか、からかいなのか。
蒼真は返事をしなかった。
視線だけが重くなる。
そこへ、腕を組んだ銀髪のセレナが、淡々と口を挟む。
「偽装交際だったとしても、結果的に貴族令嬢の安全確保に成功したのなら、合理的な判断ね」
言い切ってから、少しだけ眉を寄せる。
「……感情的でなければ、だけど」
蒼真は顔を上げず、短く息を吐いた。
フレイアが首を傾げる。
「感情的じゃなかったの?」
「見れば分かるでしょう」
セレナの視線が、一瞬だけ蒼真の方へ向く。
蒼真は眠そうに目を細めたまま、視線を合わせない。
そこへ、控えめな声が混ざった。
「でも……」
アリシアだった。
いつもルミエールの傍にいる彼女は、今日は少しだけ表情が柔らかい。まだ完全に回復したわけではないはずなのに、言葉を選びながらも、前へ出ようとしている。
「蒼井さんがいなかったら……私も、ルミエール様も……」
言葉が詰まり、アリシアは視線を落とした。
「……“ふり”だったとしても、私にとっては……本当に救われた時間でした」
教室の空気が、もう一段静まる。
誰もが、あの日の“重さ”を思い出したのだろう。
ルミエールはアリシアの肩に手を置き、柔らかく言った。
「ありがとう、アリシア」
そして、少しだけ声の調子を変える。
「でもね。だからこそ……もう、“ふり”のままではいられないの」
フレイアが目を丸くする。
「え? どういうこと?」
ルミエールは答えない。
ただ、蒼真の方を見る。
蒼真は机に肘をついたまま、半分眠ったような目で彼女を見返した。
口は開かない。
だが、視線だけで、何かが伝わる。
(……また、俺の知らないところで話が進んでるな)
蒼真はそう感じながらも、あえて何も言わなかった。
そのとき、教室の扉が開く。
「着席しなさい。授業を始める」
教員の声が響き、会話は強制的に中断される。
ルミエールは、委員長の顔に戻った。
「さあ、皆さん。授業が始まりますわよ」
言いながら、もう一度だけ蒼真を見る。
言葉はない。
それでも、視線だけで『続きは後で』と言われた気がした。
蒼真は、小さく頷いた。
◇
放課後。
学園の廊下から生徒の気配が引いていく時間帯。部活動の掛け声が遠くから響き、窓の外の空が少しずつ茜色に染まっていく。
蒼真は、いつものように図書室へ向かった。
ここは、唯一と言っていいほど、余計な噂が薄まる場所だ。静けさの中では、言葉は嘘をつきにくい。
図書室の扉を押すと、紙とインクの匂いがする。
机に座り、ノートを開く。
――数分。
集中が途切れたのは、奥の棚から聞こえた声のせいだった。
「九条、上の段を頼む。今日中に戻しておきたい」
図書委員長らしい、男子の淡々とした指示。
「はい」
返事は、澄んだ声。
蒼真が顔を上げると、黒髪に眼鏡の少女が、踏み台を動かしているところだった。
九条リリア。
普段は本の影に溶けるように存在しているのに、こうして動くと目を引く。整った所作。長い髪。眼鏡の奥の冷静な瞳。
そして――その体のラインが、制服の下でも隠しきれない。
(……あれで図書委員か。大変そうだな)
蒼真が余計なことを考えている間に、リリアは踏み台に上がり、高い棚へ本を差し込んだ。
背伸びをして、もう一冊。
さらにもう一冊。
手際は良い。
だが、最後の一冊を押し込んだ瞬間、棚の上の別の本が、わずかに傾いた。
紙の擦れる小さな音。
それが、妙に大きく聞こえた。
(……落ちる)
蒼真は椅子を蹴って立ち上がった。
「危ない!」
リリアが踏み台から降りようとした瞬間、上から本が滑り落ちてくる。
蒼真は反射的にリリアの肩を抱き、体ごと引いた。
次の瞬間、二人は床に倒れ込む。
どさり、と鈍い音。
本は別の場所に落ち、紙が舞った。
蒼真はリリアを覆うような姿勢で止まり、すぐに体を浮かせる。
「大丈夫か」
リリアは目を瞬かせ、数拍遅れて頷いた。
「うん……蒼井くん、ありがとう」
ほっと息をついた、その瞬間だった。
リリアの腕が、蒼真の背中に回った。
ぎゅっと、抱きしめられる。
そして、リリアは突然、泣き出した。
声を抑えようとしているのに、肩が震える。涙が眼鏡の縁に溜まり、頬を伝って落ちていく。
蒼真は、動けなくなった。
「……どこか、打ったか」
まず確認すべきことはそれだ。
リリアは首を振る。
「違うの……」
声が掠れている。
「最近、怖いことがあって……」
蒼真は、ゆっくりと体を起こし、リリアの肩に手を置いた。
「怖いこと?」
リリアは小さく頷き、涙を拭おうとして眼鏡に触れた。指が震えて、うまくいかない。
蒼真は無言でハンカチを差し出した。
リリアは受け取り、困ったように笑った。
「……かっこ悪いね。私、こういうの、得意なはずなのに」
「得意なはず、で片付かないこともある」
蒼真がそう言うと、リリアは少しだけ目を見開いた。
そして、恥ずかしそうに視線を逸らす。
「……蒼井くん、こういうとき、優しいんだね」
「事実確認のためだ」
「ふふ。そう言い切るの、ずるい」
泣き顔のまま笑う。
蒼真は、少しだけ咳払いをした。
「ここだと目立つ。移動しよう」
◇
人の少ない場所へ移動した。
図書室の隣にある小さな閲覧スペース。窓際に机が二つ。夕陽が差し込み、埃が金色に舞っている。
リリアは椅子に座り、深呼吸を繰り返していた。
蒼真は自販機――ではなく、図書室の端に置かれた小さな魔導販売箱へ向かい、二本の瓶を取り出す。
片方は、透明な液体の中に微細な光が浮かぶ。
もう片方は、淡い翠色の茶で、ふわりと落ち着く香りがした。
蒼真はそれを持って戻り、リリアの前に並べる。
「どっちがいい?」
リリアが涙の跡の残る顔で覗き込む。
「……なにそれ」
「星糖サイダー。飲むと口の中が少しだけ光る。こっちは静霊茶。落ち着くって書いてある」
リリアは、少しだけ笑った。
「魔法学園っぽい……」
「選べ」
「じゃあ……静霊茶」
蒼真は瓶を渡す。
リリアは両手で受け取り、少しずつ飲んだ。
肩の震えが、ゆっくりと収まっていく。
蒼真は向かいの席に座り、星糖サイダーを開けた。確かに、泡の中に小さな光が混ざっている。
「……落ち着いたか」
リリアは頷いた。
「うん。ごめんね、急に」
「謝る必要はない。さっきのは……危なかった」
「それもそうだけど……」
リリアは瓶を握ったまま、視線を落とす。
言葉が喉の奥で引っかかっている。
蒼真は急かさず、待った。
「怖いことって……この前言ってた相談と関係あるのか?」
リリアの肩が、わずかに揺れた。
そして、ゆっくりと顔を上げる。
眼鏡の奥の瞳は、泣いたあとでも澄んでいた。だが、その澄み方がどこか硬い。
「……うん」
それだけ。
その一音に、これから始まるものの重さが、静かに詰まっていた。




