第22話 裁くのは誰か
第22話 裁くのは誰か
◇
扉が閉まる音を聞いた覚えはない。
蒼真は、部屋に戻ったところまでは記憶がある。医務室での緊張、張り詰めた空気、ルミエールやアリシアの表情、そして最後に見たエドガーの顔――それらが断片的に脳裏をよぎったところで、思考はぷつりと途切れた。
廊下の明かりが背中で遠ざかり、重たい体を引きずるようにしてドアノブを回した、そこまでだ。次の瞬間、意識は深い闇に沈んでいた。
そして、朝。
柔らかい感触が、胸の前にある。
半分眠ったままの蒼真は、それを枕か、抱き枕の類だと思い込み、無意識に腕を回した。疲労が抜けきらない体は、温もりを逃がさないように、自然と力を込めてしまう。
「……なんだ、このやわらかいの……」
自分でも聞き取れないほど小さな声。
その直後、もぞ、と何かが動いた。
「……ん……」
耳元で、確かに人の声がした。
蒼真は一気に目を開けた。
視界いっぱいに広がる金色の髪。近すぎる距離。布団の中で、向かい合うように横たわる人影。
「……え?」
同時に、相手も目を開く。
「おはよう、蒼真くん」
少し眠たげで、それでも柔らかい声。ユリウスはぱちぱちと瞬きをしながら、にこっと笑った。
状況を理解するまでに、数秒かかった。蒼真は反射的に体を引き、布団の端に転がるように距離を取る。
「な、なんで……」
「えっとね、昨日すっごく疲れてたんだよ。部屋に戻ってきたと思ったら、そのまま倒れ込んできてさ」
語尾が少し上がり、どこか甘えた響きが混じる。責める様子はまったくなく、むしろ心配そうだった。
「……俺、戻ってきてからの記憶が……」
「うん、無理もないよ。ずっと張り詰めてたでしょ? 見てて分かったもん」
事件の緊張、推理の連続、誰にも見せなかった集中。その反動が、一気に出たのだろう。
蒼真は顔が熱くなるのを感じ、咳払いでごまかした。
「……何もしてないよな?」
ユリウスは一瞬きょとんとしてから、少しだけ悪戯っぽく微笑んだ。
「えー? どうだろ。でもね、蒼真くん、ずっとくっついてたよ?」
「っ!」
蒼真は勢いよく布団を跳ねのけ、ベッドから降りた。
「からかうな」
「ご、ごめん……でも、ちょっと可愛かったから」
ユリウスは照れたように笑い、頬をわずかに染めている。
蒼真は深く息を吸い、胸の内を落ち着かせた。
(……日常に戻った、か)
そう思おうとしたが、腕に残る温もりの感覚は、なかなか消えてくれなかった。
◇
学園の朝は、いつもと同じようで、どこか違っていた。
廊下を歩けば、ひそひそと声を潜めた会話が、あちこちから聞こえてくる。誰もが直接的な言葉を避け、曖昧な噂話に終始している。
「聞いた? 医務室、封鎖されたって」
「先生が何かやらかしたらしい」
「貴族絡みで、大事になってるとか……」
どの話も断片的で、核心には触れていない。
真実はすでに明らかになったはずだった。だが、学園という巨大な組織の中では、事実はすぐに共有されるものではない。噂は歪み、形を変え、別の物語として広がっていく。
掲示板の前で足を止める生徒たちの視線の先には、簡素な文面が貼られていた。
《医務室担当教員 当面の職務停止について》
そこに名前はない。それが、かえって現実味を帯びさせていた。
(……終わった、わけじゃない)
蒼真は胸の奥でそう呟き、指定された時間に校長室へと向かった。
◇
校長室の扉の前に立った瞬間、ルミエールとアリシアの空気が明確に変わった。
普段は凛としているルミエールも、無意識のうちに背筋を正している。アリシアは手を胸の前で組み、小さく呼吸を整えていた。
(……そんなに緊張する場所なのか?)
蒼真が内心で首をかしげていると、扉が静かに開いた。
「入ってくれ」
穏やかな声が響く。
三人が中へ入ると、机の向こうに座る老紳士が、にこやかな表情で迎えた。
「また、君か、蒼井くん」
「すみません」
反射的に頭を下げると、校長は軽く手を振った。
「いや、怒っておらんよ。むしろ、褒めたいくらいだ。事件解決、ありがとう」
その言葉に、蒼真は戸惑いを覚える。褒められるようなことをした自覚はなかった。ただ、最短で被害を止めただけだ。
校長は続けて、ルミエールへと視線を向けた。
「すまんの、ルミエール殿。ワシは事実を知っておりながら、手を出さんかった……」
ルミエールは一瞬だけ言葉を失い、すぐに深く頭を下げた。
「いえ。私が自己解決できず、プライベートの問題を学園に持ち込んでしまったのが原因です。申し訳ありません」
「いやいや、許嫁などよくあることじゃ。問題ない」
校長の声は柔らかいが、軽くはない。
続いて、アリシアへ。
「アリシア殿も、助けてやれずすまんの」
「い、いえ……私がブローチをなくしたのが原因ですので……自業自得です」
その言葉に、校長は静かに首を振った。
「それなんじゃがな。ブローチは、なくしたのではないかもしれん」
校長は淡々と事実を整理する。
授業中の怪我。医務室へ付き添ったこと。そこで落とされたブローチ。そして、それが返されなかったこと。
責める言葉は一切ない。ただ出来事だけが、順序立てて語られていく。
「……アリシア」
ルミエールの声が震えた。
「ごめん……私の怪我のせいだった……」
「そんなことありません……」
二人は、これまで押し殺していた感情を抑えきれず、互いに抱き合った。
校長はその様子を静かに見守り、やがて口を開いた。
「ルミエール殿、アリシア殿に、特に罰則はない。アリシア殿は被害者として扱う」
そして、蒼真へと向き直る。
「蒼井くん。君のやり方は、少々派手ではあったが……ワシの言うことは守ってくれておる」
「罰則はなしじゃ。今後も、学園の平和のために頼んだぞよ」
ルミエールとアリシアが、同時に蒼真を見る。
「蒼真、校長先生になにを頼まれてるのよ」
「……守秘義務だ」
「ほほほ」
校長は意味深に笑った。
◇
校長室を出ると、張り詰めていた空気が、ゆっくりとほどけていった。
重厚な扉が背後で閉まる音は、外の廊下に出た途端、まるで別世界の出来事のように遠くなる。学園の石造りの廊下には、いつも通りの足音とざわめきが戻ってきていた。
それでも、蒼真の胸の奥には、校長室に残してきた“重み”のようなものが引っかかっている。
数歩歩いたところで、蒼真は足を止め、ぽつりと口にした。
「……校長先生って、もしかして、すごい人なのか?」
自分でも、なぜ今さらそんなことを聞いたのか分からなかった。ただ、あの部屋に流れていた空気が、普通のそれではなかったのは確かだ。
「さっき、二人とも……ずっと緊張してたように見えて」
ルミエールとアリシアは一瞬、言葉を失ったように顔を見合わせた。そして、まるで『そこからか』と言いたげに、小さく息を吐く。
「もしかして、じゃないわ」
ルミエールは即座に言い切った。その声には、先ほどまでの張りつめた硬さではなく、どこか当たり前の事実を告げるような響きがあった。
「校長先生は……この魔法学園そのものと言っていい人よ」
続けて、アリシアも頷く。
「学園で、校長先生を知らない人はいません……いえ、知らない“ままでいられる人”がいない、と言った方が正しいかもしれません」
蒼真は思わず眉をひそめた。
「どういう意味だ?」
ルミエールは、廊下の高い天井を見上げるようにして、ゆっくりと言葉を選び始めた。
「この学園ができる前、この国は今よりずっと不安定だったの。魔法は力で、力は争いの道具だった」
貴族同士の小競り合い。派閥争い。精霊との契約を巡る衝突。
「校長先生は、その時代を生き抜いた人よ。前線に立って、魔法を振るった英雄……そう語られることもあるわ」
アリシアが、少しだけ声を潜めて続ける。
「でも、ただ強いだけじゃありません。戦いの中で、たくさんのものを失ったとも聞きます」
ルミエールは頷き、さらに言葉を重ねた。
「戦争を終わらせたあと、校長先生は言ったそうよ。『魔法を学ぶ場所がなければ、争いは繰り返される』って」
それが、魔法学園設立のきっかけだった。
力を持つ者が、力の使い方を学ぶ場所。
魔法を、支配や破壊のためではなく、秩序と生活のために使う場所。
「校長先生は、自分が前に出続けることをやめたわ。代わりに、学園という“仕組み”を作った」
ルミエールの声は、どこか誇らしげで、同時に畏敬を含んでいた。
「それ以来、校長先生は表に立たない。命令もしない。ただ、見ているだけ」
その言葉に、蒼真は校長の穏やかな笑顔を思い出す。
(……見ている、か)
アリシアが、小さく付け加えた。
「だからこそ、校長先生の前では……皆、緊張するんです。何を知っていて、何を知らないのか、誰にも分からないから」
蒼真は、校長室での一つ一つの言葉を反芻した。
責めない。
裁かない。
ただ、事実を並べ、判断を下す。
(……あの人は、正義の味方じゃない)
(でも、無関心でもない)
だからこそ、あの場に立っている。
「……なるほどな」
蒼真は短くそう呟いた。
(俺がやったのは、現場で止めただけだ)
(その先を引き受けるのが、校長で……学園ってわけか)
自分が踏み込んだ場所と、踏み込まなかった場所。その境界線が、少しだけはっきりした気がした。
その頃、医務室では、見慣れない女性教師が静かに机を整えていた。
白衣の裾を整え、棚に並ぶ薬瓶の位置を一つ一つ確かめていく。その動作は無駄がなく、どこか洗練されている。
彼女はふと、窓の外に視線を向けた。
学園の中庭。行き交う生徒たち。
何も異変はない。
それでも、その視線だけが、わずかに鋭く光った。
日常は続く。
だが、その裏側で、確かに何かが動き始めていた。




